小説はパターン化しては何故ダメなのか?
小説がパターン化し、テンプレ化した瞬間に死ぬ理由は、単純である。小説が本来扱うべきもの――「一回しか起こらなかった人生」を、何度でも再生可能な出来事に変換してしまうからだ。
前の話で触れたように、現実の時間は不可逆であり、同じ瞬間は二度と訪れない。人生がつまらなくなるのは、それを「あれも同じ、これも同じ」と処理してしまうからだった。小説もまったく同じで、テンプレとは「もう知っている時間」を量産する装置である。読者はページをめくりながら、驚く前に結末を知ってしまう。そこでは追体験は起こらない。ただの確認作業になる。
テンプレ小説が提供するのは安心だ。努力すれば報われ、悪者は裁かれ、恋は成就する。その構造自体は間違っていない。しかしそれは、人生の「結果」だけを整理したものであって、「選ばざるを得なかった過程」を削ぎ落としている。現実に生きている我々が苦しむのは、結果ではなく、その途中で迷い、躊躇し、判断を誤る瞬間である。テンプレは、その最も痛い部分を省略する。
パターン化された小説では、登場人物が状況に反応していない。状況のほうが、あらかじめ用意された役割を人物に押し付けている。だから主人公は「そう動くから主人公」になり、「そう悩むから共感できる存在」になる。そこには必然がない。読者は人物の人生を覗いているのではなく、作者が用意した型の動作確認を見ているだけだ。
これは、愚痴のパターン化とよく似ている。現実に攻略サイトはないのに、あたかも正解ルートがあるかのように振る舞い、同じ言葉を繰り返すことで安心を得る。テンプレ小説もまた、「物語には正解がある」という幻想をなぞる行為だ。だが小説が描くべきなのは、正解の証明ではなく、正解が存在しない状況で人がどう振る舞ったか、という記録である。
では、なぜそれでも人はテンプレを書くのか。理由は簡単で、怖いからだ。型を外した瞬間、読者に嫌われるかもしれない。理解されないかもしれない。アクセス数が落ちるかもしれない。その恐怖は、ネットで愚痴に反応することの怖さと同じ構造を持っている。少しでも距離を間違えれば、憎まれるか、無視される。だから安全な型に引きこもる。
しかし、小説における独創性とは、奇抜さではない。「その人にとって、その選択しかなかった」という一点を、最後まで裏切らずに書くことである。それはテンプレから意図的に外れる行為になる。なぜなら現実の人生は、ジャンルにも型にも収まらないからだ。
テンプレ小説は読者を楽しませることはできるが、読者の人生に亀裂を入れることはできない。前のエッセイで述べたように、小説とは他人の人生を借りて、自分の生き方を測り直す装置である。その装置が既製品であるはずがない。
小説がパターン化してはならない理由は、芸術論ではない。倫理に近い。唯一無二だったはずの人生を、既視感のある物語に押し込めないために。小説は、「同じような話」を書く場所ではない。「二度と起こらなかった時間」を、必死にすくい取るための形式なのである。




