71話まで書いて(^o^)
さて、このエッセイも71話まで書いて、目標の100話まで近いのであるが、ちょっと読み返して、私は、「やっちゃいけない」ところで、チャットgpt の文章にしているから、「なんじゃこりゃ」みたいになってしまっている。
しかし、それも良いと思っている。一応、GPTには、詳細にこう書けと指示して、そして、私がチェックして書かせているので、致命的な破綻はない。破綻はないが、私の思想からはかなり離れていってしまっているが、そもそも、私はそう言うものを書きたいのである。
思考というものは、正反合ということになっている。チャットgpt が何を書こうとしたところで、この範囲内に収まっているのだから、私は軌道修正してゆけば良いだけの話で、そして、それはできているので、私のこのエッセイは、殆ど迷宮化しようとするほど難解になってしまっているが、それは現在形と言うことなのだ。
そんな簡単に物事をわかると思わない方がいい。恋愛でもそうではないか。女なんてものは一生わかりゃしない。多分、他者なんてものは一生わからない。あなたも、私をわからないし、私も私をわからないものだろう。だから痕跡を残そうとしているのである。
それは不安であるし、一生、フラフラしているだけなのかもしれないが、それが正しいのである。坪内逍遥という作家がいた。彼のペンネームは最高ではないか。彷徨っているが、所詮は壺の中、と言うことである。ここにおいて、人々は、壺ばかりに目がゆくのだ。しかし、大切なのは、彷徨うと言うことだ。彷徨っている内に、壺を越えることもある。それが作品なのだ。その壺の外が、死ということである。これは他者でもいい。
私たちは彷徨っているが、その逍遙こそ、一生で一回のものにしないといけない。この文章でもそうで、これは紛れもなく、一生一回のものである。71回目のものである。そういう風に、ものを書かなくてはいけないのであり、その連なりが文学作品である。そうであるなら、もはや、作法なんてものはどうでもいい、些事でしかないのだ。
ものを動きとして捉えないといけないのだ。これはありとあらゆるものがそうである。静物として、捉えてはいけない。しかも、絵画の静物というのは、動かないものを通して、動きを書いているのだ。能楽が、死というものを通して、生を表現しているのと同じ構造である。うん。そりゃそうだ。つか、段々と、小林秀雄めいてきたな。




