ナポレオンと異世界小説
私は、多分、今後一切、異世界小説というものを読もうとは思わないが、理由は二つあって、若い時に死ぬほど、TRPGのシナリオを書いたり、GMをやったからであり、今のブームはその回帰でしかない……その内、飽きられて、二束三文の紙束になり、また、みんな、装いだけを変更した、別のことをやり始めるだろう。そして、もう一つは、まさにその内容なのであるが、異世界小説は、いわゆる娯楽もの、時代劇→ファンタジーライトノベルの焼き直しでしかないからである。
そこに文学性なんてものはあろうはずがないし、そんなものを書いているセンスの悪い人間が、別のことでのしあがるなんてことは一生ないし、つまり馬鹿発見装置なのであり、人生をそんな無駄なことに費やしてしまってはいけないし、いや、なんなら図書館にも、そろそろ溢れかえり始めているので(笑)、図書館かKindle Unlimitedで読まれることをお勧めしたい。
異世界小説のパターンは、一つしかない。それは、異世界に行って世俗的成功を収めることである。このパターンが違うと思う人は、私にその本を持ってきて欲しい。何万とクソゴミが出版されているが、どれも同じである。これは、つまり、ナポレンになりたいんだ、ということである。
「我と汝とそれ」というエッセイの中で書いたが、「孤独と愛」の中で、マルティン・ブーバーは、ナポレオンのことを「それ」しか思いつかなかった悲しい人、と定義している。彼の人生には、「それ」しかなかったのだ。つまり、皆さんが思われている、悪い意味での「ひろゆき論法」みたいなことをして、生きてきた人なのである。彼の人生は、ほとんどゲームであり、わかりやすく言えば、SRPG、ファイヤーエンブレムみたいなものだろう。(光栄の『ランペルール』でも良いのであるが)
我々が人間として十全に生きるためには、「それ」だけではだめなのだ。その中に「なんじ」がなきゃいけないのである。これは、「他者性」ということである。レヴィナスという人は、「まず、他人の顔がある。そこに映る私というもの、これが私の本体である」という論を展開しているのであるが、私はそこまで、いけるかどうかはわからないが、そう言う意味での「なんじ」の探究をしなくてはいけないのである。
私と言う使い古されたポンコツの中で、閉塞していては、人は精神病になって死んでしまう。読書とは、開かれるためにすることである。勿論、自我を強化するために読んでいる人が殆どであることは知っているが、私はそう言う立場には立たない。




