人生の殆どは無駄遣いである
さっき書いたエッセイのまた逆を書くので混乱するかもしれないが、異世界小説はゴミだし、それを読むのは無駄なのであるが、人生のほとんどは無駄遣いということも念頭に置いて欲しいのである。たとえば、私がどれほどエロサイトに時間を費やしたか、考えるだけで恐ろしくなる。
人生のほとんどは無駄遣いである。
そう言うと、多くの人は顔をしかめる。努力は報われるべきだとか、時間は有効活用すべきだとか、人生には意味がなければならないとか。だが、冷静に振り返ってみれば、私たちの記憶に残っている時間の大半は、成果とも教訓とも呼びにくいものではないだろうか。
意味があったと言える出来事は、実は驚くほど少ない。試験に受かった、就職した、結婚した、子どもが生まれた。そうした節目は確かに存在するが、人生の時間配分で見れば、それらは点に過ぎない。残りの膨大な時間は、待ち時間であり、退屈であり、後悔であり、どうでもいい会話や、どうでもいい動画や、どうでもいい思考で埋め尽くされている。
それでも人生は続いていく。無駄を排除しようとしても、無駄はしぶとく残る。むしろ、無駄を削ぎ落とそうとする行為そのものが、最大の無駄になることすらある。効率化の名のもとに予定を詰め込み、意味を求めて自分を追い立て、気づけば息切れしている。そこに残るのは、達成感ではなく、疲労だけだ。
不思議なことに、あとになって懐かしく思い出すのは、無駄だった時間である。何も生まなかった夜更かし、目的もなく歩いた道、実りのない会話。それらは当時「無意味」だったが、今となっては人生の質感を形づくっている。無駄は記録には残らないが、感触として身体に沈殿する。
人生が無駄遣いであるという事実は、悲観ではない。むしろ救いだ。すべてに意味があり、すべてが成果に結びつかなければならない人生は、あまりに息苦しい。無駄であっていい、失敗していい、忘れ去られていい。その前提があるからこそ、人はようやく肩の力を抜いて生きられる。
人生のほとんどが無駄である。だからこそ、残りのわずかな瞬間が、静かに光るのだ。無駄の海を泳ぎながら、たまに足の裏に触れるその感触を、私たちは「生きている」と呼ぶのかもしれない。そして、こんな内容空疎なエッセイを読んでいること自体も、人生の無駄遣いということを、ゆめ忘れてはならない。




