二人きりのレッスン→メイクデビューへ
宝福と二人で調教をしてから、二ヶ月が経とうとしていた。宝福はあの後、一度も厩舎を訪れることはなかった。
他の騎手も何度か、俺の調教をつけてくれたが、宝福が乗ったときのような、感覚を感じることは出来なかった。俺の背中には、宝福が合っている。この二ヶ月調教をしてみて、よくわかった。俺には宝福が必要だ。
馬房の角の小さなテーブルの上に置かれたラジオから、競馬の実況が聴こえてくる。
『先頭はパーリーライヴ! パーリーライヴ突き放した! 二着争いは、ダンディズムと、ローカルパラレロ! パーリーライヴ完勝です! 宝福騎手は、これで今日四勝目。落馬事故から奇跡のカムバックをみせた宝福騎手! 完全復活です!』
宝福は、正に絶好調だった。落馬事故によるブランクなど微塵も感じさせない騎乗で、美浦のリーディング――騎手の勝利数によるランキングでは、第八位に位置していた。今年途中からの騎乗にも関わらず、この位置につけているのは、立派である。
俺はというと、土門が組んだ調教メニューを着々とこなす毎日を過ごしていた。
厩舎に入厩したての頃は、まだ体が太かった俺も、調教によって絞られ、引き締まった馬体に仕上がっていた。
土門は、若い割には馬の体重管理の上手い調教師のようである。普段締まりのない顔をして、煙草をふかしている土門だったが、調教メニューは理にかなったものを採用しているようだ。伊達に若い年齢で、調教師の看板を背負っているだけはある。
ある日、土門と兼光が俺の馬房を訪ねてきた。何やら話し込んでいるようである。
「さて、ウルフのデビュー戦なんだが、札幌に遠征しようと思っているんだが……」
土門は、額の汗をハンカチで拭う。七月になり、暑さが体に感じるようになってきた。俺も、暑さにより、汗を大量にかいていた。必然的に水を飲む量が増える。兼光が頻繁にバケツの水を補給してくれる。
「ウルフは、輸送をあまり苦にしませんし、良いんじゃないでしょうか」兼光は首を上下させ、頷いている。
「今がかなり良い状態だから、早めにレースに使っておきたいんだ。結果によっては、今後の方針も立てやすくなるしな」
普段締まらない土門だが、今日はハキハキと発言しているせいか、頼もしく見える。
札幌でデビューか。北海道に行くのは、久しぶりだ。札幌競馬場は、行ったことがないので、少し楽しみだ。
「騎手は誰に依頼するんです? やはり宝福くんに?」
「ああ。そのつもりだ」
土門は先ほど、汗を拭っていたハンカチを仰いで、顔に風を送る。そんなことをしても、気休めにもならないと思うのだが……。
美浦トレセンから札幌に輸送を始める少し前に、宝福が土門厩舎を訪れていた。
「なんだ。向こうに着いてから、合流するんじゃなかったのか?」
土門は、宝福が訪ねてくるとは、思っていなかったようである。口に咥えていた煙草を灰皿に押し付け、火を消す。
「ちょっと、ウルフの顔を見ておきたくて」黒のTシャツに、ジーンズというラフな格好をした宝福が言う。Tシャツには、往年のロックバンドの姿がプリントされている。宝福の趣味だろうか。
馬房の通路を通り、宝福が久々に俺を訪ねて来た。
「久しぶりだなウルフ」
宝福は、挨拶がわりに鼻頭を撫でる。
「よお。調子良さそうだな。ヘタレジョッキー」
「相変わらずだなお前は」
宝福は、フンと鼻で笑う。
「新馬戦は、札幌の芝1800メートルだとさ」
「ああ。調教師から聞いたよ」
宝福は、間を置かずに言う。
「で、どうやって乗る予定だ?」
「んーまだ決めてないよ。調教師からも乗り方は任せるって言われてるからね。他の馬のことも調べてから決めるよ」
土門が、乗り方を任せたのは宝福を信頼しているからなのだろう。もしくは、俺がどのようなレースを見せるか、未知数な部分もあるからかもしれない。
「じゃあ、また向こうに着いたら顔を出すからな」
宝福は手を振り、馬房を後にした。Tシャツの背面にもロックバンドをモチーフにしたロゴがでかでかとプリントされていたのが印象的だった。
俺は札幌の地に降り立った。札幌競馬場までの道のりは長かったが、以前の輸送に比べ、幾分マシだった。宝福のおかげだ。宝福が、兼光にラジオを持ち込むようにお願いしていたのだ。たいして面白くもないラジオでも、道中何もないよりはいい。
俺の体調は万全。輸送による疲れもなし。後は無事に当日を迎えるだけだ――。
そして――、レース当日の日はあっという間にやってきた。今日は雲一つ無い快晴。梅雨明けが大分遅れ、先週までは酷い天気だったのだが、今日は午前中からお天道様が猛威を奮っている。暑い。ともかく暑いのだ。
「ウルフ。あんまり水飲みすぎるなよ」
兼光が俺の様子を見て注意をする。確かに午後一番でレースが待っている。直前で体調が悪くなるのは勘弁だ。
「あー! ウルちゃん! 久しぶり!」
白のワンピースにサンダル姿の少女が、こちらに駆けて来る。千帆だ。最後に会ったときより、めかし込んでいるせいか、すぐに千帆とはわからなかった。というか、いつからウルちゃんなどと呼ぶようになったのだ?
「おお。多生木さんとこの」兼光が千帆に気付き、声を掛けた。
「よしよし……。今日は頑張るんだよー」
千帆は、兼松を無視して俺に真っ直ぐ向かって来た。さすがに兼光が可哀想だったので、千帆の小さな頭を鼻頭で軽く動かし、兼光の存在を気付かせる。
「あ、ごめんなさい、おじちゃん」
千帆は、兼光の方に向き直り、丁寧にお辞儀をした。
「いや、いいんだよ。ウルフのことをこんなに可愛がってくれる子がいてくれて、私は嬉しいんだよ」
兼光は、千帆に笑顔を向けている。相変わらず笑うと皺が目立つ。千帆と兼光が並んでいると、お爺さんと孫に見えなくもない。
「千帆、あんまり迷惑をかけるんじゃないぞ」千帆に歩み寄る多生木。
この暑いのに上下グレーのスーツに身を包んでいた。さすがにネクタイはしておらず、クールビズスタイルが板についている。
「これは。これは。多生木さん。厩務員の兼光です」
兼光は、帽子をとり、挨拶をした。
「これはどうも。土門くんには、あまり馬を預けたことがないのでね。お初にお目にかかります。よろしく」
多生木も簡単に挨拶をした。
「ウルフを見に来て頂いたのですね。どうぞ。どうぞ」
「いや、千帆について来ただけですよ。ホワイトウルフには……、預託料ぐらいは自分で稼いでもらわないとね。馬は稼いでなんぼなんですから」
多生木は、下がった眼鏡をくいっと上げて、俺を見ている。眼鏡の奥の瞳と目が合う。手厳しい。だが、多生木の言うことは最もだ。気分が少し沈んできた。
「パパ! ウルちゃんが可哀想でしょ!」
千帆が大声で一括する。千帆は落ち込んだのがわかったのか、俺を庇ってくれた。
「ご、ごめんな千帆……」多生木はあたふたしている。
多生木は、娘に怒られたことに動揺しているようである。娘を溺愛しているので、嫌われたくないのだ。
「パパなんて知らないっ!」
千帆は、頬をプクっと膨らませ、怒りを主張している。多生木はさらに動揺している。涼しげないつもの様子は崩れ、汗をかいている。
千帆は、多生木に背を向け、キビキビと馬房を後にする。出入り口で振り返った千帆は笑顔を作り、俺に手を振った。多生木は、必死に弁解しようと千帆を追い掛ける。
「はは、千帆ちゃんか。いい子だな。良いところ見せてやれよ」
兼光は、俺の鼻頭を優しく撫でている。勿論だ。俺の競走馬としてのデビュー戦。ここまでやっと辿り着いたのだ。
絶対に良いところを見せてやる。自然と鼻息が荒くなる。レースが近づいてきた。俺は決意を胸に、パドックへ向かった。