小説の豊かさ
小説は、多様な解釈をされるほど豊かなものである。
それは、作者が「正解」を書き込まなかった証拠でもある。というよりも読者が良ければ、つまらない小説もある程度は面白くなるのだ。
もし小説が、読後に全員から同じ感想しか引き出せないとしたら、それはよく整理された説明文に近い。登場人物の行動の意味も、物語の結論も、作者の意図通りに回収されてしまう。そこでは読者は考えなくてよい。ただ理解するだけで済む。だが理解だけで終わる物語は、人生に触れない。
前の話で述べてきたように、小説とは他人の人生を追体験する装置である。しかし人生そのものが、単一の意味に回収されない。ある行為は勇気とも無謀とも取れるし、ある沈黙は誠実にも卑怯にも見える。読む側の年齢、経験、傷の位置によって、同じ場面はまったく別の顔を見せる。その揺らぎを許容できる構造を持っているからこそ、小説は豊かになる。
多様な解釈が生まれるのは、作者が曖昧に書いたからではない。むしろ逆で、作者が登場人物の選択に対して、最後まで責任を持って書いたからだ。「その人にとっては、そうするしかなかった」という必然性を突き詰めるほど、評価は読者に委ねられる。善悪や成否の判断を外注された読者は、自分の人生観を持ち出さざるを得なくなる。
テンプレ小説が解釈を生まないのは、物語がすでに評価済みだからだ。誰が正しく、誰が間違っているかが明示され、感情の持っていき先も指定されている。そこでは解釈の余地はノイズとして排除される。しかしそれは、現実を生きる感覚とは正反対である。現実では、判断は常に遅れてやってくるし、時には最後まで確定しない。
小説における多様な解釈とは、混乱ではない。それは、読者それぞれが「自分ならどうしたか」「なぜこの場面が引っかかるのか」を考え始めた証拠だ。物語が終わっても思考が終わらない状態。そこにこそ、小説が人生に介入した痕跡がある。
だから、小説が誤読されることを恐れる必要はない。誤読とは、多くの場合、読者の人生が作品に触れた結果として生まれる。すべてを説明し、意味を固定した瞬間、小説は安全になるが、同時に貧しくなる。
小説は、読むたびに違う顔を見せてよい。むしろ、そうでなければならない。一回しか訪れない時間を、毎回違うものとして味わうように、同じ物語が、読む人の数だけ別の意味を帯びる。その開かれた構造こそが、小説の豊かさであり、創作が現実に対して持ちうる、最も誠実な態度なのである。




