真理について
ちょっと考えようとすると、かなり難しい問いになってくるわけであるが、真理というものは、「生きるコツ」みたいな、いわゆる野球におけるイチローの技術みたいな、そういうものなのかというと、実はそうではないらしいのだ。
哲学的には、イチローのは、「真理をわからないまま使っている状態」ということができる。しかし、そこにアクセスしているので、とても役に立つわけだ。それを身体性ということにする。それと、真理はまた別なのである。
では、真理とは何であろう。そういうものでなしに、何かがどんどん当たってゆくグットポイントということになるが、実は、「ものが高確率にうまくゆく確率帯」だったりするのだ。イチローの技術も、2割が4割になる技術なのである。これは麻雀の王者も、確率で素人に負けることがある、ということである。
「素人スゲーじゃん」ということであるが、ここで難しいのは、真理というのが、「人生が上手く行きがちな立ち位置ではない」という考え方もあるのだ。それは、神に関係してゆく。今、私が書いたのは、「人生」という側面から見た人生が上手くゆく真理なのであるが、それはノウハウであって、真理ではない。真理とはもっと高尚なものだという考えである。
この世の中には神がいて、かつて神は信じられていたのであるが、それに近いものが真理ということになるのだ。それは、実は人生とは何の関係もないのであるが、圧倒的な真理に溢れている、だから、皆が信じるもなのであった。そういう真理もあって、それはほとんど、宗教的修行することでしかわからない領域である。しかし、イチローの練習を修行とすると、身体的真理というものも、真理の一つとなる。
ここで、ややこしくなるのは、神的な真理と、身体的な真理、二つができてしまうのだ。こうやって考えると、他にも真理はできてくる。たとえば、「科学的真理」「倫理的な真理」「法律的な真理」「常識的な真理」「政治的な真理」……釈迦は八正道ということを説いたが、それに似ているのか。だんだんややこしくなっててきたので、これくらいにしておくか。
だが、最後に疑念としてみると、たとえば哲学者が常に真理を掴んでいるのかというと、どうもそうでもないらしく、割と普通の人であり、普通の人生を送っていることが多い。それは、つまり、真理を知っていてもどうでも良いということではなかろうか。




