第1章第2話:冒険者協会
ここへやって来てからというもの、俺は両親の会話を耳にし、この家の状況や世界の概略、そして前世とは大きく異なる行動理念を大まかに理解するようになった。
前世の俺は、ただ静かに平穏な暮らしがしたかっただけなのに、そのささやかな願いすら叶わなかった。だが、この世界にやって来て温かい家族を得た今、俺は再び希望を見出すことができている。
今日も今日とて退屈な一日だ。正直なところ、赤ん坊としての生活は退屈以外の何物でもない。筋肉が発達していないため立つこともできず、移動はハイハイ限定。これが俺にはあまりにも滑稽で心地悪く、活動範囲もベッドの上に限られていた。
前回の外出からすでに数日が過ぎている。また外に出たくてたまらない。
ガチャリ、と部屋のドアが開いた。母親が入ってきたのだ。
「あら、もう起きていたの? アレックス」
彼女は近づくと、俺を優しく抱き上げた。
「アレックス、お腹が空いたの?」
母はベッドの端に腰掛け、俺を横抱きにした。俺はまだ小さく、普通の固形物は愚か離乳食すら食べられないため、母の母乳に頼るしかない。
「ちょっと待ってね」
母は服の胸元を寛げた。
目の前一面が白く染まる光景に、いくらか心の準備はしていたものの、どうしても恥ずかしさを抑えきれない。
赤ん坊にとっては当たり前の光景なのだろうが、中身が17歳の少年である俺にとっては、相当生殺しの気分だった。ここに来てから何度も経験しているとはいえ、やはり気恥ずかしいものは気恥ずかしい。
「良い子ね、良い子」
母が優しく背中を撫でてくれる。
どこか気まずい時間がようやく終わり、彼女は服を整えると、俺をベッドへと戻した。
「それじゃあ、ママは先に行くわね」
母が部屋を出て行こうとする。
「あ……う……」
俺は彼女に向かってハイハイで近づき、小さな手を振った。言葉は話せなくても、俺の意志は伝わると信じて。
「どうしたの、アレックス? 外で遊びたいの?」
母は再び引き返し、俺をひょいと抱き上げてくれた。
やった、これで一日中この部屋に閉じ込められずに済む!
「仕方ないわね。じゃあ、パパのところへ遊びに行きましょうか」
ふむ、父親の職場を見学するのも悪くない。この異世界に来て一ヶ月余り、母は普段買い出しの時くらいしか外出せず、主に働いているのは父の方だと分かっていた。父が一体どんな仕事をしているのか、純粋に興味があったのだ。
母は俺を抱っこして階下へ向かった。だが外に出るのではなく、向かった先は厨房だった。俺を椅子の上に降ろすと、料理を作り始めた。
妙だなと思ったが、俺はある大事なことを忘れていた。もうすぐお昼時なのだ。
椅子の上に座り込み、母が料理を作る様子を眺める。出来上がった料理は木製の箱に詰められていく。昔、和歌山で暮らしていた頃もおふくろがよく親父に弁当を作っていたっけ……なんだか懐かしいな。
「よし、それじゃあ出発しましょう」
弁当箱をまとめた母は、俺を抱き上げて玄関へと向かった。
久しぶりに浴びる太陽の光が顔を照らす。通りを行き交う人々や大小様々な建物を眺めながら歩くだけでも、良い気晴らしになった。
やっぱり外は最高だ。一日中家に閉じこもっているなんて退屈で死んでしまう。
いくつかの通りを抜けると、母はある建物の前で足を止めた。
全体が白で統一された二階建ての建物で、入口にそびえる柱のせいで、まるで銀行のように見える。
扉の前には腰に剣を差した二人の大柄な男が立っていた。
異世界にも銀行みたいな場所があるのか? 親父はここで働いているのか……?
母が近づくと、二人の番兵は大扉を開けた。
しかし、一歩足を踏み入れた俺の視界に飛び込んできたのは、想像していた光景とはまるで違う光景だった。
店内は凄まじい喧騒に包まれていた。いくつもの丸テーブルが並び、奥には受付カウンターがある。客たちはビールのような飲み物を煽っていた。さらに、カウンターの真正面には舞台のような設備があり、数人の少女たちが現代のポップ・ロックに似た音楽を演奏している。
まさかこんな場所で、前世のライブハウスで見たようなバンド演奏を聞くことになるなんて……吉報なのか凶報なのか分からないが、この音楽を聞いているとなんだか心が晴れやかになるな。
多種多様な人々が酒を飲みながら歓談していた。野獣の顔を持つ者、頭に猫耳を生やした者、そして全身甲冑に身を包んだ者。彼らは一人残らず武器を携えていた。
覚悟はしていたつもりだったが、これほどまでに混沌とした異形の人々を目にして、俺は思わず唖然とした。
……親父って、酒場で働いてるのか!?
「こんにちは、リフレット奥さん」
受付の人物が、丁寧な口調で母に挨拶をした。
「ご苦労様」
母は受付に短く挨拶を返すと、右手にある廊下へと進んで行った。廊下を抜け、階段を上がって二階へ向かう。すると遠くに大きな扉が見えた。母は足早に近づき、その扉を開けた。
部屋の中は実に重厚で立派な装飾が施された執務室だった。そして部屋の中央、大きな木製デスクの向こうに座っていたのは——俺の父親だった。
……親父って、酒場の支配人なのか!?
「リフレ、どうしたんだい?」
「まだお昼食べてないでしょう、あなた。お弁当を持ってきたのよ」
母は手に持った弁当箱を軽く揺らし、微笑みながら父に手渡した。父は近づいて母の頬に軽くキスを落とすと、そこで初めて俺の存在に気づいた。
「おや、アレックスも来たのか」
父は母の腕から俺を抱き上げ、高々と高い高いをしてから、再び母の腕の中へと戻した。
トントン、と執務室のドアがノックされた。父が歩み寄り、ドアを開ける。
入ってきたのは父の部下らしき男だった。ドア越しに二言三言交わすと、父とその男は部屋を出て行った。
「ボス、下に酔っ払いが二人いて暴れてたんで、処理しておきました」
「ボスって呼ぶなと言っているだろう……それに『処理した』ってどういう意味だおい、命まで取ってないだろうな?」
「滅相もない、ちょっと痛い目を見せて叩き出しただけですよ」
「ならいい。次からそういうことがあっても、お仕置き程度にとどめておけ。ギルド内で死人を出すんじゃない……」
その男の声を聞いた瞬間、俺の胸の奥から強烈な恐怖が沸き上がってきた。
その声のトーン、そして話している内容——あのヤクザどもの一人を、痛烈に思い出させたのだ。
ギィ、とドアが開き、男が父の後ろについて入ってきた。
おかしい……見た目はそれほど恐怖を感じさせる顔じゃない。むしろ愛想が良さそうに見えるのに、なぜ俺はこんなに怯えているんだ……?
「おやボス、それはお嬢さんですか? 実に可愛らしいですね」
「いや、息子だよ」
「ちょっと抱っこさせてもらってもいいですか?」
……来るな。
「ああ、構わないが、気をつけてくれよ」
男が母に向かって歩いてくる。
くそっ、近づくな! こんな奴に触られたくない、失せろ、離れろ!!
男は俺を見下ろすと、母の腕からひょいと俺を抱き上げた。
やめろ——!!
「わあぁぁぁぁぁっ!!」
俺は足をバタつかせ、必死で抵抗した。
「おや、小さいのに威勢がいいな」
男はひとしきり俺を抱くと、すぐに母の腕の中へと戻してくれた。
「よしよし、アレックス、泣かないでくれ」
父が近寄り、優しく宥めてくる。
……誰も俺を理解してくれない。昔も、今も、誰一人として。
男は部屋の中をぐるりと見渡すと、静かに部屋を出て行った。
「アレックス、抱っこして冒険者協会をご案内してあげるわね」
冒険者協会……?
苦い記憶からようやく意識を引き戻したばかりの俺は、思わず胸の中で首を傾げた。
ということは、親父は酒場を経営しているわけじゃないのか?
そんなことを考えている間に、俺は優しく抱きかかえられて階段を下りていた。
一階に着くと、俺を抱いた母は父の案内に従って大ホールへと向かった。ホールに足を踏み入れると、相変わらず演奏の音が響き渡っている。
父は身をかがめて俺を見つめると、目の前にいる多種多様な人々を指差した。
「左側に座っているあの猫耳のお嬢さんは、猫の亜人だよ」
父は人間の顔立ちに猫の耳を生やした若い少女を指しながら説明してくれた。
へえ、ちゃんとそういう名称があるのか。
「右側に座っている奴らはオークだ」
オークか……正直、野獣の頭が人間の体についているのは何とも奇妙に感じるし、どれもこれも凶相ばかりだ。
その時、父は振り返って俺と母の顔を見つめた。
「お前のママはハーフエルフなんだぞ」
エルフ? なるほど、母さんと俺の耳が尖っている理由はそれだったのか。
「ハーフエルフと人間じゃ寿命がまるで違うんだ。ママの寿命は俺よりずっと長いんだよ」
「バカね! 子供にそんな話をしてどうするの!」
母は父の頭をポカリと強く叩いた。
まあ、俺の中身は全然子供じゃないんだが。
「アレックス、これを見てごらん」
抱っこされたまま一枚の大きな壁の前まで連れて来られた。壁一面にはポスターのようなものがびっしりと貼られている。何かの知らせだろうか。それとも、手配書か?
「冒険者協会ってのはな、みんなの困りごとを解決するのが主な仕事なんだ。困ったことがあれば誰でもここで手伝ってくれる仲間を探すことができる。お前も将来何か困ったことがあったら、ここに来るといい」
確かに悪くない場所だな。だが……このホールにいる連中が、どう見ても頼れる協力者には見えないのはなぜだろうか?
「もういいでしょう、ホワイト。そろそろ時間よ、アレックスも疲れてきたみたいだし」
「ははは、夢中になって喋っていたら時間を忘れかけていたよ。先にアレックスを連れて帰ってくれ」
母は俺を抱っこしたまま、その建物を後にした。
なぜだろう、父の言葉にはどこか引っかかるものがあり、この冒険者協会全体もどこか奇妙に思えてならなかった。
まあいい、まずはこれから続く退屈な日々をどうやってやり過ごすか考えることにしよう。




