中国が戦争に弱い理由
ジョルジュ・バタイユは、人間社会には必ず「余剰エネルギー」が発生すると考えた。それは働き、生き延びるために必要な分を超えて、どうしても余ってしまう力である。問題は、それをどこに使うかだ。祭り、酒、性、芸術、賭博、無駄遣い――そうした「くだらないこと」に浪費されるなら、社会は一見だらしなく、しかし平和でいられる。だが、その余剰を溜め込み、正当化し、意味づけしようとすると、最終的にそれは戦争という形で爆発する。バタイユは、そういう不吉な直感を持っていた。
この観点から見ると、「戦争に強い国/弱い国」という話は、軍事技術や人口の問題ではなく、余剰をどう処理してきた文化かという問いに変わる。
中国は、歴史的に見てきわめて現実的な文明である。官僚制、商業、家族、処世術。生き延びること、面子を保つこと、日常をやり過ごすことに関しては、異様なほど洗練されている。その一方で、非現実的な理念のために命を投げ出す、という発想には、どこか冷めた距離を取る。『阿Q正伝』に描かれるような、敗北を精神的勝利にすり替える身振りは、英雄主義というより、人生を続けるための技術だ。
だから中国人は、戦争を「割に合わないもの」として直感的に理解してしまう。遊興文化が発達し、人生の落としどころを無数に知っている社会は、戦争という極端な非日常に、心のギアが合わない。これは弱さというより、現実への過剰な適応である。
フランス、スペイン、イタリアも似た匂いを持つ。酒があり、恋があり、議論があり、怠惰がある。人生を深刻にしすぎない術を、彼らは文化として持っている。だからこそ、国家の大義や崇高な理念のために、長期にわたって身を捧げ続けることが苦手だ。言い換えれば、彼らは「人生に不真面目」なのではなく、人生以外のものを神聖化しすぎない。
(かつてのイタリアは戦争に強かったが、今や弱くなっている。それは、ギリシアにも言えるだろう。文化の蓄積、爛熟化がそれをさせたのかどうかはわからない。というか、ファシズムを騒ぐのだけが得意なだけで元々弱かったという説もある)
それに対して、ドイツ、日本、アメリカ、イギリス、ロシアといった国々は、奇妙なほど戦争に適応してきた。規律、使命、自己犠牲、歴史的使命感。遊びや浪費が制度化されにくく、余剰エネルギーが常に「意味」や「目的」に回収される社会では、戦争は最もわかりやすい出口になる。戦争は無駄でありながら、同時に「有用」で、「正しい」顔をしているからだ。
文化的に遊び心が足りない社会ほど、戦争は神話化されやすい。英雄、殉死、栄光、勝利。そこでは浪費が祝祭ではなく、義務になる。
もちろん、これは単純な優劣の話ではない。遊びに溺れて衰退する文明もあれば、規律によって繁栄する社会もある。ただ、バタイユ的に言えば、戦争に強いということ自体が、どこか病的な兆候なのだ。
戦争に弱い社会とは、戦争を最後までフィクションとしてしか信じきれない社会である。
それは卑怯さではなく、人生への執着の強さなのかもしれない。
そして、もし本当に怖れるべきものがあるとすれば、それは「遊びを失い、余剰をすべて正義に変換してしまった社会」なのだろう。戦争は、真面目すぎる文明が起こす、最も不真面目な浪費なのだから。




