恋愛論と政治論は一緒
政治も恋愛も、勝てなければ意味のないゲームである。
これは身も蓋もない言い方だが、実際のところ、かなり正確だと思っている。
政治は理想を語る場所だとよく言われる。恋愛は誠実さや真心が大切だとも言われる。だが、どちらも現実には「勝った側」にしか発言権がない。選挙に落ちた政治家の理念は歴史の脚注に追いやられ、告白に失敗した恋心は本人の黒歴史として処理される。そこに、どれほど高尚な動機や美しい倫理が含まれていようと、結果が伴わなければ存在しなかったことと同じ扱いになる。
にもかかわらず、人は政治や恋愛の場面で、すぐに「人はどう生きるべきか」「正しくあるとはどういうことか」という問いを優先してしまう。これは一見、成熟した態度に見える。しかし、その瞬間にすでに負けが確定している場合が多い。
なぜなら、その問いはゲームの外側にあるからだ。
政治も恋愛も、まずは勝敗が決まる。ルールがあり、力関係があり、タイミングがあり、相手の欲望がある。そこを無視して「正しさ」だけを掲げるのは、将棋盤をひっくり返して「将棋とは何か」を語るようなものだ。盤をひっくり返した時点で、勝負は終わっている。
恋愛でよくある話だ。
「相手を尊重して、迷惑をかけないように、距離を保っていたら何も起こらなかった」
これは美談ではない。単なる敗北である。相手の人生を尊重しすぎた結果、自分の欲望を一切伝えられなかった。そこには倫理はあっても、関係は生まれていない。
政治も同じだ。
「正論を言っていたが、支持を集められなかった」
これもまた、敗北である。正論が間違っていたのではない。だが、勝つための言葉ではなかった。それだけの話だ。
重要なのは、政治や恋愛において「どう生きるべきか」という問いは、勝った後にしか意味を持たないという点だ。権力を持っていない政治家の倫理は、社会を一ミリも動かさない。関係を結べていない恋人未満の誠実さは、誰の心も守らない。
まず勝つ。
勝つために汚れる必要があるなら、ある程度は汚れる。計算が必要なら計算する。媚びが必要なら媚びる。その上で、勝ったあとに「どう生きるか」「どう愛するか」を考える。順番を間違えると、ただの自己満足になる。
これは冷酷な現実主義ではない。むしろ逆だ。
勝たなければ、何も守れないという、極めて人間的な認識である。
政治と恋愛が似ているのは、どちらも「清さ」を最初に置いた瞬間に終わる点だ。清さは結果ではあって、手段ではない。勝ったあとに初めて、清さは意味を持つ。
だから私は思う。
政治も恋愛も、まずは勝つこと。それ以外は、その後でいい。たかが政治、たかが恋愛と、言えるようにしないといけない。
順序を間違えた正しさほど、無力で、残酷なものはないのだから。
どんな偉そうことを言っても、国を負けの方に導く政策はダメな政策である。




