我と汝とそれについて
マルティン・ブーバーの「孤独と愛」と言う本をそろそろ読み終わろうとしているが、驚くほど、西田幾多郎と、思想が一緒なのには、感服してしまった。西洋人もわかっているじゃん。という。
つまり、「私」なんてものは、「私」本体だけでは成り立たないのだ。これは、主体でも、主観でもそうなのであるが、当たり前なのであるが、私と言うものは、他者や状況の影響の上に成り立っている。つまり、胡座をかいている状態なのである。
そこを勘違いしてあたかも、「永遠の私」をいつも私は体現しているみたいな顔をしていると、ナルシストだ。と言われてしまうのである。このエッセイにしても、「なろう」があるから成り立っているし、日本語があるから私はものを書いているのである。そして、私の状況が私をこう押し出しているのだ。
その二つの方向性が「汝」と「それ」ということになる。汝とは、感覚的な他者性なのであるが、これは、アニマ、アニムス、あるいは、母や父に抱く感覚にも似ている。ここが、たとえば、幼年期に、親に無視されたりしていると、歪んでしまう人が一定数いる。それが、嫌なやつや変態の正体である。
ま、それは置いといて、汝の方向を極めると、神になるのだ。我々は、無神論者も含めて、神という概念なしに成り立つことはないだろう。神がないということは、全人格も無くなってしまう。「それ」という方向性だけで、いかなくてはいけない。人間が生きている上で、人間性を保つためには、「汝」という感覚は絶対に必要なのだ。それは、小説家が読者を想定せずに、小説を書けないのと同じである。
だから、汝と言う時、我々は、必然的に神と一体化、あるいは接しているのだ。神というものはそう言うものである。で、「それ」の方向性であるが、これは、過去未来の感覚、積み重なった物理的な概念、あるいは、「我」や「汝」以外のものの全ての時間空間といえよう。
我と汝が一致し合うと、「今ここ」という感覚ができるのである。場所が、我に由来して、今この瞬間というのは、汝に由来している。ハイデガーが「存在と時間」というのを書いたのも、この我と汝のことを書いているが、それがないと、ものが一向に具体化しなくなる。しかし、その状態を悟りと言うこともできる。ちょっとここら辺は難しい。




