9話 ルカの迷い。
組合の空気は、朝よりもずっと熱かった。
昼過ぎの陽光が窓から差し込み、酒と汗と興奮の混ざった匂いが、大広間を満たしている。
依頼板の前には人だかりができ、奥のテーブルでは杯を打ち鳴らしながら盛り上がっている集団もいた。
——こんなの、初めて見た。
冒険者組合がにぎわっているのは知っていた。いつも多くの冒険者たちがいて、ざわざわしている場所だ。
でも、今日のこれはまるで、火がついたみたいだ。
「小熊の坊ちゃん、やるじゃねぇか!」
「霊核の報奨金、上乗せだとよ!」
「支部長と直談判? どこの貴族だと思ったら、キエッリーニ様か!」
笑い声。驚き。期待。
すべての視線が、同じ一点へ向かっている。
その中心に、オルトがいた。
胸を張り、支部長や幹部たちと対等に話しながら、冒険者たちに声をかけている。
偉そうではない。けれど、堂々としている。
私が知っているオルトよりずっと、大人に見えた。
……凄い。
正直に言えば、少し誇らしかった。
ずっと小さな時から知っている従兄弟。お喋りが苦手な自分に付き合ってくれて、喧嘩して、笑ってきた。
明るくて優しいけど、無神経でガサツなお兄様。
そのオルトが、こんな風に皆を動かしているなんて。
「ルカ、見た? オルト、かっこいいね……!」
隣でリナが目を輝かせている。
うん、と頷くことはできたけれど、胸の奥に小さな刺が刺さる。
……私には、何ができる?
術式は上手な方だとは思う。学園でも褒められた。
でも、街中での術式行使は禁じられている。
剣術は得意だ。騎士達にも褒められた。
でも、平時での帯剣は許されていない。
それはまだ、私が子供だから。人として認められてないから。
檻の中に入れられて、守られてしかるべき、主と国家の間の愛し子だから。
学園で学んでいるけれど、まだ半端。
騎士ではない。冒険者でもない。
ここにいる誰もが、何かを持っているように見える。けれど、私には胸を張れる何かがない。なのに。
「よぉ、ルカ!」
そのオルトが、笑顔で手を振ってきた。当たり前みたいに、迷いなく。
「お前にも頼りたいこと、山ほどあるからな!」
にかっと笑って、そう言い切る。
……ああ。嬉しかった。本当に。嬉しかったんだ。なのに。
同時に、どうしようもなく、不安にもなった。
オルトは、どんどん前へ進んでいく。私は、その横に立てるんだろうか。
……それとも、置いていかれるんだろうか。
熱気はさらに高まっていく。
歓声が飛び交い、未来が語られ、皆が笑っている。
その真ん中で、オルトは輝いていた。
私は少しだけ後ろに下がって、その光景を見つめていた。
——手を伸ばせば届く距離のはずなのに。
どうしてだろう。指先が、震えていた。
熱を帯びた歓声の中で、私は笑えていなかった。
リナは違う。彼女は私の隣で、心の底から嬉しそうに笑っていた。
「すごいね……! オルト、たくさんの人に頼られてる……!」
瞳がきらきらしている。尊敬と憧れ。羨望すら混じった、純粋な光。
——リナは、眩しい。
素直で、優しくて、人を信じることを怖がらない。
私が守りたいと思った、大切な友達。けれど、今は。
……私よりも、ずっと前を見てる
私はと言えば、周りの空気に圧倒され、胸に重いものを抱えているだけ。何やってるんだ、私は。
情けなくて、悔しくて。けれど、目を逸らせなかった。そのとき。
「リナちゃん、こっちこっち! 一緒に飲もうぜ!」
調子の良い冒険者が手を振ってくる。
リナは一瞬戸惑ったが、にこっと笑って会釈した。
「ごめんなさい、まだお仕事中なので……!」
「あーそっか!」
周囲から笑いが漏れる。その空気は、やさしくて、あたたかくて。
心臓が、ぎゅっと掴まれる。……ああ、ダメだ
このままだと、全部に追い抜かれる。
リナも、オルトも。みんな、私の前を走っていく。
私だけが立ち止まって、その場に取り残される。
焦りが、喉の奥を焼いた。
「ルカ? どうしたの?」
リナが覗き込んでくる。心配そうに、優しい声で。
「ちょっと、疲れただけ」
そう答えると、リナは小さく笑って、私の手を取った。
「じゃあ、外の空気、吸いに行こっか?」
その笑顔はあまりにも柔らかくて。
だから、私は逆に胸が痛んだ。守りたい、ってずっと思ってたのに。
今の私は守られてばかりだ。それが、たまらなく、悔しかった。
組合の外に出ると、夕暮れが港を染めていた。
橙の光が波に揺れて、昼の喧噪を少しずつ鎮めていく。
風が吹き、潮の匂いが頬を撫でる。
それだけのことなのに、胸の奥のざわめきは消えなかった。
このままじゃ……嫌だ。
そう思った瞬間。
「――あれ?」
リナの声が震えた。視線の先。
道の角に、赤い布を肩に巻いた男たちが立っていた。
昼間よりも、ずっと近くに。そして、ずっと嫌な目つきで。
「よう。可愛い子じゃねぇか」
軽く手を上げて、にやりと笑う。リナの肩が、小さく震えた。
私は一歩、前に出た。
頭で考えるより先に、体が動いていた。
嫌な予感がする。
でも、ここで下がったら——もっと嫌だ。
男たちの視線が、私を舐めるように流れていく。
「なんだガキ。弟か? 邪魔すんなよ」
弟。その一言に、思わず歯を食いしばった。
「……リナに、触るな」
低く、短く。それだけの言葉に、男たちは一瞬だけ目を細めた。そして——。
「ははっ。威勢だけは一人前か」
笑い声が、夕暮れの空に響いた。
やっぱり、私は何も持っていない。
そう痛感しながらも、足は引かなかった。
引けなかった。守りたいものが、そこにいるから。
「おいおい、怖がらせるなって。ちょっと話すだけだぜ?」
男の一人が肩をすくめながら、にじり寄ってくる。
笑っているけど、目は笑っていない。
「リナ、後ろに」
私は小さく言い、手を後ろへ伸ばす。リナの指先が、ぎゅっと私の袖を掴んだ。
震えている。当たり前だ。彼女は優しすぎる。争いを望まない。なら、私が——。
「やめてください。迷惑です」
リナが勇気を振り絞って声を出す。
その声はかすかに震えていて、それが逆に男たちの嗜虐心をくすぐった。
「別にいいだろ? 話すくらい」
「嫌がってる」
私が遮った瞬間、男たちはぴたりと足を止め、こちらを見下ろした。
私の身長では、見上げるしかない。それでも、視線だけは逸らさなかった。
「……意地張ってんじゃねぇぞ、坊主」
「意地じゃない」
きっと。ただ、逃げたくなかった。
男の口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「へぇ。じゃあ——」
そのとき、隣から声が小さく鳴る。
「……っ、ルカ、やめよ」
リナの声。袖を掴む指がさらに強くなる。
私は、息を呑んだ。
ああ。わかってる。
私がここで突っ張れば、リナが巻き込まれる。
私一人じゃ、守れない。でも。
引いたら、何も変わらない。
胸が、苦しいほどに痛む。
「私がいる限り、リナには触らせない」
言いきった瞬間、男の笑みが消えた。
「……へぇ?」
次の瞬間、男の手が、迷いなく私の胸倉を掴んだ。
「ルカっ!」
リナの悲鳴。視界が一気に揺れる。そのまま、壁に叩きつけられた。
「っ……!」
痛みが走る。息が詰まる。体が震える。足に力が入らない。
強化……いや、ダメ。
ここは街中。術式の使用は禁止。それを破れば、罰則がある。
奥方様を困らせる。迷惑がかかる。
私は、拳を握りしめるだけ。
「やめてください!」
リナが男の腕を掴んで止めようとする。
「おっと、嬢ちゃんは優しくするって」
別の男がリナの手を乱暴に払い、肩を掴んだ。
「やめろ!!」
私は叫んだ。無様でもいい、声は出せた。だが。
「ガキが吠えんな!」
頬を強く殴られる。視界の端が白く弾け、足が浮いた。体が横に飛ぶ。
「ルカ!!」
リナの叫び。地面を転がり、砂埃が舞う。痛みよりも、その声が刺さる。
立ち上がろうとするけど、体が言うことをきかない。
目の前が滲む。悔しい。情けない。吐き気がする。
「やめてってば!!」
リナの声。
彼女が私を庇うように、男たちの前に立っている。
「ルカを、これ以上……!」
震えているのに、それでも前に出て。
誰よりも優しくて、誰よりも強い。なのに。
そんな彼女を守れない、私。唇を噛んだ。血の味がした。膝に力が入らない。
その瞬間。
「おい、お前ら」
空気が変わった。
背筋を、冷たい刃がなぞるような感覚。
声は低く、鋭く、抑えた怒りを孕んで。
なのに、どこまでも頼もしい。
「俺の家族に、何してんだ」
夕陽を背に、影が一つ。
見上げるまでもなく、わかった。
「オルト……!」
リナがほっと息を漏らす。
男たちの手が、一瞬止まった。
オルトの足音が、ゆっくりと近づいてくる。
笑っていない。
ただ、静かに怒っていた。
「悪いが、今すぐ消えろ」
淡々と。一切の誤魔化しも、脅しも混ざらない。
ただ事実として告げるように。
だが、その一言だけで。
空気が、ひりつくほどに張り詰めた。
男たちは顔を見合わせた。
「誰だよ、テメェ」
軽く睨みつけるように言うが、声には、わずかな怯えが混ざっていた。
当然だ。オルトの纏う空気は、獣のような気配。それでいて、制御された殺意。
男たちが一歩引いた、その瞬間。
「名乗るなら、その先は決闘になんぜ」
オルトは、肩をすくめただけで終わらせた。
挑発でも虚勢でもなく、静かに。
男の眉が跳ねる。
「チッ。ガキが粋がってんじゃ——」
「遅ぇ」
オルトの姿が、ふっと消えた。
「は?」
理解するより早く、男の体がぐらりと傾いた。膝が落ちる。腹に、鈍い音を立てて拳がめり込んでいた。
「がっ……!」
男はその場にうずくまる。オルトは一切の無駄なく拳を引く。
「次」
顔を上げた別の男と、視線が交差した。その一瞬で、そいつの顔色が青ざめる。
「な、舐めん——」
掴みかかろうと腕を振り上げたその手首を——。
オルトは、指二本で掴んで止めた。
「……っ!?」
「俺は今、かなりイラついてるんだ」
静かな声。なのに、底が見えないほど冷たい。
「だから、本気でやる前に消えろって言ってんのが、わかんねぇのか」
ぎり、とオルトが指に力を込める。男の顔が苦痛で歪む。
「いっ、いてぇ! ちょ、やめっ——」
「言わねぇと、わかんねーのか? お前らの面、覚えたぞ」
オルトは手を離し、男を突き飛ばす。
そのまま、男たちを射抜くように睨み据えた。
圧倒的な、それだけで場を制圧する視線。
「消えろ。二度と顔を見せるな。この街で見つけたならば——」
「っ、くそっ、行くぞ!!」
誰よりも早く逃げ出したのは、さっきまで威勢の良かった男だった。
残りも慌ててそれに続く。
あっという間に、路地は静けさを取り戻した。
砂埃だけが、ゆっくりと落ちていく。
……終わった。
張り詰めていた空気が緩み、私はようやく息を吐く。
「ルカ!」
リナの声。私はなんとか笑おうとした。大丈夫、と言おうとした。
だけど、顔が痛くて、うまく動かない。
「……っ、ごめん」
情けなく、そんな言葉しか出てこなかった。リナは首を振る。
「謝るのは私だよ……私のせいで……!」
「違う」
私は震える声で言い返した。
「私が……弱いだけ……」
その瞬間。
「おい」
頭上から、影が落ちた。オルトだ。私と目が合う。
優しくもなく、冷たくもなく。ただ、まっすぐに。
その視線が、胸に突き刺さる。
「立てるか?」
私の返事を待つ前に、オルトは手を差し出した。
その掌は、大きくて、温かい。
私は、唇を噛んでから、その手を掴んだ。
引き起こされる。
痛みよりもこの瞬間の方が、ずっと苦しかった。
また、助けられた。
また、守られた。
私は——何も出来なかった。
歯を食いしばる。
情けなくて、悔しくて、心の奥が焼ける。けれど、今、オルトの前で崩れたくはなかった。
「……ありがと」
かろうじてそう言うと、オルトは小さく頷いた。
それだけで終わらせようとした、そのとき。
「リナ」
オルトが振り返る。
「ルカを頼む。医務室に連れてけ」
「う、うん!」
リナが私の肩を支える。
「オルトは……?」
「少し、片付け」
短くそう告げると、オルトは路地の奥へと視線を向けた。
赤布の連中が落としたであろう布切れや、小さなナイフ。
そして、濁った空気の残り香。
彼は、それらをじっと見つめた。その横顔は、いつもの軽さはなく。
「……すぐ戻る」
その声を最後に、オルトは歩き出した。背中が遠ざかる。
——また、置いていかれる。
その姿を見送りながら私は、拳を握りしめていた。
痛みも、悔しさも、涙も、全部押し殺して。
置いていかれるのは……もう、嫌だ。
胸の奥で、何かが小さく燃え始めていた。
その後に帰った屋敷は少し落ち着かなかった。既に日は暮れていた。
オルトはフィオナお姉様と共に、今は奥方様の執務室へ篭っている。
冒険者組合での報告や、関係各所への連絡、街の警邏との確認。
領主が正式に依頼として出したのならば、それは公務だ。やるべき事は沢山あるのだろう。
その帰還の報告でさえも、今までとは違った。
あの軽口ばかりの彼が、きちんと礼節を守り、必要な情報だけを的確に伝えていく。
その姿は頼もしさと同時に、どこか遠さを感じさせた。
オルトは笑いながら言うけど、眼差しは冷静に状況を測っていた。
奥方様も、子供扱いしなくなっている。騎士、いやもっと別の何かへ。
たった一日で彼は、そういう目を向けられる存在になっていた。
——それが、少しだけ、悔しい。
私は自室の寝台で横になりながら、ぼんやりと天井を見ている。思い起こされるのは、冒険者組合の医務室で治療を受けた時のこと。
リナは詠唱を紡いだ。癒しの光。傷は残らない。
けれども、心配そうに覗き込む。
「……まだ痛む?」
「平気。ちょっと打っただけ」
「もう! ちょっとじゃないよ!」
リナの声は震えていた。
私が傷ついたことが、彼女には怖かったのだ。
守りたかった。
でも守りきれなかった。
それがまた、胸を締め付ける。
私が強ければ……。
私に力があったなら……。
けれど、現実は。
私は何もできない。
街中では術式を扱うことが許されない。
訓練は続けてきたけど、それだけでは、足りなかった。何もできない自分が、嫌だった。それでも。
「ルカ」
医務室の扉の外からオルトの声がした。
フィオナお姉様を伴って入ってきた彼は、いつものように軽く片手を上げる。
「怪我は?」
「大したことない」
「なら良い」
その笑顔に胸の奥が少しだけ温かくなり、同時に、どうしようもなく痛くなった。
「なぁ」
オルトが私の前に立つ。その表情には、いつもより少しだけ真剣さがあった。
「明日——異界に行くぞ」
「……え?」
「小規模だがな。正式な依頼付き、攻略だ」
空気が一瞬止まる。リナが目を丸くしている。
「い、異界攻略!? オルト、急すぎ……!」
「タイミングは今しかねぇ。支部長が言うには、行政依頼として出されるのは早くとも三日後」
冒険者組合トラーパニ支部は盛り上がっているが、王都の霊核需要を賄うのに、それだけではとても足りない。たが、シシリア島全体であれば、充分足りた。
「その前に、子爵家として本気を示す。戦力も揃ってるし、宣伝みたいなもんだな。組合も乗り気だった」
言葉は軽いが、本気だ。
そして、その「戦力」の中に、自分の名前が含まれていることに、驚きがあった。
「リナは癒師として確定。フィオナも参加する」
「うん、私ももちろん行くよ!」
リナは迷わず頷く。当然だ。彼女は術師として十分な力がある。
その隣で、私は黙った。オルトは私を見る。少しだけ視線を柔らげて。
「四人。小規模に挑むには、最も一般的な構成だ。ルカ、お前にも——」
その先が続く前に、私は言った。
「私は、行けない」
空気が、小さく揺れる。オルトも、リナも、一瞬だけ言葉を失った。私は、静かに、はっきりと続けた。
「私は、騎士でも冒険者でもないから。まだ、人として認められてないから」
自分で言って、胸が軋む。馬鹿みたいだ。でも、事実だった。
自らが姓を選び、それを社会が認める事で初めて人は人と成る。
それまでは、守られる側の存在として扱われた。
帯剣や術式行使どころか、外出さえも制限される。
まるで、籠の中の小鳥。
「……私がいると、足手まといになる」
「何言ってんだよ。こっちは猫の手も借りたい気分なんだ。貴重な戦力を遊ばせておく訳にはいかねぇ」
戦力。そう認められている。そこに喜びがあった。でも——。
「私には、資格がない。外出、それも異界攻略なんて許される筈もない」
子供が勝手をしたところで、咎がある訳ではない。
その責任は周囲の大人が負うもので、つまりは共にいるオルトたちのものとなる。
それは、ここには「いない」、父上にも、そして奥方様にも。
「心配はいらねぇよ。——な? フィオナ?」
フィオナの手には一枚の依頼票らしき紙が握られていた。
「街中での護衛依頼、これを同時に受けるわ。街中に遊びに出る対象、ルカのね。これで、名目が立つの。頼りにしてるから」
自信に満ちた声。悪戯な笑顔。
「護衛……」
会話から方便だとわかる。けれど、守られるべき存在。……それを今更に、突き付けられた気がした。
「ま、そういうこっで、問題はねーんだ。お前を仲間外れにゃしねーよ。小規模程度なら、俺ひとりでも問題ねーけどな。ついでで、護ってやるよ」
カラカラとオルトは笑う。リナは「これなら四人で行けるね」と大喜びをしていた。
「……わかった」
この空気に水を差す訳にはいかず、頷いた。
皆は、優しい。だけど。
この条件では帯剣が許されない。無手。
貴重な戦力。頼りにしてる。言葉はそうでも、本気とは感じられなかった。
私を仲間外れにしないため、彼らなりに優しさを選ぼうとしていて——。
それが、かえって痛かった。
「つーわけで、帰るか。母ちゃんに報告もあるしな。それぞれ、明日の準備はしておけよ」
明るいオルトの言葉に、お姉様たちも笑っている。
私も笑った。
ちゃんと笑えたかどうかは、わからない。
「大丈夫。わかってるから」
本当は、わかりたくなんかなかった。でも、理解してしまっている自分が一番嫌だった。
——私は無力だ。
それから、キエッリーニの屋敷へ帰るまでの記憶はない。
扉を三つ叩かれる。優しい声がした。
布団を被り、うずくまる。寝たふりをしていた。
やがてその気配は去ってゆく。
——やっぱり、子供の我儘なのかな。
喉の奥が熱くなる。泣きそうで、でも、泣きたくなかった。
——明日、みんなは異界へ挑む。
——私は、ここに残ろう。どうせ、足手まといだ。
——また、置いていかれる。私は弱い。
相反する想いは胸の奥で、燻っていた。
それがゆっくりと、黒く、深く燃え広がっていくのを感じていた。
その夜、屋敷は静かだった。夕食も、いつも通りに並べられた。
リナも、フィオナも、明日の準備で忙しく動いている。オルトも奥方様と共に組合との会合で、屋敷を空けていた。
だから、誰も、私の隣にはいなかった。自分から動かないのだから、当然だ。
それでも、胸の奥に小さな空洞が開いたように感じる。
私は屋敷にある物見台の窓辺に座り、夜の港を眺めている。街の灯りが、ひどく遠くに見えた。
……私は、何をやっているんだろう。
一人になるのが嫌で、でも守られたくなくて。
強くなりたいのに、足を止めている。
矛盾ばかりで情けない、子供の我儘。それでも——
胸の奥で燃えるこの苦しさだけは、どうしても消えてくれない。
拳を握る。ちゃんと向き合わなきゃいけないのに、怖くて何もしていない。
——私は、弱い。
そのとき。
「ここに居たのね」
静かな声がした。息が止まる。視線を向けずとも、誰かはわかった。
奥方様だった。
黒いドレスの裾を揺らしながら、音もなく近寄ってくる。
そして、私の隣に立った。
反射的に立ち上がりかけて、肩を抑えられた。
「奥方様……」
「あら、逃げるの?」
穏やかな声なのに。心臓を掴まれたようだった。
トラーパニを支える貴婦人は優しく微笑んで。
「少しだけ、話をしましょう?」
その誘いは優しさでできていて、同時に逃げ場を塞ぐほどに真っ直ぐだった。
「……今は、その……」
視線を逸らす。私は、喉に言葉を詰まらせた。
奥方様の顔が見れない。軽く肩に置かれていた手が離れてゆく。去りゆく温度、生まれる距離。
隣に立つ女性。その距離は私が選べる距離だった。
逃げることも、寄り添うことも、できる位置。
「……ルカ」
呼ばれるだけで、胸が痛む。
「今日、あなたが何を思ったのか、私は知りたいの」
その声は、とても優しかった。けれど。
——言いたくない。言ってしまえば、壊れる。
胸の奥の苦しさを、言葉にしたら。
この人はきっと、私の心を全て抱きしめてしまう。
それが怖かった。涙が出そうになる。だから。
「……おやすみなさい」
私は立ち上がり、背を向けた。呼び止めはない。
ただ、静かに見守る気配だけが、背中を包む。
その沈黙が、痛いほど優しかった。
そして、私を許してしまうほどに残酷だった。
駆け込むように自室へ戻る。扉を閉め、背中を預ける。
……逃げた。また逃げた……。
情けなくて、悔しくて。でも、泣きたくなかった。
泣いてしまえば、本当に子供だ。
私は、寝台に身を沈めた。
目を閉じても、胸はざわついたまま。
——明日、みんなは異界へ行く。私は、何もできないまま。
孤独が、身体中を満たしていく。
その闇の中で私はただ、自分の弱さから目を背け続けた。
眠りは浅く、夜は長い。心は少しずつ、壊れていく。
翌朝。
いつもより屋敷が少しだけ慌ただしい。食堂に向かうと、もう三人が集まっていた。
オルトは大斧の点検をしていて、フィオナは書類をまとめ、リナは道具を確認している。
その様子は、当たり前の「準備」だった。
異界へ向かうための。
胸が、わずかに締め付けられた。
「おはよう、ルカ!」
リナが笑顔で手を振る。私は微笑み返しながら、席についた。
「……おはよう」
食事は普段と変わらない。
でも、空気が少しだけ違う。みんなの視線の奥が、いつもより遠くを見ている。覚悟のある目。
……私は今、ここに座っているだけ。
何を用意するでもない。ただの添え物。そんな自覚が、じわりと胸に染みた。
「よし、準備は大体終わりだな!」
オルトが立ち上がる。陽を背に受け、大きく伸びる影。頼りがいのある背中。
「母ちゃんにも伝言してある。後は出発前に最終確認して……」
そのとき。
「ちょっと待って」
自分の声に、自分が驚いた。三人の視線がこちらを向く。心臓が跳ねた。拳を握る。
「私は、行かない」
息が止まる。空気が揺れた。
けれど、オルトは困ったように笑った。
「気が乗らねーんなら仕方がないが、いいのか?」
「そんなに危ないこともないから、オルトに任せておけば終わるわよ」
「ちょっとしたお散歩気分で良いんじゃない?」
フィオナが冷静に付け足し、リナが気遣う。
どちらも正論だ。納得もできる。でも。
それは、必要とされてではない。ただの優しさ、甘さでしかない。叫びたくなる。唇が震えていた。
けれど、声にならない。
「お前が良いなら、構わないけどよ。たまには男らしさみてーなもんを見せても良いんだぜ?」
オルトの軽口に、唇を噛んでいた。そんな私に、リナがそっと微笑んだ。
「気が進まないなら、しょーがないね。大丈夫、帰ってきたら、いっぱいお土産話するね」
やめてほしかった。優しさが。甘さが。
私を、子供のままにする。悔しい。情けない。でも、何も言えなかった。
「……いってらっしゃい」
そう答えるのが精一杯だった。
オルトは満足げに頷く。
「留守番頼んだぞ。屋敷のことは安心して任せられるのは、お前くらいだからな!」
その言葉は、褒め言葉だったのだろう。けれど、胸に落ちたのは深い影だった。
——任せられる、じゃない。外に出してもらえない、だけ。
心の中で呟いても、誰にも届かない。
食事が終わると、三人はそれぞれの準備へと散っていった。私は小さく息を吐き、立ち上がる。
見送らなきゃと足を進める。屋敷の玄関は、もう出発の雰囲気に満ちていた。
大斧を背負うオルト、腰に銃を二本さすフィオナ、鞄を背負うリナ。
それぞれが、それぞれの役目を自然に受け入れている。
私は、ただ立って、彼らを見送るだけ。
「行ってきます!」
リナが明るく手を振った。私は笑って答えた。
「……いってらっしゃい」
玄関の扉が開き、陽光が差し込む。三人の背中が、まっすぐ外の世界へと向かう。
扉の閉まる音が響く。静寂が残った。
その瞬間、胸の奥で、小さく何かが崩れた。
……置いていかれた。
理解していたはずの現実。受け入れていたはずの立場。でも今、はっきりと突きつけられた。
……私は、役に立てない。ただの、守られるだけの存在。
そう思った瞬間。身体の芯から、熱が込み上げてきた。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ!
叫びたいほどの感情が、喉を締めつける。なのに、声が出ない。屋敷の中は、広くて、静かで。
私の息遣いだけが響いた。
……誰もいない。
取り残された空間で、私は、拳を強く握りしめた。
爪が掌に食い込む。痛みすら、感じられない。
——強くなりたい、追いつきたい。それでも、どうすれば——。
思考が堂々巡りを始める。出口の見えない迷路のように。その迷いの中で私は、何かを失いかけていた。




