序章 猟豹と戦乙女
戦乙女のセオリー
序章 猟豹と戦乙女
群雲が緩やかな春風に流され、中天に浮かぶ半月の姿を隠していく。
ヒースの稼業にとっては最適な夜だった。
寝苦しい真夏の夜は人々の眠りも浅くなりがちであるし、冬の寒さは肝心の手指の働きをわずかながら鈍らせる。
その点、穏やかな春と涼しい秋は仕事にはうってつけの季節だ――というのが彼の師匠の口癖だった。
ヒースは小柄ながら無駄な肉の無い、締まった身体をしている。肩まで伸ばしたクセの無い金髪と碧眼は、大陸で最も多い中央人の血が色濃いという証であろう。
もっとも彼自身は、実の両親の顔も名前も知らない。
師匠に拾われるまでの彼は、大陸中央に位置する帝都のスラム街で同じ境遇の孤児たちと共に、泥と埃に塗れて生きてきた。
(さて、そろそろ行くか)
黒装束に身を包み、昼間ずっと身を潜めていた河原沿いの廃屋から外に出る。
装束と同色の頭巾は目元だけが開けられていて、そこから切れ長の眼が静かな光を放っていた。
きしむ木扉を慎重に閉め、周囲の気配を窺う。辺りには廃屋とボロ小屋が不規則に立ち並んでいた。住人もいないわけではないが、いずれも灯りを消してひっそりと眠りについているようだ。
猫のように静かな足取りで素早く土手を駆け上がり、そのまま河沿いの小道を走り始める。
目指すは、この近隣で名の知れたハリーの屋敷だ。
ここ数年、強引なやり口でのしてきた高利貸しの男である。
暴利を貪り、悪評を垂れ流しまくっているが、一帯を束ねる地廻りの元締とつるんでいるため、誰も手出しできずにいたらしい。
大陸各地を気の向くままに流れ旅をしていたヒースであったが、その途中にこの話を聞きつけ、腹黒い悪党どもを懲らしめてやろうと考えたのだった。
ヒースは『猟豹』という通り名で知られる一匹狼の義賊だ。
堅気の人間を殺さず、女を犯さず、貧しき者からは奪わず。これが、盗みの師匠である先代の『猟豹』から受け継いだ『盗賊として守るべき最低限の三か条』だ。
これを守らないような兇賊が今の世では大半を占めているが、ヒースは愚直なほどこの掟を貫いている。まだ二十歳にもならない彼が、義賊・猟豹と呼ばれ、時にその仕事ぶりに庶民から喝采を浴びせられるのも、それによるものだ。
(さて、そろそろハリーの野郎の屋敷だな)
屋敷には、流れの吟遊詩人を装って数週間前から何度か出入りしている。彼は身軽さ・音も立てずに動く術・手先の器用さだけではなく、変装も得意であった。
屋敷の間取りや金庫の位置は、頭の中に叩き込んである。もちろん、外の警備に関しても周辺に潜んで探りを入れてあった。後はもう、実行あるのみだ。
(何だ?)
ヒースの目が険しくなった。
郊外に構えたハリーの豪奢な屋敷が間近に迫ったところで、彼の鋭敏な聴覚が男たちの怒声を捉えたのだ。
目を凝らすと、夜の闇の中で屋敷だけが一際輝いているように映った。微風に乗り、微かに焦げ臭い匂いも漂ってくる。
(火事か!)
速度を上げ、さらに近づいてみると、屋敷が黒煙を立ち昇らせていた。
侵入者を無言で圧するような、高い塀に囲まれた屋敷だった。
庭園と呼ぶよりも、森と形容した方が相応しいほどの木々を周囲に配した豪邸が、見るも無残な有様となっている。表口の門は開けられ、そこからハリーと共謀している元締の手下たちが、続々と屋敷に入り込んでいた。
(ああん? 仲間割れでもしやがったのか?)
人の気配の無い裏手から屋敷に近づき、軽々と跳躍して塀を乗り越える。
燃え盛る本宅に慎重に近づいていくと、派手な寝間着姿のハリーと、ゆったりとした長衣を纏った元締が何やら言い争っていた。
二人とも腹の突き出た中年男で、おまけにどちらも禿頭なので遠目には双子の兄弟のように見えてしまう。
どうやら元締は配下に消火作業の指示をしているようだった。それに対してハリーの方が「早くしろ」だの「手際が悪い」だのと文句を言っているらしい。
(弱ったな、これじゃ忍び込めそうにねえ)
怖いもの知らずのヒースではあるが、わざわざ火中に飛び込んで盗みを働く気にはなれない。うっかり煙に巻かれて命を落としたら、それこそ笑い話だ。
「うんうん、愉快痛快。我ながらよく燃えてるわね~」
唐突に背後から聞こえた声に、ヒースは驚愕して振り返った。
咄嗟に腰に差した小剣を抜き、身構える。
盗み仕事で殺しはしないヒースだが、官憲や同業者から身を護るために小剣と手裏剣は常に携帯していた。
振り返ると、黒いローブを纏った美女が満足げな笑みを浮かべて立っている。
「ごきげんよう、泥棒さん。いえ、『猟豹』のヒース君」
彼女がフードを外し、軽く会釈した。
肩の後ろまで伸ばした銀色の髪は、後ろで三つ編みに束ねられている。艶のある褐色の肌。涼やかな目には、場違いなほどの余裕が感じられた。
「……あんた、何者だ?」
胸の鼓動を抑え、短く尋ねた。
彼女が只者ではないということは、その全身から放つ気が如実に物語っている。
「うふ、自己紹介はまた後でね。今はただ、貴方の敵ではない、とだけ言っておきましょうか」
桜色の唇に笑みをたたえたまま、彼女は静かに答えた。聴く者を惹きつけずにはいられないような、透き通った魅力的な声だった。
「おい、何だお前らは!」
炎上する屋敷の消火にあたっていた配下の一人が、ヒースたちに気づいた。
舌打ちし、低く態勢を落として構えるヒースを、彼女が手で制する。
「悪いけど、この場は私たちに仕切らせてもらうわ」
ヒースが答える間も与えず、彼女は殺気立った配下数名に悠然と歩み寄った。
手にした杖で地面を軽く叩き、唄うような口調で聞き慣れない言葉を紡ぐ。
(魔女か!)
背筋に寒気が走った。
魔術師、あるいは魔女と呼ばれる彼女らは人外の存在に力を借り、無から有を生み出すとされている、異端の存在だ。特殊な才を要するため、大陸全土にもわずか数百名ほどしかいないという。
「うわっ! 何だこりゃ!」
若い衆がおののき、後ろに飛び退った。
彼らと魔女の間に突如、青白い不気味な炎が現れ、行く手を阻んでいた。
進むべきか否か躊躇する間に、魔女が自らの唇に細長い指を当てる。
甲高く長い音がその美しい唇から洩れた。
何者かに対する合図だ、とヒースは直感した。
その口笛が響き渡るやいなや、開け放たれていた正門に数十名の人影が現れた。
彼らは庭に入ると、素早く横に広がって列を組み、小走りに元締と配下に迫る。
(ん、何だ、こいつらは?)
皆、一様に黒い頭巾で顔を隠し、腰には大きな布袋を提げていた。
首から下は、普通の農夫や町人のような風体をしている。
だが、魔女の合図に呼応する一糸乱れぬ動作は、訓練された者のそれだった。
魔女が再び口笛を吹く。今度は短かった。
それを合図に、黒頭巾たちが一斉に元締と配下に何かを投げつけた。
元締を取り囲むように集まっていた配下たちが、悲鳴をあげる。
(石つぶてかっ!)
商売柄、夜目の利くヒースはすぐにそれと知ることができた。石といっても、拳ほどの大きさだ。これを全力で投げつけられては、たまったものではない。
投げ終えると同時に、魔女が再度口笛を長く吹いた。
石を投げた連中がそれに呼応し、左右二手に散開する。
同時に、やはり同じような黒頭巾の十名ほどの一団が正門から入ってきた。今度の連中は、全長三メートル程の長槍を手にしている。
長槍組は、やはり投石組と同様に訓練された動きをしていた。違う点としては、皮をなめした軽易な鎧などを身につけていて、若干投石組よりは武装度が高いところだろうか。
投石で算を乱した元締たちは、新手の敵の出現にも対応しきれていなかった。運悪く頭に直撃したのか、芝生の上で膝を折っている者もいる。
魔女が口笛を短く吹く。
長槍組の面々が足を止め、手にした得物を正面に突き出した。二手に分かれた投石組はそのまま静かに移動し、長槍組を左右から挟むような陣形になった。
魔女がもう一度短く口笛を吹くと同時に、投石組が再び石つぶてを放つ。
月明かりと炎で、ある程度の視界はあるといっても、夜のことである。
しかも、二方向から全力で投げつけられる石を避けるのは容易なことではない。盾でも持っていればまた別の話だが、そもそも屋敷の消火に駆けつけた連中にそのような備えがあるはずも無かった。
容赦のない石弾から元締を庇おうとした一人が、直撃を受けて倒れる。
態勢を立て直す暇も与えず、長槍組が隊列を整えて前進した。
その鈍く光る穂先に元締たちがおののき後退しようとするが、その背後ではハリーの豪邸が燃え盛っている。逃げ場は無い。
「くそっ、てめえら退くんじゃねえ! 突き破るぞ!」
窮地に追い込まれた元締が、ドスの効いた声で配下を鼓舞した。
(まずいな)
さすがに修羅場慣れしている、とヒースは素直に感心した。
追い詰められた時こそ反撃の機会だ。前に進むしか活路が無い、と決死の覚悟をした者は強い。
黒頭巾たちは、指揮を執る魔女を除けば、長槍組が十名、投石組が二十名ほどだ。
それに対して元締側は投石で昏倒、あるいは死んでいる者を除いて現時点で動けるのが二十名程。加えてハリーの護衛らしき男たちが五名の、計二十五名。
奇襲を仕掛けたとはいえ、戦力的に見ればようやく互角といったところだろう。
だが――黒頭巾たちを指揮する美貌の魔女、彼女の正体がヒースの推察通りだとすれば、この状況も当然ながら織り込み済みであろう。
「皆の衆、怯むなっ! 貴方たちには『白銀の戦乙女』がついているぞ!」
魔女の凛とした声が辺りに響き渡った。
その一声は、黒頭巾たちを勇気づけ、元締たちの心胆を寒からしめた。
「なっ、『白銀の戦乙女』だとっ! な、なんでお前が…」
「貴様らのような不義の徒を討ち、良民を助く、それが私の侠道だ!」
元締の悲鳴にも似た叫びを、魔女が一喝し杖を振るった。
鞘から抜かれた杖が、鈍い銀色の輝きを放つ。柄に意匠を施された仕込み杖だ。
(ははっ、やっぱり『白銀の戦乙女』か!)
褐色の肌に銀髪、仕込み杖を振るう魔女と言えば、彼女しか考えられない。
生ける伝説とも称される彼女との邂逅に、興奮を抑えることができなかった。
「お前らは、暴利を貪り庶民を苦しめる悪徳商人・ハリーと結託し、罪なき人々を殺め、少女たちを苦界に堕とし、私腹を肥やしてきた。その悪行、許しがたし! 仁義の神の名にかけて、お前ら外道を地獄へと送る!」
よどみない口調のまま仕込み杖を構え、元締たちに歩み寄った。
黒頭巾たちがそれに呼応し、一斉に雄叫びを上げた。気勢に乗り、長槍組が穂先を揃え、じわりじわりと間合いを詰める。
投石組も手に石を握り、いつでも投げつけられる態勢をとりながら迫った。
(凄ぇ。これがあの、『白銀の戦乙女』の戦いか……)
ヒースは内心、舌を巻いた。
魔女の名はルカ・マイヤーズ。
裏社会では『白銀の戦乙女』の通り名で呼ばれている。
どこの組織にも属することなく、放浪の旅を続けている女侠客だ。
刀術・魔術を操るということでも恐れられているが、それ以上に彼女の名が裏社会に轟いているのは、彼女が非常に『戦上手』であるという点だ。
古今の兵法に通じ、元締同士の抗争などにおいても、その戦略・戦術眼を買われて指揮を任されることが多い、と聞いたことがある。
『戦乙女』という異名もそれに拠るものだ。
彼女が味方した勢力は決して敗れることがない、とまで言われている。
ひたひたと迫る長槍の穂先。
それに気を取られていると、左右から石が放たれる。
追い詰められた若い配下の中には、恐怖に震えて泣き出す者までいた。
「武器を捨て、大人しく降伏しなさい!」
ルカがその様子を気取ったように、鋭く声を放つ。
(はは、さすがに絶好のタイミングだな)
戦いを傍観していたヒースは、敵の心理を読み取った彼女の指揮に感心した。
恐怖でパニックを起こしている相手に、そっと逃げ道を与える。
味方の犠牲を最小限に抑えて勝利するには、最適な方法だ。
一人が降伏し、命を救われることになれば、残る連中もそれに倣おうとする。降伏など拒む剛毅な者の心にも、わずかに迷いが生まれるだろう。
逆にこの一人目を容赦なく殺してしまうと、残る全員に決死の覚悟を固めさせてしまうし、あまり早いタイミングで降伏を迫っても効果は薄い。かえって、相手の闘志を煽る可能性もある。
案の定、配下の一人が武器を捨て、芝生に身を投げ出すようにして倒れこみ、ガタガタ震えながら命乞いをした。
それに呼応し、別の一人が同じように降伏の態度を示す。元締が彼らを怒鳴りつけたが、もはやその声に彼らを押し留めるだけの力は無かった。
次々に武器を捨てる彼らの様子に、観念した元締が膝を折った。
(あの元締は分かっているんだろうな、てめえ達がどんな目に遭うのかを)
ルカは「降伏しろ」とは言ったが、「命は助ける」などとは一切保証していない。彼もその配下も、その悪行の報いを嫌というほど思い知らされることだろう。
もちろんヒースに、同情する気持ちなどなかった。
ふと気になり、この戦いの指揮を執ったルカに目を向ける。
彼女の表情には、勝利に浸る余韻などは微塵も感じられなかった。
背筋をぴんと張った姿勢で、得物を敵に突きつける長槍組と、一人ずつ荒縄で厳重に縛り上げていく投石組の様子を見つめている。
ようやく全員が縛り上げられると、ふっとその表情が和らいだ。
その満足げな笑みは、確かに勝利を招く戦乙女そのものだな、とヒースは思った。
(こりゃまた、なかなか良いものを拝むことができたぜ)
――ただ一つ残念だったのは――ハリーの屋敷に眠る財貨を盗み出せなかったこと、ただそれだけであった。
この時を境に、ヒースは『白銀の戦乙女』ルカと共に死線を越えていくこととなる。
(第一章 戦端 に続く)