モーリス・ブランショ
これから、冬の夜長をモーリス・ブランショの作品を読むのに費やそうと思うのであるが、今のところ、ざっと掴めたところをここにメモしてゆこうと思っている。正直、私にもさっぱりわからない。これらの作品は、千葉県の図書館で頼むとすぐ手に入ったが、他のところではあるかどうかわからないが、多分あると思う。
『雑誌ユリイカ モーリス・ブランショ特集』
これは私は、家の近所の本屋の『古本祭』で見つけたのであるが、吉本隆明とか、蓮實重彦などが語っているし、色々な人の考察が、文学の極点みたいなものをエッセイで書いていてとても面白い。今の文芸誌にはない盛り上がりである。文章というものは対象について書き込めば書き込むほど、その対象は把握が不可能なものになる。と書いたエッセイなどは、出色のものだった。家に置いてたまに、読み返している。
『アミナダブ』
これを読んだ時には、カフカの城にとても似ており、「なんじゃこれは」と思ったのであるが、私はこの作品の舞台は、実は「中野ブロードウェイ」みたいなところではないかと思っている。あそこには居住施設はないのであるが、あそこに居住施設をつけたらああなるだろう。とにかく、異端の作品である。理解の範疇をとっくに超えている。
『謎の男トマ』
これもそうだ。トマは何をしているのだ。普通の小説のストーリーテリング的な、ひっかかりというか、とっかかりがないのである。難解な文章を読んでいたら気がついたら終わっていた。という作品である。これはもっとロマンスとしても成立していた初期バージョンがあるらしいのであるが、最新バージョンこそ、作者の言いたかったことらしい。つまり、死というものだ。
『私についてこなかった男』
ここに執拗に書かれていることは、これは、内面描写なのであろうか。まず、二つの事象がある。これは、私と言うものが嫌で私から離れてゆこうとしている私。そして、そんな私についてこなかった男のことである。彼は、(彼女かもしれないが)対話者であるが、今の私に役立つ情報を何も言ってくれない。私は、ただ私が住んでいたものの残骸に接しているだけである。そもそも私自体が私というものを成し遂げようとはしていない。だから、私についてこなかった男とも接することができる、という作品である。なんという無意味な均衡状態であろうか。
他にも、カフカ、リルケ、マラルメ、ヘルダーリン、などについて語っているが、もちろん、彼流の把握の仕方である。でも、とても深い。私は、前のエッセイに書いた、混沌の哲学者、バタイユについての評論をもう一回読み返したいと思う。バタイユはどんな人?一言で言うと、犯罪というものは楽しいからやってしまうし、禁じられてしまうものなのだ、と身も蓋もないことを言っている人である。




