ドナドナ→庭先取引
セリ市でまさかの売れ残りとなってしまった俺は、元いた牧場へ帰ってきた。
帰りの馬運車の中の空気の重いこと、重いこと。セリが始まる前からお通夜ムードだった蛭子たちは、さらに厳しい現実と向き合うこととなったのだ。
すまない。俺が二百万という格安でありながら、売れなかったばかりに……。
しかし、このまま誰にも売れなければ、最悪の場合処分されてしまうのでは……。
いや、折角転生して馬になり、俺は第二の人生。いや、馬生か? を送ることが出来るようになったのだ。そう簡単に諦めたくはない。
お世話になっている蛭子との約束もある。牧場側も、なんとか俺を売る方法を考えているはずである。
日本の馬産地では、庭先取引――生産者と馬主が直接馬の売買をすること――がほとんどを占めていると聞く。まだまだこの先、競馬関係者が牧場を訪れることがある筈だ。
そのときに、実際に俺が走っている姿を見せ、アピールできれば買い手がつくかもしれない。そのチャンスが来るまで、ひたすら待つことにしよう。
ある日、いつものように牧場で走り回っていると、見慣れない来客が。
小綺麗なスーツを着ている姿は、観光客ではないように見える。歳は三十代ぐらいのようで、前髪を七三分けにしている。眼鏡をかけているためか、とても真面目で賢そうな印象だ。
その中年男性の大きな背中に隠れるように、少女が一人。かなり幼いようである。恐らく、小学校低学年ぐらいだろうか。
パーカーにジーンズというラフな格好で、髪型はショートカット。活発な女の子の印象だ。キョロキョロと辺りを物珍しそうに眺めていた。
「パパ、広いねー。お馬さんがいっぱいいるよー」
「そうだな。千帆は馬は好きかい?」
「うん! 大好きっ!」
「そうか。そうか。じゃあ今日はいっぱいお馬さん見ような」
「うん!」
二人は親子のようだ。競馬関係者だろうか?
「これはこれは、多生木さん」
「やぁ。馬を見に来たよ」
「そりゃどうも。千帆ちゃんもこんにちは。大きくなったなー」
「えへへ。こんにちは!」
「どうだい良さそうな馬はいるかい?」
多生木は、どうやら馬主のようである。蛭子とのやり取りを見る限り、この牧場に馴染みのある馬主なのだろう。
待てよ……。これは、チャンスではないか? そうだ。千載一遇のチャンスではないか。ここでアピールして、なんとか買ってもらえれば、処分は免れることができる。
こうして、俺の駄馬からの脱却処分免れ決死のアピール大作戦が始まった。長い!
「今年はもう大方目ぼしい馬は手に入れましたからね。せいぜい、あと一頭か二頭ってとこですかね」
多生木は、指を折りながら説明した。予算は一千万から二千万ぐらいだと言う。
はいはい! ここに二百万のお買い得なお馬さんがいますよ! 言葉が通じるのなら、商店の売り子のように、口八丁でアピールをしたいところだ。
だが、言葉は通じないのだ。体一つでなんとかアピールするしかない。試しに多生木の近くを走ってみる。
一歳になり、馴致を行ってきた俺は、さらに走りに磨きがかかっていた。本来馴致というのは、馬に人を慣れさせるためのトレーニングであるが、俺は他の馬の倍はトレーニングに励んだ。
努力の甲斐もありトモ――競走馬のお尻から後ろ脚にかけてのこと――の筋肉は逞しくなっていた。これは、いいアピール材料になるはずだ。
多生木の近くで脚を止め、尻尾を振って注意を惹く。人間から転生した俺にとって、尻尾を振るのは中々難しいのだ。高等技術である。
「お、あの仔なんかよさそうじゃないですか!」
多生木は、速足で柵沿いを歩いて、俺に近づいて来る。
よし、そうだろう。そうだろう。やはり見る人が見れば俺の良さがわかるんだな。
「見てください。この綺麗な栗毛。血統は?」
っておい! そっちかよ!?
「父は今売り出し中のストロングショックに、母はラベスチュワートです。母の父は、サウステイストです」
「ほう。なかなか良い血統じゃないですか」
多生木は、俺をスルーして後方にいた栗毛の一歳馬に目をかけたようだ。確かに栗毛は毛色が美しいから、馬体が綺麗に見えるのだ。
これは、まずい。やはり地味な俺は、誰にも買ってもらえないのだろうか……。
「ねぇ。あなた名前は?」
ふぇ? 首を垂れ下げて俯いていた俺に少女が話しかけてきた。千帆だ。
「ふーん。シロちゃんって言うのねー」
勝手に名前を付けないでくれ。しかもなんて安易なネーミング……。
俺が芦毛で白っぽい色をしているからシロか? 悪いがどちらかというと、灰色なんだ。白色は立派な白毛っていう毛色があるのだよ。まぁ、グレーなんて呼ばれるよりはいいか……。
「シロちゃん。可愛いね。人参食べる?」
千帆は柵越しの俺に、人参を差し出した。お、こいつは気が利く子供じゃないか。遠慮なく頂くことにする。
だが俺は、正直子供が嫌いだった。
人間のときの話だが、目つきが悪く、気性の荒かった俺は子供の方から離れて行くのだ。何もしていないのに、俺と目を合わせただけで泣き出す子供までいたほどである。
だが千帆は、馬の姿とはいえ、目つきの悪い俺に臆することなく、話しかけてくる。
「おいしい?」
千帆は俺の鼻頭を優しく撫でる。鼻頭を撫でられると妙に落ち着く。千帆は、馬の扱いに慣れているようだった。
恐らく、小さな頃から競走馬が身近にいる環境で育ったからだろう。
「千帆ちゃん! ウルフは気性が荒い馬だから気をつけてくれよ! 指食われちまうぞ!」
多生木と話していた蛭子が、千帆に駆け寄る。失礼な! さすがの俺でも急に噛み付いたりはしないぞ! 去勢されて騸馬にはなりたくないからな!
「ウルフ? ウルフって言うんだー面白い名前。大丈夫だよおじちゃん。この仔は、とってもいい仔だよ」千帆は笑顔で俺を見つめる。
「千帆! ダメじゃないか! 勝手に出歩いちゃ!」多生木は、千帆を叱り出した。
いやいや……。あんたが馬を選ぶのに夢中で放ったらかしだったんだろ……。
俺の呟きは聞こえるわけもなく。千帆はシュンと肩を窄めて、落ち込んでいた。
「へー芦毛の馬ですか」
多生木は、俺に気付いたようである。やっと気付いたのかと、やや睨みをきかせる。
「なんというか、眼光が鋭い馬ですね。この馬の血統は?」
「父がクレイジーイーグル。母がジャクリーヌワイルドです。母の父は、ステイヤーホワイトです」
蛭子は資料も見ずに、答える。流石は牧場主である。
「なるほど、なんとも地味な血統ですね」
「やっぱりそう思いますか……」
蛭子は、残念そうに帽子のツバの傾きを直している。
こらこら。同意してどうする。そこは、もっと俺の良いところを説明するところだろ!
「この仔欲しい……」
千帆は、蛭子と多生木の前に立ち、言った。
「欲しいって。おいおい……」多生木は、驚いた様子だ。
「千帆ちゃん。ウルフのこと気に入ったのかい?」蛭子は屈んで、千帆に聞く。
「うん。だって、とっても可愛い目をしてるもの!」
千帆は、大きな声で主張した。頬が僅かに紅潮している。
俺の目が可愛いだと? 変わった子供がいるものだ。だが、チャンスだ! もっと俺の良い所を多生木に伝えるのだ! 今は千帆に望みを託すしかないのだ。
「それにほらこの毛色、地味だけど可愛いじゃない!」
千帆は可愛いしか言わない。もっと、俺の他の部分を褒めてほしいのだが……。この際、贅沢は言ってられない。
「とは言っても、オモチャを買うのとは訳が違うからなぁ」
多生木の言うことも一理ある。馬主たるもの、やはり走る馬を買いたいところなのだろう。
いやいや、自分から走りませんと宣言しているようなものではないか。俺は走る馬だ! たぶん……。
「ちなみにお値段は?」
「先日セリ市では、二百万の値で売りに出したんですが、買い手がつかなくて……」
「なるほど……ふむ。わかりました。なら、二百万で買いましょう」
多生木はあっさりと買い取ることを決めた。
え……!? 嬉しいのだが、あまりにも即結だったので、拍子抜けしてしまった。
「本当に!? パパありがとう! 千帆嬉しい!」
千帆は飛び跳ねながら、満面の笑みを見せて喜んでいる。
「ありがとうございます!」
蛭子は深々と多生木にお辞儀をして、お礼を言った。帽子のツバを前に向け、深々と被り直した蛭子の瞳には、涙が浮かんでいた。
俺が売れたのが嬉しかったのだろう。自分のことのように喜んでくれている。俺も段々実感が湧いてきたのか、素直に嬉しい。自然と尻尾をフリフリと動かしてしまう。
「それでは、手続きを。あっ。まだ気が早いですが、厩舎をどうするか決めないと行けませんね」
蛭子は、一年も先の話を話題に出している。よほど嬉しかったのだろう。
「ん? 何を言ってるんです? この馬は厩舎には入れませんよ?」
多生木は、不思議そうに蛭子の発言を否定する。ん? どういうことだ?
「この馬は、千帆が気に入ったようなので、『乗馬用』に買ったのですよ?」
さて…………。
ぬか喜びとはこういうことを言うのだろうな……。
俺はどうやら、サラブレッドから乗馬用の馬に成り下がってしまったらしい。
まだサラブレッドのスタート地点にすら立っていない俺の今後は、正に前途多難なのだろう……。
【後書き解説】
去勢――牡馬は去勢をして、生殖機能を奪うと、気性が穏やかになります。気性が激しく、手のつけられない馬の最終手段として手術を行うのです。去勢された馬のことを騸馬と言います。デメリットもあります。騸馬は、一部のレースに出られなくなり、種牡馬として子孫を残すことができなくなります。