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入厩→騎手

 美浦トレセンに入厩してから、一週間が経っていた。だいぶ、ここの生活にも慣れてきた。

 土門の調教は比較的軽めのメニューだった。二歳馬の新馬戦――デビュー戦のこと――は、夏から始まるため、まだ俺には走れるレースがないのだ。

 午前の調教を終えた俺は兼光に引かれ、馬房に戻ってきた。馬房の近くの馬洗い所で、兼光が俺の体を綺麗に洗ってくれている。ブラシで擦られると気持ちがいい。

「こんちゃーす! 土門せんせー! いますかー?」土門の名を呼ぶ大きな声が聞こえてくる。誰だろう?

「今は出掛けていて、いないですよー!」

 兼光は、ひょこっと顔を出して返事を返す。声の主は兼光に気づくと、嬉しそうに近づいてきた。

「兼光さん。お久しぶりです」

「宝福くんじゃないか! 久しぶり! 体の調子はもういいのかい?」

 兼光は、宝福に歩み寄り、身体中をペタペタと触る。

「はい。お陰様で」

 頬をポリポリと掻きながら宝福は言った。

 宝福? ああ。騎手の宝福か。確か、中央所属の騎手だったよな。

「あれだけ酷い落馬事故だったのになぁ。人間の生命力っていうのは凄いねー」

「はい。自分でもびっくりですよ。二年前は生死を彷徨ってたのが、今ではこの通りですよ」

 宝福は力こぶをつくり、笑顔で言った。落馬事故? そういえば、宝福は春先のレース中に落馬事故に遭ってたな。復帰したのか。

 待てよ……、俺が馬に転生したのが、2011年の有馬記念の翌年の一月……。確か宝福はその年の五月に事故を起こしていて……。復帰に二年かかってるわけだから……今は、だいたい2013年の五月ってことか。どうやら、時間の系列は死んで転生してからも、大きく変わっていないようである。

「ところで、今日は調教師(せんせい)に用事かい?」

「はい。復帰のご挨拶を兼ねて、馬を見にきました」

「なるほど。ちょっと出掛けただけだから、すぐ戻ると思うよ。もしあれなら、待ってる間、馬を見ているかい?」

「いいんですか? 是非お願いします」

「ちょっと待ってな。今ウルフを洗ってるから、適当に見て回ってていいよ」

「へーウルフですか。見かけない顔ですね」

「ああ、こいつは先週入厩したばかりの二歳馬なんだよ。ホワイトウルフって名前で登録されてるんだ」

 兼光は再び、俺の体を洗い出した。

「芦毛ですか。血統は?」

「父がクレイジーイーグル、母がジャクリーヌワイルドだよ」

「母の父は、ステイヤーホワイトだったかな?」

「そうです。よく知ってたね?」

「ステイヤーホワイトが父の牝馬は少ないですからね。覚えていたんです」

「相変わらず、勉強熱心だね」

「いえいえ。僕みたいなのは、常に研究していないと、この世界で生き残れませんから」

 宝福という騎手は、研究熱心というのは本当だったんだな。若いのに勝ち星を積み上げていただけはある。

 確か、重賞勝ちはあったが、GⅠ勝ちはなかったはずだ。調子が良かっただけに、落馬事故は不運だったな。あれから二年ってことは、26、7歳ぐらいかな?

「父がクレイジーイーグルなら、こいつも砂で走るのかな? 強かったもんなー」

 クレイジーイーグルは、デビューしたばかりの頃は、芝の成績が奮わず、ダートに転向した。ダートに転向してからは、掲示板――5着以内を外したことはなく、ダートでの連対率――一着と二着の割合のこと――は100パーセントで現役生活を終えた。

「一応、調教師(せんせい)もダートの路線が濃厚って言ってましたよ」兼光が手を止めて言った。


「馬鹿野郎。俺は、芝を走りたいんだ。勝手に決めるなよ」


 つい俺は声を出してしまった。と言ってもそんな声は彼らには届くわけはないのだが……。

「あれ? 兼光さん、今ダートって言ってましたよね?」

「そうだけど?」

 俺の背中を水で洗い流した兼光は、宝福の質問に不思議そうに答える。

「芝を走りたいんだ。って聞こえたもんですから……」

 宝福は、怪訝そうな顔で兼光を見ていた。

「そりゃあ、芝で走ってくれた方が馬主さんも喜ぶと思うけど」

 そう言うと、兼光は俺から離れ、別の管理馬のもとへ向かった。宝福はそれを見送ると、俺に近づいてきた。

「俺は中央所属の騎手、宝福正臣(ほうふくまさおみ)だ。よろしくな」

 右手を軽くあげ、「やあ。元気?」とでも言うような簡単な挨拶だった。兼光もそうだったが、競走馬に関わる者は必ず馬に挨拶をするのだろうか。所詮、馬は馬だというのに……。あれか? 犬や猫に話し掛けてしまうあれに似ているのか?

 宝福は俺の鼻頭を撫でる。こちらも挨拶をしてやるか。恐らく俺の今の顔は、悪い顔をしているに違いない。

 俺は隙をみて、撫でている宝福の右手に噛み付いた。ただし甘噛みで。本気で噛んだら、指が千切れかねないからな。

「痛っ!! こら! 離せ! この!!」

 宝福は腕を振り回し、俺から右手を振り払おうとする。俺はタイミングを見計らい、口元を緩めた。

「うわ!」

 宝福は後ろに倒れ込み、尻餅をついた。体重をかけて、目一杯の力で引っ張っていたのだ、至極当然の結果だ。

「このやろ! なんて気性が荒い奴だ!」

 地面に胡座をかいたまま、宝福は文句を垂れる。俺は、その反応を待っていたのだよ。ふははは!

 おっと、ついつい変な笑いが……。続け様に、涎を水鉄砲のように前方に噴き飛ばす。宝福の顔にべっとりと俺の涎が付着する。見たか、咄嗟に思いついたコンボがこうも綺麗に決まるとはな! ふはははははは!!

「こいつ! 人を小馬鹿にしてやがる!」

 宝福は顔面についた涎を、袖で拭き取りながら言う。

「ったく。汚ねーな。だが……。こういうことが出来るってことは賢い馬の証拠だな」

 ゆっくりと立ち上がった宝福は、再び俺に近付き、首元をポンポンと軽く叩いた。

「改めてよろしくな! ウルフ!」

 宝福は、先ほど酷いことをされたにも関わらず、屈託のない笑顔で俺を見ている。

「ふん。なかなか心が広いじゃないか。さすが騎手、馬の挑発をサラリと受け流すとはね」

 ついつい、また思っていたことを呟いてしまった。やれやれ……。独り言ほど虚しいものはない……。

「あれ? また何か聞こえたような気がしたんだが……」

 宝福は、一度俺の方を見た後、馬房のある通路の左右をキョロキョロ見渡している。俺もつられて、左右の通路を見る。

 右に目をやると、兼光が管理馬のボロを片付けていた。小さい体でせっせと動き回っている。あそこは確か、三歳牝馬のジェネラスローザの馬房だ。足癖が悪く、夜中に馬房の壁を蹴ったりする奴だ。足癖の悪い女はもてないぞ。

 左では同じ厩舎の五歳牡馬、ギブミーチャンスが俺をまじまじと見ている。頭が一切動かないので、気味が悪い。青鹿毛――ほぼ黒色の毛並のその姿は、窓から刺す僅かな光によって、馬体が黒光りしており、さらに不気味さを増している。

 これが古馬の風格って奴かよ。俺は向き直り、再び宝福を見ていた。決して、睨み負けしたわけではない。

「気のせいか? 兼光さんは仕事で忙しそうだし……。何だったんだ……?」

 宝福は俺と目が合うと、お手上げの格好をして、お茶目な顔をしてみせた。

「こっち見んな。そんな顔しても、可愛くないぞ」宝福を睨み、呟く。

「ん!? まただ! また聞こえたぞ!」

 宝福は、慌て辺りを見回す。全くこいつは、何をやっているのだ。落馬事故で頭がおかしくなったんじゃないのか?

「まさか……。いや、まさかな……」

 宝福は、俺の顔をじっと見ている。

「どうかしてる。馬が喋るわけないもんな……。どうかしてるよ……」

 ブツブツと小声で呟いた宝福は、落ち着かない様子で、佇んでいる。

「おい。大丈夫か?」

 勘の良い俺は、宝福に向けてワザと思っていることを口に出してみた。宝福の取り乱している姿は滑稽だ。

「わーっ! まただよ! また近くで聞こえた! 何なんだ、何なんだ?」宝福は激しく取り乱している。

「おい。落ち着けよ」俺は鼻頭で、宝福の頭を叩いた。

「えっ?」宝福が、俺の方に振り返る。

「落ち着けよ。へぼジョッキー」

「お、おまえ……。喋れるのか!?」

「喋る事はできるさ。お前が変人なんだよ。俺の喋っている言葉が聴き取れているんだからな」

 我ながら、冷静な考察だ。間違いない。こいつには、何故か俺の言葉がわかるらしい。他の人間は勿論、同じ馬ですら俺の言葉は通じなかったのだが……。

「馬が喋ってるよ。夢か? 夢だなこりゃ」宝福は、自分の頬をつねっている。

 痛みで、夢かどうか確認する、例のあれである。夢オチであれば、ここで目が覚めるのだろうが。残念だったな。これは現実なのだよ宝福くん。

「痛い。痛いな。これは夢じゃない。目の前の馬は確かに喋っている」

「だから、喋るっていうか、お前が聴き取れているのが変なんだよ」

 ともかく、まともに喋れるように話を誘導することにした。いつまでも驚かれても、面倒臭いだけだ。

「なんで、お前は俺の言葉がわかるんだ? 他の馬もそうなのか?」

「いや、こんなこと初めてだ」

 宝福は、まだ信じられないようである。目が変な方を向いている。

「お前こそ何なんだ?」

「俺か? 俺は競走馬だよ。処分されそうなところを、乗馬用の馬として買われ、生産者の説得によって、何とか競走馬になれたのだよ。他にも色々あったんだが……説明すると長くなるからな」

 「そんなのは答えになっていない」というような、不満そうな顔を宝福はしている。

「ともかく、これも何かの縁なんだ。よろしくな」俺は口角を上げ、笑顔を作ってみせる。笑顔になっているかはわからないが。

「ああ……。馬にそう言われると調子狂うな」宝福は苦い顔をしている。

「俺をGⅠホースにしてくれ。どうせなら、ダービーや有馬記念を勝たせてくれよ」

 自分で、口には出してみたが、気恥ずかしい。なんて偉そうなのだろう。

「ありま? 有馬。有馬記念……!?」

 宝福は予想外の反応を見せた。軽口を叩いた俺に反論すると思ったのだが……。有馬記念がどうしたのだ?

「あ……り…………ま? 有……馬? 記念……!?」

 何やら頭を抱え、ぶつぶつと念仏を唱えるかのように呟いている。ひどい汗だ。今日は暑くもないのに、額や首元に汗が滲んでいる。

「お、おい……。大丈夫かよ?」見兼ねた俺は宝福に声を掛ける。

 宝福は、膝をついたかと思えば、地面に倒れ込んでしまった。俺は、大声を出して助けを呼んだ。大声というより、遠吠えを聞いた兼光が異変に気づき、急いで駆け寄ってくる。

 いったいどうしたっていうんだよ……。

【後書き解説】

重賞――競馬では、GⅠ、GⅡ、GⅢのことを重賞と言います。日本では、GⅠ>GⅡ>GⅢの順に賞金が高い。GⅠに出走するためには、一定以上の賞金が必要となります。例外として、指定されたレースで指定された着順以上をあげれば、出られる場合もあります。さらに例外として、有馬記念や宝塚記念などのグランプリレースは、ファン投票によって選出されなければ、出走権を得られません。出走するのですら難しいGⅠですから、勝つということは、大変名誉なことなのです。

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