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我と汝とそれ 6


 うーん。段々と照準が合ってきたな。ま、つまり、「アマチュアのおっちゃんが私小説や自己言及みたいなことを書いたら、理の当然として、気持ち悪い結果になるから、どこか、「美」とか「人間」とか、これは加藤周一が「文学とは何か」で定義しているものだけど、そういうものを出して、気持ち悪さを薄めましょうぜ!」ってことになる。


 チャールズ・ブコウスキーが「町で一番綺麗な女」を書いたのもそう言うものなのだろう。ブランショの小説、ベケットもそうだけど、彼らは「人間」というか、哲学という方向に舵を切った。すると、これは哲学的な文章になる。つまり、「主体なんてものはくだらん。我思うゆえに我あり?ふざけんな」と言うことになり、その射程の先には「死」と言うものが出てくる。


 ロードローラーのように圧倒的なパワーによって潰されてしまう自己というものが出てくる。しかし、俺自身はこういうものを書いてもしょうがねえな、とは思っている。でも、マゾ小説ということなら、ちょっと書きたいと思っているが、それは、「美」の方向性だろうなあ。俺のことで言うと女を通り越して、母ということになってしまう。


 「母」と「死」と。なんか、そこら辺あたりが俺の求める何かなんだろうけどね。 「母」と「死」というのは、たぶん、俺にとっては観念ではなく、最初から身体の記憶としてあるものなのだと思う。哲学的に言えば、母とは最初の他者であり、最初の世界であり、最初の拘束である。そこには自由も主体もない。ただ、生かされているという事実だけがある。主体がどうこう言い出す以前に、呼吸して、排泄して、泣いている存在があるだけだ。そこに、文学的な「私」など入り込む余地はない。


 だから、私小説が気持ち悪くなるのは、主体を肥大させすぎるからだろう。「私はこう感じた」「私はこう思った」と、いちいち確認し直す。その確認作業そのものが、読者にとっては異様なのだ。読者は、他人のセルフチェックシートを読むために本を開いているわけではない。にもかかわらず、アマチュアのおっちゃんがそれをやると、どうしても「見せられている」感じが強くなる。これは才能や努力以前の、構造的な問題である。


 ブコウスキーがうまくやったのは、自己暴露の先に「女」や「貧困」や「都市」という、共有可能な現実を置いたからだろう。彼の書く「俺」は、単なる内面ではなく、酒場や競馬場や寝室に放り出されている。つまり、身体がある。身体があるから、そこに美醜が生じ、読者はそれを眺めることができる。自己言及が、風景に変換されているのだ。


 一方、ブランショやベケットは、風景すら消してしまった。その代わりに出てくるのが、死の予感であり、言葉の限界であり、存在の空洞である。彼らの文章は、もはや「俺の話」ではない。主体が削ぎ落とされ、残ったのは「人間という構造」そのものだ。そこまで行けば、気持ち悪さは哲学的緊張に変わる。読者は嫌悪ではなく、眩暈を覚える。


 だが、俺はそこまでストイックにはなれない。ロードローラーに潰される自己を書いても、それが自分にとって切実かと言われると、どこか嘘くさい。だから、もし書くとしたら、マゾ小説になるのだろう。それは自己否定の快楽であり、屈服の美学であり、抵抗しないという選択である。


 そして、その極点に現れるのが「母」なのだと思う。母は、美であり、死であり、救済であり、同時に窒息でもある。母に還るということは、主体を放棄することだ。自分で考えること、自分で決めること、自分で語ることをやめることだ。それは文学としては危険な地点だが、だからこそ魅力がある。


 結局のところ、俺が探しているのは、「俺が書いている」という臭いをどう消すか、という問題なのだろう。そのために、美を持ち出し、人間を持ち出し、母や死を持ち出す。自己を語りながら、自己を裏切る。その矛盾を引き受けること自体が、たぶん、俺にとっての文学なのだ。


 気持ち悪さは消えない。だが、薄めることはできる。その薄め方が、そのまま書き手の思想になってしまう。そう考えると、結局、逃げ場なんてどこにもないのだが——まあ、それでいいのだろう。



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