意図的に愚かになって固定観念を打ち払い、感性を最大化せよ!
意図的に愚かであれ――人生の強度について
賢いとは何だろうか。
それは、人生の中からパターンを見つけ、無駄を省き、ショートカットする能力のことだろう。同じ出来事を同じ意味に回収し、「だいたいこういうものだ」と理解する力。社会を生きるには不可欠な知性である。
しかし、その賢さが強まるほど、人生の強度は弱くなる。
気づけば一日は速く終わり、昨日と今日の区別がつかなくなる。「特に何もなかった」という感想だけが残る。それは不幸だからではない。むしろ、うまく処理できている証拠だ。ただし、そこには手応えがない。人生が圧縮され、平らになってしまっている。
ベルクソンは、時間は流れるのではなく積み重なると言った。同じ一日は二度と存在しない。今日の一瞬には、過去すべてが折り畳まれて含まれている。だが、賢さはこの厚みを削る。「前と同じ」「もう知っている」によって、時間を均一化してしまう。人生の一回性は、こうして失われる。
メルロ=ポンティは、私たちは理解する前に、すでに世界の中にいると言った。意味づける前に、身体は反応している。なぜか気になる、理由は分からないが立ち止まってしまう、そうした身体の引っかかりは、効率の観点から見れば無駄でしかない。しかし、人生の強度は、その無駄な反応の中でしか生まれない。
レヴィナスは、他者は理解される前にこちらを呼びかけると言った。人を「分かった」と思った瞬間、他者は概念に回収され、その一回性は殺される。他者とは、予測できず、交換できず、処理できない存在である。理解の前に応答してしまうこと――それが倫理だと、彼は考えた。
この三人が言っていることは、実は一つだ。
人生とは、
積み重なる時間の中で、
理解に先立って身体が巻き込まれ、
他者によって予測不能に揺さぶられる出来事である。
そして、この人生を生きるために必要なのが、意図的な愚かさだ。
愚かであるとは、考えないことではない。分かったつもりになるのを遅らせることだ。意味に回収する前に、感触を引き受けることだ。世界や他者や自分自身を、処理しないという選択である。
賢さは人生をうまく切り抜けさせてくれる。だが、それだけでは人生は薄くなる。何年分もの日々が、一つの「だいたい同じ」に折り畳まれてしまう。
人生の強度を強くするとは、
人生を説明できるようになることではない。
人生に、毎回少しずつ説明不能なまま触れ続けることだ。
意図的に愚かであれ。
賢さが人生を安全にするなら、愚かさは人生を重くする。
一回しかない人生を、圧縮せずに通過するための、唯一の態度として。




