カフカの作品は、主体性の欠如ということである
カフカとブランショが殆ど同じようなものを書いているというこの事実が面白い。同じようなものを書いているのに、その思想は全くちがうのである。どう違うのかと言うと……。
カフカというのは、全体性に押しつぶされてしまう個人の主体性というテーマでものを書いている。それはどの作品も一致している。自分の意識とは別に決まってしまう社会環境の中で、おろおろする。……正確にはそんなにオロオロはしていないのであるが……余談だがオロオロしすぎると、たんなる怪談になってしまう。日本のカフカ需要は、「たんなる怪談」になってしまっている。(文学界のカフカ特集を読んでその無理解に絶望した)
カフカは、ベケットのモロイの世界と通じているのだろう。だから、カフカの先にはおそらくベケットという人がいるのであるが……ある意味で、ブランショは、カフカの城とかなり似ている、「アミダナブ」を作っており、これは、主体の欠如ではない。主人公のトマは、その前の「謎の男トマ」と同一人物であるが、主体の欠如というよりも、「外の思考」というのを表しているのである。
ここで、レヴィナスとの架橋が起こってくるのである。レヴィナスは、ブランショの「外の思考」というのをとても面白がっており、本を残している。面白がると言うか、感銘を受けているのか。レヴィナスが離人症的な疾患もあったということも付け加えないといけないだろう。なお、古井由吉も小説の中でそういうことを述べている。古井由吉は、生の感覚とは、また別の死の感覚のようなもの、を追求しておられたが、これもまた、「外の思考」の親戚だろう。
今や、私はカフカの「主体性の欠如」にはそんなに興味はない。というか、主体性なんてものは実現しないなんてのは、誰でもわかっている。19世紀のヨーロッパのリアリズム文学がそれを悪い意味でのキリスト教的な浪漫的思想で、それを糊塗したのだろう。この悪癖は、多くの国々で蔓延している。つまり、甘え、と言うやつであるが。
ブランショを読むことは、レヴィナスにゆく前の準備運動になるのだ。……まあ、そもそもが、私は、ヘンリー・ジェイムズをもう一回勉強したいのだが……話がややこしくなるなあ。私は、レヴィナスというよりも、内田樹がどうしてあそこまで左なのかということに非常に興味がある。「内田樹と橋本治」でももう一回読み直そうかな。




