札幌6R 二歳新馬発走→歓喜の口取
新馬戦から一ヶ月が経過していた。あの後、札幌で連闘――二週続けてレースに出走するプランもあったようだが、俺の疲労を心配した土門が、美浦に戻ることを提案したのだ。
いつものように調教を終え、兼光に引かれて厩舎に戻って来た。
「だからダメだって言ってんだろ!」
土門の文句を言う大声が聞こえてきた。馬房の前で土門が誰かと言い合いになっている。
「いいじゃないですか! これでも記者ですよ! ちゃんと許可証も持ってます!」
土門に喰ってかかっているのは女性のようだ。競馬記者だと名乗っている。髪は茶髪でウェーブが効いている。短いスカートからは、肉づきの良い白い太ももが露わになっている。
「俺の厩舎は取材NGなんだよ! そもそも、お前みたいなケバい女は大嫌いなんだよ! 出直して来い!」
「ちょ、ちょっと何ですかそれ! 私の見た目は取材に関係ないでしょー!」
見兼ねた兼光が間に入る。
「調教師! 落ち着いて下さい! 取材くらいいいじゃないですか。管理馬が注目されてる証拠じゃないですか」
「このオジサンの言う通りよ! いいじゃないよー。ねー」
「おま、兼光さんをオジサンとか、うちの腕利きの厩務員だぞ」
「いやそう言われると照れますな。ところでお嬢さんはどちらの記者さん?」
兼光は満更でもない様子で、女性記者に質問をする。
「すみませんおじさま。私はホースセブンの記者、武村美春です。以後、お見知りおきを」
そう言った武村は、土門と兼光に素早く名刺を手渡した。土門と兼光は、武村の名刺に目を落とす。
「うわぁーこの子がホワイトウルフか!」
武村がヒールのコツコツとした音を鳴らして、俺の下へ歩み寄る。香水の甘ったるい匂いが俺の鼻腔を刺激する。鼻がムズムズしてきた。
よく見れば、確かに土門の言うようにバッチリとメイクをした武村はケバい……。バサバサの付けまつ毛に、大きめに縁取られたアイライン。口元には濃いめのルージュ。巻き髪と相待ったその姿は、夜の街に出勤するキャバ嬢のようである。
「こらっ! お前、どさくさに紛れてウルフに近付きやがって!」
土門が大股で、武村に近付く。
「いいじゃないですかー。ねーウルフくん」
武村は猫撫で声でそう言うと、俺にウインクをした。俺の周囲をグルリと回り、マジマジと俺を観察している。俺が馬だからって、よく平気でウインクなんて恥ずかしい真似ができるな。
「ウルフは気性が荒い馬だから初対面の人は気を付けて下さいよ」
兼光も武村に歩み寄り、注意をした。さすがに女性に噛み付いたりはしないさ。
「芦毛で、馬体は中々スマートなのねー。へー」
「どうしてウルフを取材しようと思ったんだー?」
土門は、煙草を取り出し、火をつけた。
「んー。一言で言えば、記者の勘かしら?」
「勘、ですか?」
兼光がキョトンとした顔をしている。
「ホワイトウルフは走りそうな気がしたのよ。デビュー戦で人気薄ながら二着に入ってたしね。私の見たてでは、あのレース勝っていてもおかしくなかったわ。事実、手前を替えずにあのパフォーマンスだったんですもの、能力はかなりのものよ。それだけこの子を買っていたから印をつけたんだけど……、馬券の買い方が下手クソでね。私のダメなところだわ……」
武村は、何やら落ち込み出した。どうやら俺を本命にしておきながら、馬券は取れなかったらしい。馬券の買い方が下手くそな記者がいるとは……。
「まぁお前の馬券は知らんが、ウルフに目を付けたお前の目は悪くねぇ」
土門はさっきとは打って変わり、武村を褒めている。どうやら、俺の評価が高いことに機嫌を良くしたようだ。全く現金な奴である。
土門は携帯灰皿を取り出すと、煙草の火を乱雑に消した。
「それはどうも」
武村は得意気な顔をしている。中々のドヤ顔である。そんな顔ができるのも、俺のお陰だということを忘れないでくれ。
「それでは、初取材といきますか!」
軽く咳払いをした武村の目つきが変わった。武村はブランド物の鞄から、ボイスレコーダーを取り出し、土門に向き直った。
「今後のホワイトウルフのローテーションはどのような予定が組まれているのですか?」
武村はさっきまでの様子とは打って変わり、仕事モードだ。
「今のところ、次走は未勝利だな。勝ち上がれば500万条件に出て、その後は未定だな」
未勝利戦か。少しレース感覚が空いてしまったから仕方ないな。
「次走は少し試したいこともあるんでな」
土門は意味深な表情で俺の方を見ている。
俺は東京競馬場のダートの直線コースを走っていた。東京の直線は長い。宝福のムチを合図に手前を替えた。手前を替えた俺は、そこから更に加速し、他馬を引き離しにかかる。砂を強く踏み込んでいるが、ツラくはない。むしろ、走っていて気持ちがいいぐらいである。
背中に跨っている宝福は、手綱を緩めて既に追うのを止めている。宝福はゴール寸前で後方の様子を確認する余裕すらあった。
東京の未勝利戦に出走した俺は、圧倒的な強さで勝ち上がった。掲示板には、二着との着差が七馬身と表示されている。後続馬に影すら踏ませなかった。完勝である。
土門が試したかったこととは、ダートの適性を見ることだったようだ。やはり俺は父親の血を受け継いでいるようである。ダートでは、圧倒的に他馬と性能が違った。自分でも驚いたが、宝福や土門達はもっと驚いているようだった。
「楽勝じゃないか。びっくりしたぞ。今日は手前もスムーズに替えられたのも大きかったな。調教で何度もお前の体に覚えさせた甲斐があったよ」
宝福は俺から下馬すると、検量室にそそくさと消えていった。もう少し、労いの言葉を掛けてくれても良さそうなものだが。
「よくやったぞ! やはりダートだと走るなお前は!」
土門は、俺の首筋をバシバシと叩いている。嬉しいのはわかるが、痛いのだ。もう少し加減してくれ。
「さすが、私が目をつけただけはあるな! よくやったぞ!」
多生木が誇らしげに、土門と握手をしている。ちょっと強い勝ち方をしたらこれだ。これまで俺に全く興味を示さなかったのが嘘のようである。
「ウルちゃん! おめでとう! かっこ良かったよー!」
多生木など見向きもせずに、真っ直ぐに俺の方へ走ってきたのは、千帆だ。レース後に急いで俺のもとに駆けつけたのだろう。息を切らし、頬が紅潮している。呼吸を整えた千帆は、俺の鼻面を笑顔で撫でている。
「さあ、これから口取ですよ。みんなで行きましょう」
兼光が、その場にいた全員を誘導している。
「はい。それでは記念に写真を撮りますねー。はい。チーズ!」
俺に関っている関係者が俺を囲うようにして並び、係員に写真を撮影してもらった。俺の背中には、宝福が乗り、土門は首筋に手を当てている。千帆と多生木が、俺の両脇に立ち、兼光は隅っこで皺くちゃな笑顔を見せている。
ここに、蛭子がいないのは残念だ。彼がいなければ、今の俺はなかった。もっともっと勝って、蛭子も口取に参加できるようにするぞ!
こうして、表彰されるのも悪くない。人間のときには、学校の賞なんて縁はなかったし、ましてや人に褒められることなんてなかった。こうして競走馬としてレースに勝つことで、周囲の人から必要とされていることが、実感できた。
「みなさん! せっかくなんで、祝勝会を開きませんか!? お金の心配はいりません!」
多生木は、浮かれた様子でそう言うと、上着のポケットから、馬券を取り出した。俺の応援単勝馬券だ。前回のレースで二着だったので、今日は10.7倍の四番人気だった。多生木は諭吉を百枚以上手に入れたことになる。さらに、俺の一着賞金も手に入るのだ。浮かれたくもなる。
「おーいいですね! 多生木さん太っ腹!」
土門もノリノリな様子だ。
「わーい! 千帆はお寿司が食べたい! 勿論回らない寿司ね!」
初めて千帆に殺意を抱いたかもしれない……。小学生にして、回らない寿司の味を知っているとは……。俺なんて食べられないまま、馬になったっていうのに! まぁいい。俺には人参があるからな。今日はご褒美に沢山くれるに違いない。
「あら? なんですかこの騒ぎは?」
タイミングよく武村が合流してきた。武村は俺に気付くと、「おめでとう」と呟いてから、首筋を優しく撫でた。
「これから、ウルフの初勝利を祝って、祝勝会だ! お前も呼んでやらなくもねーぞ」
土門は偉そうに武村にそう言った。前の一件は丸く収まった気がするのだが、土門の言い方は鼻につく言い方だ。普通に誘えばいいものを……。
「な、なんですか! その偉そうな態度! 相変わらず嫌な人ですね! ウルフくんの追っかけ記者として参加――、いや、えっと、やっぱり私お金ないですし……」
武村は、土門に文句を言ったかと思えば、急にシュンと肩を窄めている。まさか……。
「おまえ、まさかまた外したのか?」
「はい……。私基本穴党なので、人気どころの馬を押さえていなくてですね……」
土門は呆れた顔をしている。兼光もどうフォローすればいいのか困っているようである。
「お金の心配はいらないので、記者さんもぜひ参加して下さい」
多生木は、馬券をチラつかせ、武村を祝勝会に誘った。
「ありがとうございます! うちの二歳馬特集でウルフくんを取り上げるので、色々話を聞かせて下さい」
俺は馬房で、山盛りの人参に舌つづみを打っていると、宝福がやって来た。
「なんだ? もう祝勝会終わったのか?」
「いや、まだまだ続いているよ」
「みんなどんな感じだ?」
宝福に祝勝会の様子を聞いてみた。多生木と土門は、祝勝会でかなり意気投合したようで、今度多生木が所有している何頭かを預ける約束をしたらしい。ちゃっかり営業活動をするとは、中々抜け目のない奴である。
千帆は、大好きなお寿司を沢山食べると、すぐに寝てしまったらしい。こういう話を聞くと、まだまだ千帆が幼いということがわかる。
兼光は、宝福と飲みながら雑談をしていたらしいのだが、何時の間にか寝てしまったらしい。というのも、武村が兼光のグラスが空く度に、お酒をついでいたので、酔い潰れたというのが正しいかもしれない。
「なかなか、楽しそうじゃないか」
「ああ。久々にうまい酒が飲めたよ」
宝福は、俺の馬房の目の前に腰を下ろした。
「どうした? 何かあったのか?」
「いや、たいしたことじゃないんだ。武村さんの雑誌を見てたら、こんな記事があってさ」
宝福は雑誌を取り出すと、俺の目の前で開いてみせた。
『スカイラブリーの2011、デビューは目前! 走ることが約束されたサラブレッド、その行く末は……!?』
雑誌の煽りと一緒に写っていたのは、栗毛の綺麗な当歳馬だ。
「スカイラブリー? スカイラブリーってあの牝馬で天皇賞を勝った?」
「ああ。そうだよ。ていうかお前よくスカイラブリーを知ってたな?」
「あ、ああ。一応色々な所から情報が入ってくるからな」
俺が人間から転生した馬だと説明しても、信じて貰えるわけがない。余計話がややこしくなるので、ここは適当に受け流しておこう。
「このスカイラブリーの初年度産駒は、父があの三冠馬ストロングショックなんだよ」
「凄い配合だな。母が天皇賞馬で、父が三冠馬か。超のつく良血馬だな」
「ああ。セレクトセールでは、三億の値段がついたらしいぞ」
「三億!? そりゃデビューする前から注目されてるわけだ」
俺は、セリ市の売れ残りで二百万で買われた馬だというのに。
「そうなんだよ。GⅠを勝つのは当たり前って騒がれてるみたいだよ」
「そうか……。ん? ちょ、ちょっと待て、2011ってこいつ俺と同い年ってことか?」
「ああ。実はこの記事はかなり前の記事でさ。先週実はデビューしてるんだよ。マスターピースっていう馬名で栗東に登録されてるんだ」
「そうなのか!? で、デビュー戦の結果は?」
「二着に九馬身の差をつけて完勝だよ。最後は、騎手の藤堂さんが持ったままだったらしい……」
「化け物だな……」
しかも、騎手は天才藤堂か。超良血馬に、天才騎手。まさに鬼に金棒だな。
「まだ、デビュー戦を勝っただけなのに、早くも『親子二代で三冠制覇へ』なんて話題になっているらしい。確かにあんな勝ち方をされたら、誰もが期待しちゃうよな」
「エリート中のエリートか……。俺とは真逆の馬だな……」
「いつもの偉そうな態度はどうしたよ? ビビってるのか?」
「ば、馬鹿! ちげーよ! こいつはこいつ。俺は、俺だ。俺なんてまだまだ、未勝利戦を勝っただけだからな。目の前のレースを勝っていくしかないんだよ。これでも自分の立ち場をわきまえてるつもりだ。俺が勝って、みんなに恩返ししないとな」
「そうか。そうだな。珍しく真面目なこと言うじゃないか。俺もお前と一緒に大きいレースの舞台に立ちたいからな。協力してくれよな! いずれ、このマスターピースとも戦うことになるかもしれないし、そのときは一泡吹かせてやろうや!」
宝福は、高々と丸めた雑誌を突き上げている。
「まぁ熱いのはいいが、まずは次走を勝たないとだけどな」
「何だよノリの悪い奴だな」
宝福は俺の素っ気ない態度に、つまらなそうな顔をしている。
俺のいる馬房の通路には、宝福しかいないはずだったが、ギブミーチャンスのいる方向に人影が見えた。暗くてよく見えないが、通路の壁から頭を僅かに覗かせていた。どうやら、隠れて俺と宝福のやり取りを見ているようだ。
これはまずいのではないか? 宝福は気付いているのだろうか? ややこしいことにならなければいいが……。