「記録魔の悪役令嬢は気味が悪い」と断罪された私ですが、その帳面ごと隣国の皇太弟殿下に拾われました
「記録魔の悪役令嬢は気味が悪い!」
その声が広間へ響いた瞬間、私はむしろ少しだけ安心した。
ああ、やっぱりそこを罪状にするのね、と。
春の夜会の中央で、第一王子の取り巻きたちが左右に分かれて立っている。
泣きそうな顔をしているのは、最近やたらと彼らに庇われているリリアーナ嬢。
そして真正面で私を指さしているのは、王太子補佐を務める侯爵子息ガスパールだ。
「君は何でも帳面に書きつけ、人の言動を探り、落ち度を探している」
「事実確認です」
「それを気味が悪いと言っている!」
会場はざわめき、視線が一斉に集まる。
私は扇を閉じ、片腕に抱えていた帳面をそっと持ち直した。
焦げ茶の革表紙。角は擦れ、頁には細かな付箋が差してある。
学院の催事記録、寄付金の照合、温室の苗の出入り、夜会の席次変更、馬車の入出刻限。
私は昔から、気になったことを何でも書き残す癖があった。
理由は単純だ。人の記憶は都合よく歪むが、記録は少なくとも歪んだ痕跡を残すから。
「リリアーナ様が困っているのに、君はそれを利用していたではないか」
「利用、とは」
「彼女が失敗するたび、嬉しそうに帳面へ書いていた」
嬉しそうに、とは心外だった。
実際には、寄付帳簿の数字が噛み合わないことや、温室の鍵が誰の手を渡ったかを確認していただけである。
だがこういう場で説明は意味を持たない。
必要なのは分かりやすい役柄で、私は今ちょうど「陰気で執念深い悪役令嬢」の席に座らされているのだ。
「返答はないのか」
ガスパールが声を強める。
「ありますわ」
私はゆっくり言った。
「帳面に書いていたのは、誰がどの時間に何を動かしたかです。気味が悪いかどうかはともかく、後で困るよりはましでしょう」
「ほら見ろ、やはり反省していない」
場が一気に彼らの方へ傾く気配がした。
王子の取り巻きの一人が、わざとらしく息をつく。
「貴族令嬢が、人の綻びばかり記録するとは」
「だから悪役令嬢なのですよ」
誰かがそう囁き、リリアーナ嬢がまた目元を押さえた。
私はその様子を眺めながら、胸の奥で静かに線を引く。
ここまで来たらもういい。
この国では、帳面は罪状なのだ。
ならば、その罪状ごと持って出ればいい。
私は一礼だけした。
「では、そのように」
「待て」
ガスパールが苛立った声を出す。
「帳面を置いていけ」
その瞬間だけ、私は本気で笑いそうになった。
これだからだ。彼らは帳面の中身を侮辱しながら、同時にそれを手放したくない。
「お断りします」
「証拠隠滅のつもりか」
「私物ですもの」
私は帳面を胸元へ抱き寄せた。
「それに、気味が悪いのでしょう? ならば近くにない方が安心ではなくて」
そのまま踵を返す。
背後で何か言われた気もしたが、もう振り返らなかった。
私の席は、この国にはない。
ならば早いうちに出るべきだ。
◇
翌朝までに、私は必要な物をすべて整えた。
祖国に未練はないと言えば嘘になる。
けれど残ったところで、帳面を手放し、曖昧な優しさに従って沈黙する以外の未来は見えなかった。
荷は少ない。
衣類、証書、最低限の装飾品、そして数冊の帳面。
帳面は用途ごとに分かれている。
学院記録帳。
夜会出納帳。
寄付金照合帳。
人の悪意を記録するためではない。ただ、誰かが後から「そんなはずはない」と言い出した時に、盤面の歪みを辿れるようにするためだ。
私は昔から、そういうふうに世界を見ていた。
誰かの顔色ではなく、刻限と数字と順序で。
それを父は「細かすぎる」と言い、母は「もっと大らかに」と笑い、元婚約者は「だから女らしくない」と評した。
けれど、そのどれも私を守ってはくれなかった。
だから今度は、自分の見方を捨てずに済む場所へ行く。
行き先はアルフェリア。
祖国の東にある隣国で、規律と軍政に優れ、冷酷な皇帝一族が治める国として知られている。
愛想のなさなら、帳面嫌いの祖国よりよほど相性がいいかもしれない。
国境を越えたのは二日後の昼だった。
検問所で書類を見せると、兵士が帳面の束を見て少し眉を上げる。
「随分と紙を持ち込まれるのですね」
「これがないと困りますので」
私はそう答えたが、兵士は笑わなかった。
むしろ当然のように通行票へ印を押し、別室への案内札を差し出す。
「王都に着いたらこちらへ。財務監査局の窓口です」
「監査局?」
「紹介状にそのように」
紹介状を書いてくれた商会主も、まさかそんな場所へ繋ぐとは言っていなかった。
けれど、隣国ならあり得るのかもしれない。数字と書類を侮らない役所が。
王都へ着いた翌朝、私は指定された窓口を訪ねた。
応接室へ通され、温かい茶まで出される。
祖国なら「後日改めて」と待たされるところだ。
「クラウディア・ヴァレンティナ嬢」
呼ばれて顔を上げる。
入ってきたのは、監査局の首席補佐官と名乗る中年の男だった。
「持参いただいた帳面、拝見しました」
机の上には、私の学院記録帳が開かれている。
勝手に読まれたことへ腹は立たなかった。
読んだ上でなお、ここへ呼んだのなら、その時点で祖国とは違う。
「温室の鍵の移動記録、寄付金の差し戻し、夜会の席次変更……」
補佐官は頁をめくる。
「かなり細かい」
「必要でしたので」
「祖国では評価されましたか」
「いえ。気味が悪いそうです」
率直に言うと、補佐官は一瞬だけ黙った。
「ならば、こちらは幸運ですね」
「……幸運?」
「そこまで痕跡を拾える人間が、自分から帳面ごと来たのですから」
その言い方だけで、少し息が楽になる。
やはりこの国では、帳面は最初から罪状ではないらしい。
「ひとつ、試していただきたい案件があります」
補佐官は別の束を差し出した。
軍需品の受払記録だった。
表面上は整っている。だが頁を三枚めくっただけで、私は違和感に気づいた。
「封印番号が飛んでいます」
「早いですね」
「いえ、目立ちます」
祖国でも何度か見た。帳簿そのものではなく、帳簿を繋ぐ中継記録で不自然な抜けが出る時、それは大抵、誰かが“きれいに整えたつもり”の後だ。
「封印番号九一二と九一四の間に九一三がありません」
「書き漏れでは」
「いいえ。次頁の追記欄にだけ残っています。誰かが本記録から外した」
私はそのまま搬送刻限表、倉庫入出記録、運搬人名簿を並べた。
「本来は北倉庫へ入るはずの布が、南倉庫経由になっています」
「つまり?」
「横流し未遂か、少なくとも差し替えです」
補佐官の目が鋭くなった。
「根拠は」
「ここです」
私は帳面の端を指で押さえる。
「同じ封印番号に対応する搬送人が、二時間後に別の積荷にも署名しています。距離的に間に合いません」
「偽署名か」
「あるいは写し書きです」
補佐官はしばらく無言で記録を見つめ、それから鐘を鳴らした。
「すぐに南倉庫へ人を」
わずか半刻後、戻ってきた使いが報告する。
結果は私の見立てどおりだった。
軍需用の防寒布が、別の商人荷へ混ぜられかけていたのである。
「……驚きました」
補佐官は率直に言った。
「祖国でも、こんなふうに帳面を?」
「ええ。笑われながら」
「惜しいことをする国だ」
私はその言葉に返事をしなかった。
惜しいと言われても、あの国は惜しいと思わなかったからこそ私を手放したのだ。
◇
その日の夕刻、私は宮殿へ呼ばれた。
通されたのは、豪奢ではあるが無駄のない書斎だった。
棚は高く、窓は狭く、机の上は驚くほど整っている。
その中央に立っていた男が、こちらへ視線を向けた。
アレクセイ皇太弟殿下。
現皇帝の弟にして、監査局と軍政の実務を束ねる人物。
冷淡で容赦なく、数字の合わない者を嫌うと噂されている。
「クラウディア・ヴァレンティナ」
低く、よく通る声だった。
「はい」
「帳面を見せろ」
第一声がそれで、私は思わず瞬いた。
祖国では「気味が悪いから置いていけ」と言われた物を、この人は最初に「見せろ」と言う。
私は抱えていた帳面を差し出した。
皇太弟殿下は椅子にも座らず、立ったまま頁をめくる。
「学院催事、寄付金、夜会出納、温室管理……」
「雑多ですが」
「雑多ではない。歪みの出る場所を追っている」
私は息を呑んだ。
その一言で十分だった。
この人は中身を読める。
しかも、何のために書いたかまで拾っている。
「記録癖だと笑われました」
「笑う者は、いずれ記録に殺される」
さらりと言われて、私は少しだけ口元を緩めた。
恐ろしい物言いだが、妙にしっくり来る。
「南倉庫の差し替えも、この帳面の見方で気づいたか」
「はい。数字より、繋ぎの痕跡が不自然でした」
「良い」
たった二文字だった。
けれどその短い評価に、余計な侮りが一つも混ざっていない。
「祖国へ戻る気は」
「ありません」
「即答だな」
「不要だと証明された場所ですもの」
皇太弟殿下はしばらく私を見た。
その視線は冷たいというより、読み取るためのものだった。
人の表情や愛想ではなく、返答のぶれなさを見ているような。
「ならばこちらで働け」
「……随分と早いお話ですね」
「遅い方が無駄だ」
もっともだ。
私も長々と期待だけ引き延ばされるのは好まない。
「監査局付きの記録精査補佐を置く。仮職ではなく継続の席だ」
継続の席。
その言葉が、胸の中でゆっくり形を持つ。
祖国での私は、いつも誰かの横にある余白だった。
名前の出ない整理役。便利な補助線。問題が解ければ忘れられる手。
けれどこの人は、最初から席だと言う。
「条件があります」
気づけば、私はそう言っていた。
「聞こう」
「帳面は手放しません」
「当然だ」
「整理だけではなく、必要なら改善提案も出します」
「そのために置く」
「それから、もし祖国から呼び戻しが来ても」
「断る」
言い切られて、私は一瞬だけ言葉を失った。
「私の返事を聞く前に?」
「戻したくないから聞いている」
あまりにも率直で、笑いそうになる。
甘い口説き文句とはほど遠い。けれどそのぶん、期待だけで終わる気配もない。
「……承知いたしました」
「受けるか」
「はい」
答えると、皇太弟殿下はほんのわずかに頷いた。
表情は大きく変わらない。だがその一瞬だけ、空気が和らいだ気がした。
「よろしい」
それだけで、話は終わりかと思った。
けれど彼は帳面を閉じ、私へ戻しながら付け加える。
「それと」
「はい」
「その帳面は、今後こちらでも持ち歩け」
「ええ」
「誰にも置いていけと言わせない」
胸の奥が、不意に熱くなった。
たかが帳面だ、と笑う人は多かった。
だがこの人は、その帳面ごと守ると、まるで当然のことのように言う。
丁重に扱われる、というのはこういうことなのだろう。
飾られたり甘やかされたりすることではない。自分の武器を、そのまま武器として扱われることだ。
◇
新しい執務室は、宮殿東棟の監査局隣室に用意された。
机は広く、記録箱には鍵が二つつき、補助筆記官までついている。
最初の一週間で、私は三つの案件を処理した。
南倉庫の差し替え、港湾税の二重計上、そして軍馬の飼料台帳の抜け。
どの案件でも共通していたのは、数字より先に“説明されない違和感”があることだった。
日付の飛び。
確認印の欠落。
同じ筆跡の不自然な模写。
帳面は何でも記録する。だからこそ、記録されなかった部分も逆に見えてくる。
祖国では、その見方を気味が悪いと呼んだ。
けれどアルフェリアでは違った。
「その視点は有用です」
補佐官は率直に言った。
「他の者にも共有できますか」
「完全には無理でしょう」
「なぜ」
「嫌がられながら何年も続けないと、癖になりませんから」
自分で言って、少しだけ可笑しくなった。
補佐官も一瞬だけ息を漏らしたが、すぐ真顔へ戻る。
そんな日々を送るうち、祖国からの書状が届いた。
父から。
ついでに、あの夜会で私を断罪したガスパールからも。
『誤解があった』
『戻って説明してほしい』
『王宮会計に乱れがあり、君の知見が必要だ』
必要。
その言葉だけ見れば、今の私が欲しかったものに近い。
けれど違う。
向こうが欲しがっているのは私ではなく、便利な帳面の持ち主だ。
不要だと切り捨てた後で、困った時だけ呼び戻すための。
私は返事を書かなかった。
その代わり、その書状を閉じて机へ置いた時、扉の向こうから声がした。
「浮かない顔だな」
皇太弟殿下だった。
「祖国からです」
「戻れと?」
「ええ。今になって、必要だそうです」
彼は机の上の封書を一瞥する。
「遅い」
短く、それだけ言った。
あまりにも簡潔で、私は少しだけ笑ってしまう。
「本当に」
「返答は」
「するつもりはありません」
「ならば処理する」
「処理」
「監査局経由で正式に辞退通知を出す。私的な未練を残さない形で」
そこまで先回りされて、私は一瞬だけ黙った。
この人はいつもそうだ。優しい言葉を並べる代わりに、実際に必要な線引きを先に引く。
「ありがとうございます」
「礼は不要だ」
「では、何と?」
皇太弟殿下はごく僅かに目を細めた。
「こちらで必要な人材だからと伝える」
その一言で十分だった。
祖国では罪状だった帳面が、ここでは役目になる。
気味が悪いと笑われた記録癖が、ここでは最重要資質として扱われる。
私が欲しかったのは、たぶん最初からそれだけだった。
見たくないものまで見てしまう自分の癖を、捨てろと言わない場所。
その癖ごと、必要だと言う人。
「クラウディア」
不意に、皇太弟殿下が私の名を呼んだ。
「はい」
「その帳面は、今後も増えるのだろう」
「きっと」
「ならば、保管箱をもう一つ用意させる」
私は吹き出しそうになった。
「それは……口説き文句としてはどうかと思います」
初めて、皇太弟殿下ははっきりと眉を上げた。
「口説いているつもりはない」
「そうでしょうね」
「必要だから言っている」
やはりそこへ戻るのか、と私は思う。
けれどその一貫性が、可笑しくて、嬉しくて、どうしようもない。
「でしたら、ありがたく」
答えると、彼はほんのわずかに口元を緩めた。
噂の冷酷さが消えたわけではない。
ただ、必要なものを必要な形で扱う時だけ、この人は恐ろしく丁寧なのだ。
祖国で罪状だった帳面は、今や私の席そのものになった。
頁をめくるたび、そこには私が見てきた歪みと、これから正していける余地が並んでいる。
もう誰にも、気味が悪いから置いていけとは言わせない。
私は新しい頁を開き、今日の日付を書いた。
アルフェリア監査局、東棟。
保管箱、二箱目申請。
祖国からの呼び戻し、正式辞退予定。
最後の行を書き終えて、ふと笑う。
罪状だったはずの帳面が、立場ごとひっくり返す。
そんなこと、本当にあるのだ。




