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1.善き母親 ~A witch incubates~

今日のお客様は、子供を亡くした母親でした。母親はボロボロのローブを纏い、大きなボロボロの布包みを抱きかかえていました。

真円の家に入るなり、母親はイングリッドに駆け寄りました。そして、安楽椅子に腰掛けたままの彼女の足元に、縋り付くように崩れ落ちます。


「ああっ! 魔女イングリッド!! お願いですお願いです!! どうかこの子を、私の子供を生き返らせて!!!」


母親はそう泣き叫びながら、抱えていた布の包みを開きました。

覗いたのは、小さな男の子の顔。しかしその肌は土気色で、唇はカサカサ。目蓋はピクリとも動きません。

男の子は死んでいました。病死でした。


「お願いです、お願いだから……」


嗚咽を漏らし、懇願する母親。その様子を見つめながら、イングリッドはおもむろに円卓の上に置いてあったインク瓶を手に取りました。そして、それを顔のあたりまで上げたかと思うと、突然手首を返してインク瓶を逆さまにひっくり返しました。

そのインク瓶には、蓋がありませんでした。当然、蓋のない瓶口からはインクが(こぼ)れ、ちょうどその真下にあった男の子の顔がインクで真っ黒く――――――染まりませんでした。


インクは、零れ落ちなかったのです。

いえ正確には、瓶からは“銀色”のインクが確かに流れ落ちました。しかし、銀のインクは床に落ちることはなく、ふわふわと宙に浮かんでいたのでした。


世の(ことわり)に沿わぬ、銀の雫――


それは数秒の間、踊る様に形状(かたち)を変えながら空中を漂っていましたが、やがて何かを形作り始めました。

それは文字。煌めく銀の文字列が、母親の目の前で(つづ)られていきます。


――イングリッドは、話すことが出来ません。

いえ正確には、声を出すことが出来ませんでした。

それゆえ、この銀のインクこそが、イングリッドの“言葉”でした。


『私は“約束の魔女”イングリッド。あなたの願いを叶えましょう』


銀のインクは母親の顔の前で、そのような文を作りました。

あまりの不可思議な現象に、母親はイングリッドの“言葉”を読んでも、すぐにはその意味を飲み込めないようでした。ですがそれも数瞬、言葉の意味を理解した途端、母親の目からまるで滝のような量の涙が溢れ出しました。そしてもはや慟哭にも近い声で「ありがとうありがとう」と、何度も何度もイングリッドにお礼を言い続けました。

やがて、母親がようやく落ち着き始めると、銀のインクは再び姿を変えました。


『私は魔女。先程も言った通り、あなたの願いを叶えることが出来ます。ですがその為に、あなたは私と一つ約束をしなければいけません』


「約、束……?」


インクを読んだ母親が呟きました。しかし、もうその瞳に動揺はありません。


「分かりました、約束します」


母親は凛とした声で、イングリッドの双眸(そうぼう)を正面から見据えて言いました。


『まだ、どんな約束なのかも教えていないのに?』


「どんな約束でも、この子を生き返らせてくれるなら……約束します。例え、この命を捧げることになろうとも」


イングリッドもまた、母親の双眸(そうぼう)を見据えています。

その青い瞳には、揺るぎない決意の炎が灯っていました。


そのまま数秒見つめ合ってから、イングリッドは目を伏せます。

それ以外は、相変わらずの無表情……彼女の顔から、その心情は読み取れません。


『……あなたは、本当に()いお母様なのですね』


銀の文字が躍ります。


『あなたは、一番大切なモノを私に差し出さなければいけません。その一番大切なモノと引き換えに、あなたの願いを叶えましょう』



『それが、あなたと私の約束です』



「ハイ、“約束します”」


イングリッドが、目を開けます。その視線は、両目とも真っ直ぐ母親に注がれていました。


『そう……ええ、では、“約束しました”』


イングリッドは母親から視線を外し、少し顎を上げて顔を天井に向けました。そしてスゥと、深く息を吸います。


『あなたの願いを、叶えましょう』


(うごめ)く銀。

イングリッドは下を向き、母親に抱えられたままの男の子に顔を寄せます。ほとんど触れ合っているような距離まで顔を近付け、フゥッ、と吸い込んだ息を吐きかけました。

瞬間、男の子の身体がビクンと跳ね上がりました。全身に血が巡り、見る見るうちに肌に血色が戻ります。呼吸が戻り、すやすやと寝息を立て始めます。

男の子は、生き返りました――――


「……あ、あぁぁぁ!! うぁぁあ!!! はっ、ぁぁ……息が、ある!! 脈がある!! あ、あ……あた、温かいぃぃぃ………………ぅぁぁぁぁぁあああ――――!!!!」


母親は押し潰さんばかりに男の子を抱きしめ、再び泣き叫びました。しかし、今度のそれは悲しみに暮れたものでなく、心からの歓喜によるそれでした。

母親は、とてもとても長い間泣き続けました。ようやく落ち着きを取り戻した頃には、目蓋は熟れたトマトみたいに赤く腫れ、喉は砂漠より嗄れ果てていました。

がさがさに罅割(ひびわ)れた声で、母親はイングリッドに感謝の言葉を告げます。


「あぁ、イングリッド様、約束の魔女様……本当に、本当にありがとう!! ありがとう、ありがとう――」


何度も何度も礼を言う母親。喜びに咽び泣くその姿を見ても、イングリッドは無表情のまま。まばたき一つせず、母親を見ていました。

そしてやがて、銀のインクがまたも形を変え始めました。


『あなたの願いは叶えました。もうこんな場所に用はないでしょう。さぁ、早く帰ってその子を休ませておやりなさい……』


「え……? でも、イングリッド……私はまだ、あなたに一番大切な物を渡していません」


『それはもう貰いま…』


銀のインクが文を作り終えないうちに、イングリッドは母親の手を取って立ち上がらせました。小さく寝息を立てている男の子をしっかりと胸に抱かせて、玄関へと歩かせます。


「もう貰ったって……あの、イングリッド?」


『それは、すぐに分かるでしょう……』


開けっぱなしになっていた扉の横に立ち、イングリッドは綴ります。


『さぁ、お行きなさい。ここを出て、とにかく真っ直ぐに。例え何が見えても、何が聞こえても、何が在っても、とにかく真っ直ぐに進みなさい。そうすれば帰れる筈です、あなた達の居るべき場所へ……』


「あ……あの、ありがとう! 本当にありがとうイング…」


母親の最後の言葉を聞き終えずに、イングリッドはバタンと扉を閉めました――――――






***


善き母親と約束を交わしてから一日。

午後の暖かな陽射しの中、イングリッドはいつものように安楽椅子に座ってうたた寝をしていました。

すると突然、激しい音とともに玄関の扉が開きました。そして、飛び込んでくる一つの影――


「あぁ!! イングリッド!!」


飛び込んできたのは、昨日の善き母親でした。顔は涙の豪雨にまみれ、よだれ鼻水を撒き散らし、目蓋は昨日よりも真っ赤に腫れて……そして胸には、布に包まれた子供を抱いていました。

一見、昨日の再現かと思われる母親の様子。しかし、母親には昨日と決定的に違う所が一つだけありました。

それは――


「お願いです、私の……私の娘を生き返らせてっ!!」


母親の抱いている子供が、女の子だということでした。


善き母親の子供は、“男女の双子”だったのです。


先日病死したのは、男の子の方……そして今回は、双子の女の子の方が死んでしまったのでした。

泣きじゃくる母親、土気色の死体。

イングリッドはそれらを無表情で見下ろしたまま、銀のインクを零します。そして、昨日と同じ約束を母親に突き付けました。

昨日と同じように、二つ返事で“約束”する母親。イングリッドが息を吹きかけると、女の子は息を吹き返しました。母親は歓喜し、イングリッドに礼を述べます――――


まさに、前日の焼き直し。違いといえば、生き返った子供が女の子だということだけ。母親は男の子が生き返った時と、同じように喜んでいました。この善き母親は、どちらの子供にも同じだけ、完全なる平等に最高の愛を注いでいたのでした。

喜び礼を言う母親を、イングリッドは玄関から送り出します。真円の家を一歩踏み出したところで、母親が振り返って言いました。


「それで、私の一番大切な物は……」


『それはもう貰いました』


バタンと、扉が閉められました――――――






***


そして、さらにその翌日。

太陽が中天に差し掛かる少し前の、穏やかな時間。イングリッドが安楽椅子から立ち上がり、紅茶を淹れようとポットに手を伸ばした時でした。


「イングリッドぉぉお!!」


ドォンと、まるで大砲さながらの轟音と共に、玄関扉を吹き飛ばさんばかりの勢いであの善き母親が訪ねてきました。

最初に真円の家を訪れた時と同じように、死体となった男の子を抱えながら、イングリッドに縋り付きます。

イングリッドは男の子を生き返らせ、母親を帰しました――――






***


その日の、真夜中過ぎ。

ギィィィと玄関の蝶番が静かに鳴き、真円の家に来訪者を告げます。

開いた玄関に浮かぶのは、月明かりに照らされたローブ姿。

そう、あの善き母親でした。胸に抱いているのは、彼女の娘。

母親は昼間とは正反対に無言で、安楽椅子に座るイングリッドにゆっくりと歩み寄ります。そして彼女のすぐ足元に膝を着くと、母親は顔を上げました。


――あぁ、そうそう。言い忘れていましたが、イングリッドの真円の家には天井に真円の天窓がありました。そしてその天窓は、丁度イングリッドの愛用する安楽椅子に光を注ぐような位置にあるのでした。

昼には陽の暖かさを、そして夜には……


冷たい月光に照らされて、母親の表情が露になります。目からは涙、そして瞳には……憎悪。

母親は枯れることのない涙を流し続けながら、怒りと怨みの感情でイングリッドを見つめていました。


「……娘がまた、死にました。怪我ではありません、病気でもありません。ただただ眠るように、死んでしまっていました。私が、“ここから戻る”と」


まばたき一つせずイングリッドを見つめながら、静かに、母親はそう言いました。

イングリッドはそれを聞いても表情を変えることなく、母親の視線を真っ直ぐ受け止めます。


「息子の時もそう……この子を生き返らせてもらって家に帰ると、息子がまた死んでいました。怪我でも、病気でもなく、ただただ死んでいました」


イングリッドは銀のインクを零します。


「あなたは言いました。私の“一番大切な物”と引き換えに、私の子供を生き返らせてくれると……」


『ハイ、そしてそれは…』


「“もう貰いました”と! あなたはそう言いました!! まるで、私を追い出すように家に帰しながら!! あぁ、そうやっぱり……私の一番大切な物、それは――」


『あなたの』


「私の」




『もう一人の子供の命』

「もう一人の子供の命っ!!」




母親は両目を飛び出さんばかりに開き、もはや言葉にならない叫び声を上げました。


「何で何でやっぱりあ゛ぁ何であなたがお前がお前が殺したの何で私の殺したお前がやったヤった殺った私の何で子供達をお前が殺したやっぱりお前が殺ったのかあぁぁ何で殺し何で何で何で何で何で――――!!!」


母親の怨嗟は、長い間続きました。以前、生き返った子供に歓喜した時よりも、長く長く、途切れることなく続きました。


喉が枯れ、開き過ぎた目蓋の端から血が滲むころになって、ようやく母親の呪いは途切れました。

赤く濁った涙を流しながら、母親は悲しげに懇願します。


「……お願いです、お願いします。私の命でも、何でも差し上げます。だから、だから……この子を、この子達を助けて……」


『それは出来ません』


母親の呪いにも、悲哀の懇願にも、一瞬たりとも目を背けることのなかったイングリッド。彼女の銀は、非情に無情に、母親の願いを切り捨てました。


「なぁっ、なん……でぇぇぇ…」


『それは、あなたが本当に善い母親だから』


文字に感情はありません、文字に感傷はありません。

イングリッドの代弁者、銀のインクは母親の約束を淡々と、淡々と綴ります。


『あなたは、本当に本当に良い母親。とってもとっても、善い母親。心の底から、自分の子供のことを、子供達のことを大切に思っている。双子のどちらも平等に、公平に、均等に。二人の子供に、同じだけの愛を注いでいた……世界中を探しても、あなたほど善い母親はいないでしょう』


「……そう、そうなの。ならっ、それなら!! 私の命でも何でも、この世界のありとあらゆる全てを捧げてもいい!! だから、だからぁ……お願い、お願いします。私から、子供達を奪わないでぇ…」


イングリッドは目を閉じ、首を横に振りました。


『だからこそ、あなたの子供達は生き返らない』


『一番大切なモノと引き換えに、一番大切なモノを取り戻す。それが、あなたと私の交わした約束』


『あなたは本当に善い母親。自分の命よりも、子供達の命が大切。そして双子のどちらにも、偏りのない最高の愛を注いだ。だからこそ、双子のどちらもあなたの一番大切な()


『例えあなたの命、あなたの人生、あなたの持つ物関わった者、その全てを差し出しても、あなたの子供には換えられない』


『“命”には“命”を、“一番”には“一番”を。それが、この世界の原初の(ことわり)。それが、あなたの願いを叶える唯一の条件……あなたの願いを叶える為には、もう片方の子供の命を犠牲にするしかないのです』


「そん、な……そんな、ことって…」


絶望に染まりかけた善き母親に、イングリッドは最後の言葉を容赦なく告げます。


『そう、あなたが最良で最高で最善の母親であるがこそ、あなたの子供達は生き返らないのです』


イングリッドの最後の言葉を読み終えると、母親はインクから視線を外しました。うつむき、うずくまり、土色にくすんだ我が子を抱きしめ、イングリッドの足元で震えていました。




「…………ない…」


うつむき、うずくまり、震えていた善き母親は、やがて震える声でぽつりと何か呟きました。


「……認めない」


母親の、身体の震えが止まりました。


「そんなの絶対、認めない」


もう、声も震えてはいませんでした。力強い、何かを決意した者の声色でした。


母親は音も無くぬるりと立ち上がり、安楽椅子に座るイングリッドを見下ろします。

その瞳は金、涙は黒に変わっていました。

強く強く、力を孕みはじめた声で、母親は約束の魔女に別れを告げます。


「こんな結末、私は絶対認めない……あなたにこの願いが叶えられないとしても、私は絶対、叶えてみせる。例え、この世の全てを滅ぼしてでも」


そう告げ、母親はイングリッドに背を向けます。するすると滑るように玄関へと移動し、触れてもいないのにその扉が開きます。

母親は一度も振り返ること無く、真円の家を後にしました。


イングリッドは目を伏せたまま、顔を俯けます。その顔には、母親が真円の家を訪れてから初めて、悲しみの感情が浮かんでいるように見えました――――――








数年後、双子の屍人(グール)を連れた金眼の魔女が、一つの国を喰い滅ぼしたそうですが…………それはまた、別のお話。


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