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メイクデビューへ→札幌6R 二歳新馬発走

 兼光に引かれて、パドックを周回する。周囲には、多くの人々が眉間に皺を寄せながら唸っている。ように見えた。新聞を片手に、紙面と俺たち馬に交互に視線を向けている。

 パドックの電光掲示板には、1から12番までの馬番が並んでおり、オッズ――その馬の単勝馬券の倍率がデジタルに表示されている。俺は、9番だから……。9番、9番……。287倍か。うむ。12番人気だ。断トツの最低人気。まぁ覚悟はしていたが、さすがにこたえるな……。だが、単勝のオッズに比べ、複勝――三着以内に入線する馬を当てる馬券の買い方では、オッズが下がっており、そこそこ買われているようである。勝ち負け――一着もしくは二着のこと――は難しいが、三着ならもしかしたら可能性はあるかも……というのが世間の俺の評価のようだ。

 で、俺の初パドックはというと……。最悪だった。緊張して、ボロ――馬糞は出るわ。緊張を抑えるために気合を入れるが、逆に空回りして入れ込むわ。転生する前から、人の多いところは苦手なのだ。ましてや、野次混じりの野太い声援である。股間の大事な部分が縮こまっているのがよくわかる。

「うわーあいつ入れ込んでるべ。やっぱ二歳戦は馬が若いからなー」

「だなー。あいつは一銭もいらんわ」

 パドックを回っていると、柵越しにそんなやり取りが聞こえてきた。見れば、彼らが手を付いている柵に宝福の応援垂幕が提げられていた。

『幸福の宝がみんなに届け! がんばれ正臣!』

 提げたファンに失礼だろうが。目の前に騎乗馬が通ってますから!

 たまたま、そこに陣取っていただけだと思うが、嫌なオヤジ達である。

 緊張で頭の中が真っ白のまま、パドックが終わった。兼光が心配そうな顔で俺を見ている。やめてくれ、そんな顔で見られると凄く不安になる……。

 騎手騎乗の時間だ。宝福が俺の下に軽快な足取りで歩み寄る。

「よう。なんだお前、緊張してんのか?」

 宝福は、ヘルメットに被せたゴーグルの位置を直し、身なりを整えている。多生木の勝負服――騎手がレース時に着る服は、意外にもシンプルなものだった。白を基調にし、胸元に二本の赤いラインが施されている。袖は胸元のラインに合わせて赤色になったデザインだ。

「う、うるせー。お前は俺の背中に黙って乗ってればいいんだよ」

 図星だったが、目一杯強がってみせた。でないと、緊張と不安に押し潰されそうだったのだ。

「それだ。それ。お前は、いつもの生意気な感じでいいんだよ」

 そう言った宝福は俺の背中に跨った。本馬場入場が近づく。

「さぁ。行って来い。無事に一周周って、戻ってきてくれよ」

 兼光は、俺につないでいた引き手――馬を引くときに使う綱を外し、一声掛けてくれた。

 引き手が外れたと同時に、宝福は俺を馬場に追い出した。歓声が凄い。足元は、一面、緑の絨毯が広がっている。

 今日は快晴。正にパンパンの良馬場――雨による水分の影響がない乾燥した馬場だ。普段通りの実力を発揮できるだろう。

 宝福は、馬場に出てからは一言も喋らずに、俺を追い出していた。あっという間に本場馬入場は終わり、スターティングゲートの前を周回している。

「お、おい。急に静かになるなよ。俺はどうすればいいんだよ?」

「シュミレーションしてたんだ」

 宝福は、目を瞑っていた。

「シュミレーション?」

「ああ。この十二頭でゲートを出たら、どういう展開になるかを考えていた」宝福は自信満々に話す。

「ほう。で、俺はどうしたらいいんだ?」

 俺は強気な態度を見せる。というか、少し安心していつも通りの自分に戻ってきたのだ。

「ともかく、調教通りにスタートを切ればいい」宝福は、俺の首筋を撫でる。

 落ち着く間もなく、スターターが真っ赤な旗を振るのが見えた。いよいよ、ゲートインだ。次々に、周囲の馬達がゲートに収まっていく。俺も問題なく収まり、残すは外枠の一頭のみ。

 ゲートの練習はスターター立会いの下、やれるだけやってきた。ゲートの狭さも気にならなかった。やれる。やってやる。

 ゲートが勢いよく開らいた――。開くと同時に飛び出し、宝福が手綱をしごく。スタートはまずまずだ。練習通り。宝福は手綱をまだ、しごいている。

「このまま、先頭に立つ」

 そう言った宝福は、右の枠にいた先行馬、デルモントとヒルセルベールを難なく交わして内に入る。スタートしてすぐの第一コーナーで、早くも最内の位置どりを確保した。 一番人気の青鹿毛馬、スリーインアブラックは後ろに下げたようだ。

 宝福は手綱をしごくのをやめ、スピードを維持している。俺の前に馬はいなくなった。ハナ――先頭を切ったのは俺だ。

 ハナを走るのは気持ちがいい。もっともっと前に出たい。自然と自分からハミを取り、さらに後続を引き離しにかかる。

「馬鹿野郎! なんの為に俺が乗ってると思ってるんだ! ここは前に行きすぎるな。三馬身のリードを保って、最終コーナーを回れば勝機はある。焦るな!」

「うるせー! もっと前に行かせろよ」

 俺は、宝福の意見を無視して前に出ようとする。が、動けない。

 首から上が後ろからバネで引かれているかのように、引っ張られる。凄い力だ。宝福が、がっちりと手綱を抑えているからだ。

「焦るなって言ったろうが!」

 宝福は歯を食い縛りながら、手綱を目一杯引いている。後続との距離がみるみる縮まっていく。

「気持ちよく走らせろ!」

「うるさい! いいから我慢しろ!」

 宝福は背後を僅かに確認し、手綱を僅かに緩めた。バネのような引力から解放され、再びハミを取って加速する。

「よし。いいぞ。そのまま。そのままだ」

 宝福は俺に行き足を任せると、後方の様子を確認した。第二コーナーを周り、再び長い直線を通る。一度縮まった後続との距離が再び開き、縦長の展開へ変わる。

「おい。後続はどうなってる? 俺はこのまま馬なりでいいのか?」

 千メートルのハロン棒を通過し、残りは八百メートル。そろそろ仕掛けるタイミングを伺う必要があると思ったのだ。

「千メートルの通過は六十秒ジャストってところか。順調だぞウルフ!」背中越しに宝福が声を張っている。

 八百のハロン棒を過ぎる――。後続の蹄の音は遠い。場内の実況を聞く限りでは、きっちり三馬身のリードを保っているようである。そのまま、淀みなく進み、最終コーナーを回る。残り四百メートル。後続馬が雪崩のように俺に襲い掛かる。

 最後の直線。宝福が手綱を小刻みにしごく。

「最後のスパートだ! いくぞ!」

 宝福は、俺にムチを入れた。二回、三回とムチを入れ、加速する。残り二百メートル。

 後続との差がほとんどなくなる。三番人気のナイトモーテルが馬群を抜け出し、差を縮めてきた。リードは一馬身もない。宝福は必死に、手綱をしごく。ナイトモーテルとの差を保ったまま、残り百メートルのハロン棒を過ぎる。俺は既に喋る余裕もなくなっていた。

 大外から一番人気のスリーインアブラックの黒い馬体が突っ込んできた。

「くそ。こんなに脚がキレる馬だったのかよ!?」

 宝福は、背中でぶつぶつと文句を言っている。みるみる差が縮まり、馬体が交わることなく躱された――。

 いや――、俺はまだ内ラチ沿いをヨレながら、もがいていた。

「がんばれ! もう少しだ! 勝てるぞ!」

 宝福は辛そうな声をしている。しかし、宝福の言ったことは全く耳に入らない。余裕がないのだ……。

 ゴール板が目の前に近付いてくる。苦しい……。調教で大分走り込んだつもりだったが、実際にレースで走るとこうも違うのか……。甘かった。新馬戦くらいなら、と舐めていた。

「ムチを合図に手前を替えるんだぞ!」

 宝福はステッキを右手に持ち替え、二、三度ムチを入れる。手前を替える? 俺は確かに今まで、左手前で走っている――前脚が地面に着地するときに左脚が先に着地する状態。右手前はその逆――が、どうすれば手前を替えれるのだ?

「お前、まさか……今まで手前を替えずに走っていたのか!?」

 そんなことを言われても、わからないものはわからないのだ。どうしようもない。

 そんなやり取りをしている間に、外から伸びたスリーインアブラックが先頭でゴールした。続いて俺が二着でゴール。結局一馬身の着差がついていた。

 スタンドが騒ついている。一番人気が順当に勝ったことよりも、最低人気の俺が二着に入ったことに驚いているようである。

 俺は酷く疲れていた。息が上がっている。調教では息が上がるなんてことはなかったのに……。

「手前を替えずに走れば、そりゃ疲れるさ」宝福はゴーグルを外して、呼吸を整えている。

「手前を替えるのがこんなに大事なことだったとはな」

 手前を替えるということは、知識としては知っていた。だが、いざ自分が馬になってみると、手前の替え方がわからなくて戸惑った。

「調教のときに気付かなかった俺も悪かった。今回は勝てなかったが、次走では上手く乗ってみせる」

 宝福は勝てなかったことを、自分の騎乗ミスとして反省していた。

「悪かったな。俺が手前を替えていれば、勝てたのにさ」

「お前が素直に謝ると気持ちが悪いな。気にすんなよ」

 宝福はレースで負けたことなど既に忘れたように、笑顔で俺をからかう。宝福は俺から下馬し、鞍を外して俺の首筋をポンっと叩く。

「お、おう。次は負けねーよ。その――」

 検量室に向かおうとする宝福を呼び止める。

「どした?」

「――次も頼むな」

 俺は小さく呟いた。今の俺はどんな顔をしているだろうか。確かめる術はない。芦毛の顔面が紅潮するとは思えないが、顔が熱いことだけはわかる。

 宝福はニヤけた表情を一瞬みせた後、踵を返して検量室へ去って行った。去り際に俺への返答として、背中を向けたまま拳を高々と突き上げていた。


 スタンドでレースを観戦していた多生木と千帆が、レース後の俺の下へやって来た。

「ウルちゃん! よく頑張ったね! 次は絶対勝てるよ!」

 千帆は、俺の汗ばんだ鼻面を優しく撫でる。多生木も珍しく笑顔だ。自分の所有馬が人気薄ながら、二着だったのだ。嬉しいのだろう。レース後に俺に付き添っている兼光が、多生木の手から落ちた紙切れを見つけた。

「多生木さん。これ……」

 兼光は気まずそうに、多生木に手渡そうとする。

「こ、これは。その……」

 馬券だ。しかも単勝一番人気スリーインアブラックの単勝に十万円を賭けていた。お前は本当に俺の馬主か!? 俺は多生木に呆れていた。応援馬券の一つも買っていないのかよ!?

「パパ……」

 千帆の顔がみるみる怒りの表情に変化していく。

「千帆、これは……。その……」

 多生木は、馬券をスーツのポケットに慌ててしまうと、千帆の御機嫌を必死で取ろうとしている。やれやれ、相変わらずな親子である。次走では絶対に一着になってやる。多生木はどうでも良かったが、千帆と一緒に口取――一着馬の表彰式に参加したい。頑張ろう。


「あーくっそー。ここは単勝じゃなくて複勝だったのねー。失敗したわー」

 スタンドの記者席で、ウェーブのきいた長い茶髪をくしゃくしゃとかく女性が一人。

「なんであんないい能力(もの)を持ってるのに、手前替えるのが下手くそなのよ! ちぐはぐもいいとこだわ」

 煙草をふかしながら、文句を垂れている。机に置かれた灰皿には、フィルターに口紅がついた煙草が何本も突き刺さっている。

「でも、また面白い馬が出てきたことには素直に喜ばないとね。ホワイトウルフか……。次走はどこに行くのかしら」

 そう呟いた女性記者は、次のレースに向けて競馬新聞に目を落とした。

【後書き解説】

手前を替える――馬が走る時のストライドはよく観察すると、脚の着地の仕方が違います。左前脚が先に地面に着地する状態を左手前。逆に右前脚が先に地面に着地する状態を右手前と言います。一般的に右回りのコースを走る時は、左手前で走ります。その方が外側の脚の力を上手く使えるので、コーナーをスムーズに周れます。しかし、ずっと同じ手前で走っていると前脚に負担がかかり、馬は疲れてきます。そこで、最後の直線に入った時に逆の右手前に替えて走るのです。そうすることによって、最後のスパートを懸けることができるわけです。ウルフのように手前を替えるのが下手な馬はいます。それは仕方のないことで、馬の賢さやセンスによって違います。長くなりましたが今後ともよろしくお願いします。

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