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騎手→二人きりのレッスン

 兼光は宝福に駆け寄る。うつ伏せでピクリとも動かない宝福を仰向けに起こし、声を掛ける。

「宝福くん! おい! 大丈夫か! おい!」

 宝福は、兼光の呼び掛けにも反応がない。呼吸はしているが、動悸が乱れているようである。苦しそうな顔を浮かべ、脂汗が頬を伝う。

「おい! 誰か! 救急車だ! 救急車!」

 兼光は、大声で叫んでいる。普段温厚な兼光からは、想像できないほど大きな声だった。

「どうした!? 何があった!?」

 土門が兼光に駆け寄る。この一大事にどこへ行っていたのだ。見れば、コンビニエンスストアの袋を右手に提げている。

「宝福くんが! 急に倒れて!」

「何だと!?」

「早く救急車を!」

「わ、わかった!」

 土門は慌てて、上着のポケットから携帯電話を取り出し、救急車を呼んだ――。


 午後の調教は、土門も兼光も不在で行われた。土門厩舎の調教助手が、俺の背中に跨っている。俺は、ダートコースにポツリと一頭佇んでいた。

「こら。こんなコースの真ん中で止まるな」助手は手綱を小刻みに動かしている。

「おい、そこの白いの。邪魔だろ。走らないならコースから出てくれ」

 他の厩舎の調教助手が、注意をしてきた。うるさいな。俺は今、調教をするようなモチベーションじゃないんだよ。

「すみません……。ウルフ行くぞ」

 助手は、俺を速歩でコース外に連れて行く。

 午前中に、あんなことがあったのだ。気にせず、調教するなんて無理な話だ。

「宝福騎手の件があってから急に走らなくなったな」助手も感づいているようだ。

 あの後、美浦トレセン内はちょっとした騒ぎになっていた。落馬事故から復帰したばかりの騎手が、急に倒れたのだ。騒ぎになっても、おかしくはない。午後の調教中にも、周囲の人達の話題はそれで持ちきりだった。

 救急車に一緒に同乗した土門と兼光は、まだ戻ってきていない。俺の話す言葉が何故かわかっていた宝福。せっかく、これから話を聞いてもらおうと思っていたところだったのだが……。

「とりあえずウルフ、お前は午後の調教全く走っていないからな。ほら、行くぞ。調教師(せんせい)に怒られるのは、俺なんだからな」

 最後だけ、やや強い口調で助手は言った。

 そんな助手の言葉をスルーして、厩舎のある方を見る。宝福はどうなったのか。気になってしょうがない。

 助手は俺の鞍の上で、大きな溜め息をついた。

 日が傾き出した頃、ようやく土門と兼光が戻って来た。引き運動をしていた俺も、助手に引かれて厩舎の馬房まで戻ってきた。戻るなり、助手は土門と兼光に宝福がどうなったか聞き出している。

「宝福騎手は?」

「とりあえず、命に別条はない」

 土門は、馬房の角の物置カゴの中から、コンビニの袋を取り出す。中から、未開封の煙草を取り出す。

調教師(せんせい)ここは……」

「わかってるよ。あっちの建屋で吸うに決まってるだろ」

「それで、容体は?」助手が話を戻す。

「えーと……詳しいことはよくわからないけど、症状は貧血に似ているって医者は言ってたよ」兼光は帽子を被り直して言う。

「点滴を打って、すぐに退院できるってさ」

 土門は、腕に注射をする真似をして言う。「それは違うのでは?」と内心、土門に突っ込む。

「良かったですね。戻ってきたばかりで倒れたんで、びっくりしましたよ。周りの厩舎の人達も心配してたんで、無事だったことを伝えてきます」

 そう言うと、助手は馬房から走り去って行った。

「無事で良かったですよ」兼光が安堵した様子で、俺を見ている。

「ああ。宝福にウルフを乗せたいと思っていたからな。無事で何よりだ。冷や冷やさせやがって。戻ってきたら久しぶりに喝入れてやる」土門は拳をつくり、力を入れている。


 数日が経過したとき、再び土門厩舎を訪れる人影が。宝福だった。

 まだ日が昇っていないためか、辺りは真っ暗闇。こんな朝方に何のようだ?

「おはようウルフ。起きているかい?」

「起きてるよ」

 馬の朝は早い。早寝早起き。人間のときに比べ、規則正しい生活を送っている。

「やっぱり話が通じるんだな。この前は、すまなかった。びっくりしただろ」

 宝福は、馬房の通路の柱に寄りかかる。

「みんな驚いてたぞ。落馬の後遺症があるんじゃないのか? って噂してる奴もいたな」

「はは。そうか。俺はこの通りピンピンしてるよ。医者も貧血だろうって言ってたからな」

「本当に大丈夫か? 有馬記念がどうとか言ってたが」

「ああ。大丈夫だよ。そんなこと言ってたのか?」

「覚えてないのか?」

「いや、覚えてないな……。あ、そういえば落馬事故に遭ったとき、有馬記念の夢を見たことがあったな。ボンヤリとしか覚えてないんだが、歓声が凄くてさ」

 宝福は頭を抱え、必死に思い出そうとしている。

「歓声が凄かったって、有馬記念は暮れの祭典だぞ? 観客が多いんだから、歓声が凄いのは当たり前だろ」

「というか、俺一回も有馬記念に出たことないし」

「なんだそりゃ!? そもそも、それは倒れたことと関係あるのか?」

「有馬記念で、急に思い出しただけだよ。関係なくて悪かったな!」

 宝福は腕を組み、鼻息を荒くしている。

「とりあえず、無事で良かったじゃないか」

「心配してくれたのか?」

「べ、別に心配なんかしてねーし! 気になって調教に身が入らなかったとかないからな」

「そうか。悪かったな心配させて」宝福の頬が緩んでいる。

「だから、お前みたいなヘタレ騎手の心配なんかしてないと言っとろうが!」

「はははは。いい奴だなお前」

 宝福は、いつの間にか目の前に立っていた。

「うるせー。そんなんじゃねぇよ。言葉の通じる奴がいなくなるのは俺にとっては、不利益なだけだからな」宝福に背を向け、尻尾を振る。

「そうか。そうか」宝福はニヤニヤしている。

「と、ところで何の用だよ? こんなに朝早く?」振り返り、話題を変えた。

「ああ。この前、来たときはお前に乗れなかったからさ。今日はお前の背中に乗りに来た」

「こんなに朝早く?」

「二人きりで話がしたかったからさ。兼光さんも朝早いし、今の時間しかなかったんだ」

 二人きりですか……。目の前にいるのは、オヤジ達から声援……いや、野次を浴びるヘタレ騎手。これが女の子だったら……。と言っても俺は馬だったな。かと言って牝馬には魅力を感じることなんてないし……。などと、妄想をしている間に宝福は準備を始めている。

「さ、行こうか」

 宝福は右脇に鞍を抱え、俺の手綱を引く。

「行こうかってお前、いくら土門厩舎と付き合いが長くても、さすがにこれはまずいんじゃないか?」

「いいの。いいの。調教時計を見させてもらったけど、お前全然まともに調教してないだろ? だから、ちょっとぐらい俺が乗っても問題ないさ」

 宝福はノリノリである。しかし、俺の調教時計を早くもチェック済とはな。さすが研究熱心なだけはある。

「全く。知らんぞ」俺は渋々、宝福に引かれて馬房を後にする。

 辺りはやはり真っ暗だ。灯りも目につかない。宝福は目が暗闇に慣れているのか、しっかりとした足どりで進んで行く。

「さて、じゃあ失礼するぞ! っと」

 鞍を俺の背中にセットした宝福は、勢いよく俺の背中に飛び乗る。

「喜べ! 調教助手以外で、俺の背中に乗った騎手はお前が初めてだ! 感動に浸るがいい!」

 宝福の方を見ようとする。首が回らん……。

「うるせ。行くぞ」

 宝福はあっさりとスルーして、手綱を操り坂路コースに俺を誘導する。

「坂路か……」

 坂路コースは名前の通り、坂の道である。坂道を駆け上がることによって、馬の競走能力を鍛えるのだ。

「ほれ。まずは馬なりで行くぞ」宝福は手綱をしごく。

 馬なりとは、馬の進む気に任せて走ることである。ようは、俺の気分で坂路を駆け上がれということだ。

「この程度の坂、楽勝だぜ」

 目の前の坂道は、さほど急には見えない。美浦トレセンの坂路は栗東トレセンの坂路に比べて緩やかというのは本当らしい。

 この坂路コースの違いが、関東馬よりも関西馬が優勢という西高東低の流れをつくった原因の一つと言われている。

 栗東の坂路は、美浦よりも急斜面なため、強い負荷をかけた調教をすることができる。それにより、関西馬は鍛えられ、関東馬を圧倒しているのだ。

 宝福に促され、坂路コースを馬なりで駆け上がる。やはり、見た目通り緩やかだ。 楽勝楽――し……。なんだ? 少し――きつく……。

「美浦の坂路は始めてだろウルフ? 計測区間の八百メートルの中間、四百メートルの地点までは緩やかなんだよ。そこから、残り四百メートルで一気に十三メートルの高さを駆け上がるんだ」

 宝福は、嬉しそうに説明している。

 お前はあれか? 知識をひけらかしたいのか? などと、文句を言っている間に坂路のゴール地点に辿り着いていた。

「なんだ。やっぱり大したことないじゃないか」

 強がりではない。事実、俺の呼吸はそこまで乱れていない。

「じゃあ、もう少しスピードを上げるか」

 宝福は、俺の発言に特に触れることもなく、再び坂路のスタート地点に俺を誘導する。

「俺を誰だと思ってるんだ? スピードを上げようが、変わらんさ」俺は鼻で笑った。

「頼もしいな。じゃあ次は強めで行くぞ」宝福は、再び手綱をしごく。

 手綱からハミ――馬の口に含ませる馬具。騎手の命令を手綱から馬に伝える働きをする――を伝わり宝福の命令を受けた俺は、勢いよく坂路コースのスタートを切る。

 強めに追われた俺は、先程よりも首を下げ、低い姿勢で斜面を駆け上がる。馬なりのときよりも、馬体が多くの風を切っていくのを感じる。

 これが俺の走り……。騎手が強めに追うだけで、こうも走りが変化するのか。

 スピードに乗った俺は、ゴール地点にあっという間に到着する。

「やるじゃないか」

 宝福は、ゴーグルを外し、呼吸を整えている。俺よりもお前の方が追うのに苦労しているじゃないか。

「まぁな。楽勝だよ」

 俺の馬体から湯気が上がる。体が熱い。汗も滲んできた。ここまで体に負荷をかけたのは初めてだ。だが、先ほどより強めに追ったにも関わらず、息はほとんど乱れていない。まだまだ、長い距離を走れそうだ。

「今日はここまでにしよう。だいたいお前のことはわかったからな」

 宝福は、被っていたヘルメットを脱ぎ、髪をかき上げる。俺から下馬し、鞍を外す。

「なんだ。俺はまだまだ余裕だぞ?」

「調教のし過ぎは良くない。俺はあくまで、お前がどんな馬なのかを、見たかっただけだからな。調教メニューを考えるのは調教師(せんせい)だ」宝福は、俺の首筋をポンポンと軽く叩いている。

 宝福は調教を終えると、フラフラになりながら、土門厩舎を後にした。病みあがりに、無茶するからだろ。と、内心呟きながら、馬房の寝わらを踏みしめる。

 通路の奥で壁を鳴らす鈍い音が聞こえてくる。ジェネラスローザだ。朝方にまで、音を鳴らすとはな。勘弁してくれ……。

【後書き解説】

西高東低――日本の中央競馬の過去20年において、美浦トレセン所属の馬(関東馬)が栗東トレセン所属の馬(関西馬)に勝利数、獲得賞金で圧倒的に水を開けられていることから言われるようになった。原因の一つとして、坂路の違い。馬の飲料水の水質の違い。など、その他にも様々な要因が理由として挙げられる。

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