賢い人間は何故、幸せになれないのか
賢い人間は、ババを引くのが世の常なのである。そもそも、社会というのはエッセンシャルワーカーが支えてくれているものなのである。その人たちは、金を稼げている人たちほど口数は多くない。
その人たちには、蓄積された有無も言わさない知恵があるのだ。しかし、お金は儲からない。が、その人たちは信用があるから食うには困らないのである。
さて、小説を書いて一攫千金なんて、思う人に、そういう種類の賢さはあるのだろうかと言うと、殆どの人がないのが実情である。あったとしても表面的なものであろう。
賢さというのを定義するのは難しいが、馬鹿を定義することは簡単である。反対のことを考え付いたら、目先も考えずに感想欄に書いてくるやつとか、そう言うものだろう。YouTubeのコメ欄で、火病起こしているやつなどがそうである。
私もたまにしてしまうが……(恥)……ま、それはそうとして、賢い人間はどうしても集団の中で、見張りの位置に回らざるを得ない。サッカーで言うと、ディフェンスである。
そして、思い切りの良い人間がフォワード、と言うことになるのだ。そうやって、組織というのは、一時的ではあるがうまく回るものなのである。
だから、合コンなどで短期的に成果を出したいなら、馬鹿なキャラを演じた方が良いだろう。賢い方に回ると、いろんな無駄なことを押し付けられがちである。
賢い人間というのは、全体が壊れないように振る舞う癖がついている。自分が一歩引けば済むなら、引いてしまう。自分が黙っていれば丸く収まるなら、黙る。そうやって、誰にも褒められない調整を繰り返すうちに、気がつけば「いて当然の存在」になっている。
いて当然の存在は、評価されない。評価されないが、いなくなると困る。だから、消えない程度に使われ続ける。これは陰謀でも悪意でもなく、単なる構造の問題である。
一方で、思い切りのいい人間は、失敗しても目立つ。成功すればなおさら目立つ。評価とは、だいたいの場合、能力ではなく可視性に貼り付くものだから、前に出る人間が得をするのは自然な話だ。
だから賢い人間は、たいてい割に合わない役を引き受ける。それでも完全に破綻することはない。なぜなら、自分がどこで踏みとどまればいいかを知っているからだ。限界の手前で止まれる、というのは、実はかなり高度な技術なのである。
合コンに限らず、人生の多くの場面で、賢さは短期的な勝利をもたらさない。むしろ、遠回りばかりさせられる。だが、その遠回りの途中でしか見えないものもある。見えなくていいものまで見えてしまう、という欠点つきで。
結局のところ、賢い人間が得るのは報酬ではなく、配置である。前に出ない代わりに、全体が見える場所に立たされる。それを不幸だと思うか、役割だと割り切るかで、その人間の生き方はだいぶ変わる。
まあ、疲れる役回りではある。
だからたまには、馬鹿なふりをするくらいが、ちょうどいいのだ。たとえば、こんなエッセイを書いて、反応がゼロでも全然いい。




