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社会的動物それが人間


人間はもともと社会的な動物であり、同時にきわめて他律的な生き物だ。自分の意志で生きているつもりでも、その輪郭は常に他者の視線によって形づくられている。だから、完全に孤独な人間など、本当はいないのだと思う。


私たちは一人で部屋に閉じこもっていても、頭の中では誰かと会話している。「こんなことを言ったらどう思われるだろう」「あの人なら何と言うだろう」。他者は不在であっても、視線として内面に住み着いている。社会から離れたつもりの瞬間ですら、社会は身体の奥に残っている。


孤独を理想化する言説は多い。誰にも縛られず、自分だけで立つことは強さの証だ、と。しかしそれは、かなり無理のある幻想だ。言語も価値観も、感情の整理の仕方さえ、私たちは他者との関係の中で身につけてきた。完全な孤独とは、自由というより、むしろ人間性の放棄に近い。


他律的であることは、必ずしも弱さではない。他者の視線を気にするからこそ、人は言葉を選び、振る舞いを考え、社会を維持してきた。恥や遠慮、気まずさといった感情は、生きづらさの原因であると同時に、人が人であるための装置でもある。


だから私は、孤独を目指すより、「どんな他者と、どの距離で生きるか」を考えるほうが現実的だと思う。完全な孤独が存在しないのなら、せめて息苦しくない関係を選びたい。人間は一人では生きられない。その事実を悲観するより、前提として受け入れたところから、少しだけ楽な生き方が始まる気がする。


他者の視線から完全に自由になろうとすると、人はかえって不自由になる。何をしていいかわからなくなるからだ。評価も期待もない場所では、行動の基準が消えてしまう。私たちは思っている以上に、他人の存在を羅針盤として生きている。


孤独を好む人でさえ、完全な無人島を本気で望んでいるわけではないだろう。誰にも見られず、誰にも語れず、誰にも思い出されない生活は、安らぎというより空白に近い。人は、誰かに認識されることで、自分の輪郭を確かめている。


もちろん、他者は煩わしい。傷つけ、縛り、失望させる存在でもある。それでもなお、人は他者から逃げ切れない。なぜなら、逃げた先で「逃げている自分」を見る視線も、結局は他者から借りてきたものだからだ。


だから孤独とは、他者がいない状態ではなく、関係が断線している感覚のことなのだと思う。人は他律的である以上、つながりが完全に消えると、不安定になる。孤独を否定する必要はないが、神聖化する必要もない。ただ、人間はつながりの中でしか、人間でいられない。それだけの話なのだ。

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