0.Ingrid is ・・・
イングリッドは魔女でした。
高い高い崖の上、真円の家に一人で棲んでいました。
イングリッドは誰にも会いに行けない。
そして、ここは高い高い崖の上……誰も、彼女を訪れることは出来ませんでした。
木造の、けっして大きくはない真円の家。
部屋は一つだけ。玄関の扉、埃のない食器棚、小さなキッチン、古びた暖炉―― 一人暮らしとはいえ、あまりにも簡素で質素な部屋。
そこに、イングリッドは棲んでいました。
部屋の中心に置かれた大きな円卓と、それに寄り添うように置かれた四つの椅子。
円卓の直径は一メートル半程、卓上にはティーポットにティーカップ、そして何故か小さなインク瓶が一つ置かれていました。
また四つの椅子の内、三つは背もたれのある四足の椅子でしたが、残りの一つはちょっと大きな安楽椅子でした。豪奢な装飾がほどこされている訳ではないのに、滑らかな質感、深みのある光沢、整った木目……それら全てが、素人目にも上質な一品だと分からせます。
その安楽椅子に、イングリッドは腰掛けていました―――
足元まで届きそうなほど長く、月の無い夜を紡いだかのような黒い髪。氷のような、透き通るほど白い肌。黒一色のワンピースに、純白のストール。長く細いまつ毛で瞳を覆い、まるで今しがた床に着いた死者のように、“約束の魔女”は眠っていました。
ここは、誰も訪れることの出来ない、高い高い崖の上。イングリッドの眠りを妨げる者はどこにもいない……筈でした。
コン、コン――
真円の部屋に、乾いた音が響きます。そして、まるで音がするのが分かっていたかのように、イングリッドの閉じられていた目蓋が、ゆっくりと開きました。
長いまつ毛が上がり、覗いたのは漆黒の瞳。
それはまるで、眼球に空いた穴のよう。光を呑み込む、虚ろで空っぽな黒い穴……
その瞳で、イングリッドは見つめます。円卓を挟んで、安楽椅子の向かい側。真円の家にただ一つ、開かれる筈のない玄関を。
ギィィ、と蝶番の軋む音。開かれた扉から、真円の部屋に光が差し込みます。
その光を背にして、浮かび上がるのは黒い人影。影はイングリッドに訊ねました。
「……あなたが、魔女イングリッドですか…?」
――――ここは、誰も訪れることの出来ない、高い高い崖の上。
でも実は、“ある条件に当てはまる人だけ”は、真円の家を訪れることが出来るのです。
イングリッドと約束を交わして、自分の願い事を叶えてもらうことが出来るのです。
さて今日のお客様は、一体どんな願い事を持ってきたのでしょうか……―