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日本人の根本聖典は、「論語」と「落語」である


 日本人の一番大切にするべき思想本は何かというと、古事記、万葉集、源氏物語と思いつくが、どれも日本人の血肉には全くなっていない。古事記は、余りにも細部が知られていないし、万葉集は京都の景色を歌ってばかりだし、源氏物語は宮廷ものでしかない。


 むしろ、孔子の「論語」、あるいは「落語」の方に、日本人の心が如実に表されている。論語とは、孔子が語った道徳教育である。周りの人々への思いやり(仁)を忘れるな。とか、勉強しろよ、ということを教えている。落語は、くつろぐことを教えてくれる。


 論語の勧善懲悪は、歌舞伎になり、今では、ジャンプなどのバトル漫画になっている。ドラゴンボールや、ワンピースなど、つまり、努力友情勝利の方程式である。あれは、殆ど道徳の授業なのである。


 そして、落語の明るさは、「ドラえもん」「ちびまる子ちゃん」「クレヨンしんちゃん」「サザエさん」あるいは、お笑い芸人たちに受け継がれているのだ。つまり、エンタメがそのまんま人々の根本聖典となっているのである。


 だから、日本は、無神国家でいられるわけだ。この二つは、日本人の心である。失ってはならない日本人の根本がここにある。


  日本人が宗教を持たない、あるいは持てない理由も、ここにあるのだろう。日本人は、超越的な神や、絶対的な真理を必要としなかった。その代わりに、日常のふるまいの中に、倫理と救いを分散させてきた。


 論語は、天国の話をしない。死後の世界についても、ほとんど語らない。語るのは、今ここで、どう振る舞うべきか、どう人と接するべきか、ということだけだ。つまり、日本人にとっての道徳とは、来世のための準備ではなく、この場を円滑に、穏やかに、壊さずに生き延びるための知恵だった。


 一方で、落語は、正しさすら少し疑う。人は怠けるし、欲張るし、騙されるし、失敗する。それでもまあいいじゃないか、という顔をしている。落語の登場人物たちは、決して立派ではない。むしろ、どうしようもない。しかし、そのどうしようもなさが、そのまま許されている。


 ここに、日本人のもう一つの倫理がある。

 「正しくなくても、生きていていい」。


 論語が背筋を伸ばす教えだとすれば、落語は肩の力を抜く教えだ。日本人は、この二つを無意識のうちに行き来しながら、生きてきた。努力しろ、学べ、周囲に配慮せよ、と言われ続けながら、同時に、失敗しても笑っていい、くつろいでもいい、という逃げ道を確保してきた。


 だから日本のエンタメは、極端に振れない。絶対悪も、絶対善も、ほとんど登場しない。悪役ですら、どこか間が抜けている。ヒーローもまた、どこか頼りない。完全な救済も、完全な破滅も、用意されていない。その曖昧さこそが、日本人の精神の居場所なのだ。


 これは弱さではない。むしろ、非常に高度なバランス感覚だと思う。世界を白黒に分けず、正義と悪を固定せず、人間のだらしなさを含み込んだまま、社会を維持してきた。その結果として、日本は無神国家でありながら、極端な道徳崩壊も、宗教戦争も起こさずにきた。


 日本人にとっての聖典は、棚に並ぶ分厚い経典ではない。

 毎週放送されるアニメであり、夕方の再放送であり、寄席の噺であり、少年漫画であり、バラエティ番組なのだ。


 そこでは、人生は一回しかない、などという重たい言葉は使われない。だが、その代わりに、「まあ、生きてりゃ色々ある」「失敗しても、明日は来る」という感覚が、何度も何度も刷り込まれる。これは、実存主義を、哲学としてではなく、生活感覚として消化してしまった姿とも言える。


 だからこそ、日本人は思想を語るのが下手だ。その代わりに、物語と笑いで、同じことを何度も繰り返す。努力しろ、と言い、同時に、怠けてもいいぞ、と言う。その矛盾を矛盾のまま抱え込む。


 失ってはならない日本人の根本とは、

 正しさと緩さを、同時に許すこの態度なのだと思う。


 論語だけでは息苦しくなる。

 落語だけでは堕落する。


 だが、この二つが並んで存在するとき、日本人の精神は、奇妙な安定を保つ。その安定の上に、漫画も、アニメも、お笑いも、生まれてきた。


 日本人は、思想を信仰しない。

 その代わりに、物語を暮らしの中で生きてきた。


 それが、日本という無神国家の、もっとも強く、もっとも脆い、精神のかたちなのだ。


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