経験は創造の母なり
「経験は創造の母なり」という言葉は、しばしば精神論として消費される。たくさん経験すれば、自然と表現が豊かになる、というような話に矮小化されがちだ。しかし、前の話を引き受けるなら、この言葉はもっと不穏で、厳しい意味を持っている。
経験とは、単なる出来事の量ではない。テンプレ化できなかった時間、言葉にし損ねた感情、選択を誤ったまま引き返せなかった瞬間の総体である。つまり経験とは、「型に回収できなかった残りかす」だ。だからこそ、それは創造の母になり得る。すでに説明可能なもの、誰でも共有できるものは、創造の素材にならない。それは攻略サイトに載ってしまう。
前のエッセイで述べたように、小説がパターン化した瞬間に死ぬのは、唯一性のある人生を、再利用可能な物語に変換してしまうからだった。経験も同じである。「あの時は大変だった」「誰でも通る道だ」という言い方をした瞬間、その経験は死ぬ。意味づけが完了した経験は、もはや創造を生まない。それは教訓にはなっても、表現にはならない。
創造に必要なのは、経験をうまく語る能力ではない。経験を未整理のまま抱え続ける忍耐だ。すぐに結論を出さず、「あれは何だったのか」を保留にする。その宙吊りの状態が長ければ長いほど、経験は内部で発酵する。時間が経つにつれ、当時は見えなかった別の輪郭が立ち上がってくる。その瞬間、経験は素材に変わる。
ここで、前々から繰り返してきた「我慢」の話とつながる。創造における我慢とは、表現しない我慢ではなく、安易に整理しない我慢である。すぐに愚痴にしない、すぐに成功談にしない、すぐに物語化しない。その代わり、違和感のまま持ち歩く。これは、かなりの精神的コストを伴うが、このコストを払わなければ、創造は起こらない。
経験が創造の母になるのは、経験そのものが尊いからではない。経験が、創作者自身を裏切るからだ。思っていた自分像が崩れ、信じていた価値観が役に立たなくなり、「こんなはずじゃなかった」という感覚が残る。そのズレこそが、既存のテンプレを破壊する力を持つ。創造とは、ズレの言語化に他ならない。
逆に言えば、創造できない状態とは、経験がすべて予定調和で終わっている状態だ。失敗も成功も、あらかじめ用意された意味の中に回収されている。そこでは新しい表現は生まれない。なぜなら、語る前から答えが決まっているからだ。
経験は、放っておけばただの過去になる。しかし、それを「まだ理解できていないもの」として引き受け続けるとき、経験は母になる。創造とは、経験を美化することでも、克服することでもない。経験に対して、最後まで誠実であろうとする姿勢の、副産物なのである。




