28.恐怖と焦燥 side 王女セレニティ
side王女
準備は万端だった。
夜会が始まり、貴族たちがグラス片手に歓談を楽しむ中、私は様子を窺いながらその場に佇んでいた。
そして、時折会場をそっと後にする高位貴族たちの姿を確認してから、自室に戻った。
「ああ、今日であの者の顔を見なくて済むなんて、どれだけ心が軽くなることか」
髪がたは完璧に変えられ、ドレスも夜会用とは異なる控えめなものに着替えている。
それでも、私の気品と威厳を隠すには至らないわね。
金の縁取りが施された鏡を見ながら、口元に満足げな笑みを浮かべた。
「第二王子も、あれほど頼りにしている近衛隊長がいなくなれば、少しは大人しくなるはずよ。ふふ、そろそろ私も行こうかしら」
仮面をつけ、会場へと向かう。
賭け事の場は、すでに熱気に包まれていた。
普段とは違う華美な仮面を付けた貴族たちが、豪奢な室内で楽しげに笑い声を響かせている。その様子を見て、内心で小さく鼻を鳴らした。
「愚かな人たち」
だが、その馬鹿げた舞台こそ、今回の計画にとって最適な場所だった。
この賭け事の場を用意するために、お兄様を通じて国王に働きかけた。
怪訝そうな顔をされたと聞いたけど、かわいい娘の頼みだもの、結局は聞いてくれたわ。
時代の流れに伴い王宮内の秘密の事情を明らかにしようという動きがあるのも事実だ。でも、公にされたら困る者はたくさんいるのですもの。明らかにしようとする命知らずなどいないわ。
計画もしっかりと立てた。
私の近衛隊長が、すでに「要職の警備」という名目であの者を呼び出している。
賭け事の部屋に参加者が揃う中で、仮面をつけていない騎士が入ってきたら、どうなるだろうか?
「当然、誰もが違和感を覚え、注目するわよね」
仮面の奥で微笑んだ。騎士が高位貴族しか入れない部屋に入る。この事実だけでいかようにもできる。
部屋の外から鍵をかける手筈も整えられている。そして、念のため――その騎士のポケットには「賭け事に加担している証拠」となる偽のメモが忍ばせてある。
「とにかく、この場にさえ足を踏み入れさせればいいのよ」
その後は、近衛隊がすぐに彼を連行し、団長に引き渡す手筈だ。さすがに現場を押さえられたら、団長とて裁かずにはいられない。あの者の立場など一瞬で揺らぐ。
それに、大っぴらに捜査などできる状況ではないもの。すぐに片が付くわ。
「ああ、早く来ないかしら」
焦燥と期待がまざる。顔には冷たく歪んだ笑みが浮かんでいることだろう。
全てが計画通りに進む。
そう確信するには、十分すぎるほどの準備が整っていた。
バタン!
突然の音に、反射的に顔を上げた。
「え?」
視界に飛び込んできたのは、次々と崩れ落ちる賭け事の参加者たちの姿だった。飲み物が入ったグラスが足元に転がる。高位貴族たちがテーブルに倒れ込み、誰かの悲鳴が空間を切り裂く。
「な、なに? 何が起こっているの?」
恐怖で声が震えた瞬間だった。
「動くな」
耳元で響く低く冷たい声。次の瞬間、首筋に鋭い冷たさが走る――ナイフだ。
「ひっ!」
息が詰まり、足元がすくむ。
「王女だな。命が惜しくば、王の部屋に安全にたどり着けるよう案内しろ」
その声には、一切の感情がない。冷徹で計算された響きに、背筋が凍る。
「あなたは……何者なの? な、何が目的で――だ、だれか! 誰かいないの!」
叫ぶが、答える声はない。ただ、暗殺者が低く一喝するだけだった。
「黙れ。廊下にいた騎士どもは眠っている。あんな貧弱で動きが鈍い者を傍に置くなんて正気か?」
「全員……?」
内心で怒りが湧き上がるのを感じた。
――何て役立たずなの!
暗殺者は首筋に押し当てた刃をわずかに動かし、嘲笑うように言葉を続けた。
「とはいえ、警備の人数が多く困っていたが、仮面をつけての秘密の場を王女が設けたと聞いてな。おかげで楽にこの場に入ることができた。俺のためにありがとな」
俺のため? そんなわけないじゃない!
「……ほら、案内するのか、しないのか」
「す、するわ……。だから、それをもう少し離して――」
必死に冷静を装おうとしたが、恐怖で手足が震えているのを抑えきれない。
「失礼します」
突然の声とともに、扉が軽くノックされ、スヴェインが入ってきた。
「警備の交代の……何をしている!」
暗殺者が舌打ちをした。
「ちっ! ついてない」
――助かった!
胸に一瞬安堵の念が広がる。
気に入らない者でも、こんな時はいないよりまし。早く、命を投げ捨ててでも私を助けなさいよ。
しかし次の瞬間、暗殺者は私の腕を掴み、力任せにスヴェインのほうへ向かって投げつけた。
「きゃっ!」
悲鳴を上げ、力を失って倒れ込む。その隙に暗殺者は素早く逃げようとするが――。
「逃がすか!」
スヴェインが素早い動きで暗殺者を押さえつけ、床に組み伏せた。その瞳は冷静で、圧倒的な威圧感を放っている。
「ほかに仲間は?」
「はっ! 誰が言うかよ」
暗殺者は冷たい笑みを浮かべたまま、目を逸らした。
「リシャール! リシャールは近くにいるか!」
「は、はい! おります」
え? 一人で来たのではないの?
若い騎士が駆けつけると、スヴェインは的確な指示を飛ばした。
「今すぐ伝令を回せ。暗殺者が侵入。他にもいる可能性がある。警備を強化しろ。意識不明者が多数いる、こちらにも人を送れ!」
隊員は驚愕した表情を浮かべながらも、すぐに頷いて駆け出した。
大変なことになった。これで騒ぎが広がれば、この場に人が来る……?
肩で荒い息をしながら、自分の状況を把握しようとする。
目の前がどんどん暗くなる。
この惨状が明らかに、いえ、禁じられた賭け事も明らかにしなくてはならなくなる。暗黙の了解で皆が知っているとはいえ、そんなことになったら……。
それに、暗殺者を結果的に誘導してしまった現状。
この件は、誰が指揮を執るの?
第二王子……それはまずいわ……!
胸には、恐怖と焦燥が交錯していた。計画の全てが崩れるかもしれない危機感が、頭の中を駆け巡る。




