75話 君の名は。
意識が遠のいたというのに、視えるものがあった。
闇の中、遠ざかってゆく背中。
遠ざかってゆく夫の。
遠ざかってゆく父の、義父の、祖父の。
遠ざかってゆく義姉の、母の、義母の、その背中。
——ああ、これは夢か。
引き摺られるかの様に、自分の背中が浮き上がる。
手を伸ばしても遠く、離れてゆく。
遠ざかってゆく背中。
あっちへ行きたかった。皆と一緒に、いたかった。
ずっと。
けれど——。
男に、抱き止められていた。
繋ぎ止められている。
視線が、絡んだ。
アウグスタは遠ざかる背中を、追う事が出来ない。
彼に背負わせてしまったから。
共に呪いを背負ってしまったから。
アントニオが、真っ直ぐに私を見ている。
アウグスタ自身が抱えたものと一緒に。
それは遠ざかってゆく背中でなく、手を伸ばせば、すぐに抱きしめられるもの。
その背中。
大きくなった息子の。
まだまだ小さな娘たちの。
その周りには大勢の人達がいた。笑い合い、手を取りあっている。
その一人一人の背中もまた、手を伸ばせば届いた。
「ふふっ……」
アウグスタは夢現の中で微笑む。
足元が、妙にくすぐったい。
そういえば、まだ小さな頃はオルトもルカも寝相が悪く、起きたら足元に居た事もあったっけ。
そんな、ささやかな夢をみる。
もう取り戻せない過去が、遠く離れていった。
抱きしめられる今を抱えよう。遠い日の誓いが、胸の奥から湧き上がる。
私には剣がいる。
立派に育った息子がいて、可愛い娘達がいる。
だけじゃない。いつも支えてくれるのは、背筋をピンと伸ばした婆やの背中。
思い出す。崩れ落ちる様、倒れ込んでいったその背中を。
「婆や?」
アウグスタは、パチリと瞳を見開いた。
彼女は足裏に妙な感触を覚える。
しかし感覚がおぼつかない。頭も妙に重かった。
暗い部屋、寝台で横になっている。
だが婆やはどうなった? 記憶がない。ここはどこで、私は何を——。
足裏にまた、妙な感触が。
妙な音もしていた。
視線を送ってみるが、足元は見えない。彼女自身の胸部が視界を遮ってしまっている。
首を、動かそうとした。動かない。
手を指を、腰を脚を。
「何故……」
動かない。
唇から漏れた呟き。
感じるのは、人の気配。
足裏に、やけに熱を感じる。
「ハァ、ハァ、ハァ……うっ、ふぅ……」
そして、やけに切迫した呻き声。男のものだった。
鼻につく、生臭さ。
足裏から、妙な感触が離れてゆく。
人の気配も僅かだが、離れていった。
アウグスタの身体の中から、熱が引いてゆく。
温もりが、感情が、切り離されて去ってゆく。
それは彼女の防衛反応。
だが、身体は動かない。
床に跪いた音。重い音。アウグスタの感覚だけは生きている。
「お目覚めですか『奥方様』。いや、『女神』よ」
声が聴こえる。
ここ暫く、よく聴いた声。
酒焼けした男性の太い声。
立ち上がった男。
アウグスタの横たわる寝台。彼女の頭は枕によって僅かな角度が付いている。
男は手に持った水差しへ口を付け、喉を鳴らした。
嚥下にあわせ、厚くとも緩んだ胸板が上下する。
「監査官殿……」
ゴトリと水差しを置く老人。
王国財務省の役人だった。
「おお……。母上よ、女神よ、なんと恐れ多い。儂のことは豚とでも猿とでもお呼びくだされ……」
その顔は、醜く歪んでいる。
アウグスタはその視線を知っていた。
かつて、晒された澱み。
「……ッ、は、ひゅっ」
息が詰まる。呼吸を求め、開いた唇が震えていた。
背筋に走るものがある。肌が粟立つ感覚があった。
濁った瞳が、じっと女を見ている。
「ふぉっ、うぅ、はぁ、はぁ、はぁ……。いけませぬぞ我が妻よ。儂の女神よ……。……うっ」
蠕動する男の身体。
老いた肉体に、脂じみた汗が滴り流れる。
鼻をつく臭いがまた一つ濃くなった。
その生臭さに、鼻を摘みたくもなる。
「うぅ……」
なのに、身体が動かない。
脚も、腕も。首さえも。指先一つとして動かない。
そして、喉さえも。声が、出ない。
「姉君よ、妹よ。俺の女神よ。少し、暑くはありませぬかな?」
その癖に、意識だけが冴え渡る。
甘えた様な、それでいて一方的な嗄れ声。
男の手が伸びた。
身悶える女。
アウグスタには、身構える事さえ出来ない。
ただじっと、その動きを追っているしかなかった。
切り替わる。
記録する。記憶する。
ただそれだけが機能した。
「おお、いけません、いけませぬぞ。そんな眼をされましては、儂は、某は……。うっ、ふぅ……」
足裏に、覚えのある嫌な感触が再び。
額が擦り付けられている。身体を震わせて。
冷たく思考が切り離された。
この男の懐柔は、出来ていたはずだった。
アウグスタとて女である。己に向けられる情欲というものを、察さぬはずもない。
幾度となく晒され続けてきたもの。
途切れてゆくあの人の鼓動の横で。燃え盛る屋敷の前で。
政争の場で、商談の場で、街中で。女というだけで晒され続けた澱みであった。
「ハッ、ハッ、ハッ……」
絶えず受け続けているからこそ、対処も容易なものとなる。そのはずだった。
愛なき肉欲など、所詮は一時の衝動に過ぎない。
戦場でもなき場において、適切に管理さえしていればどうとでもなった。
なってきた。微笑んで、柔らかに受け止めて。
理と利に諧謔に交え、愛想の一つでも浮かべておきさえいれば御せるもの。
そう。ずっと上手くやっていけていた。
「おお、奥方様や、儂の女神よ……」
フィオナにやりこめられてから、彼も随分と大人しくなっていた。
だからこそ、傷を癒す様に威厳を保たせ承認し、お世辞も使っていた。媚笑を浮かべる事だって、躊躇いはなかった。
「母上、姉上、妹よ……」
立場ある老人、権威ある官僚。賢くも、しぶとく生き抜き続けてきた制度の中にいる、普通の人。
理と利により充分に縛れる、御せる。
大義も思想もない、自らを賭す事など考えぬ俗人ならではの生存戦略は。
波よりも容易に。そのはずなのに。
——いいえ、まだよ。まだ、御せる。
船と、同じなのだ。そうやって、これまでも切り抜けて来ていた。
喉の機能は回復しつつある。肺も。言葉により、欲望の方向を操りさえすれば——。
「娘よ、妻よ。……何者にも代え難い、我が女神……うっ、ふぅ、イっ……」
足裏に、熱いもの。その臭いがまた鼻をつく。
もうアウグスタには見えている。
となれば、それがなんなのかも理解した。
「おおっ、なんという……。奥方様。儂を、卑しき豚めを……。こうしちゃおれん!」
口早に呟き、頭を下げた監査官。
ヌメヌメと濡れていて、不快であった。
ドタドタと足音を立て、離れてゆく男の背中。
アウグスタは碌に動かぬ身体で考える。
着衣に乱れはない。恐らくは。
首を僅かに動かせば、散らばった黒髪が揺れた。枕の質も悪くなく、清潔なものである。
指と手を緩慢に動かして、感触を確かめる。滑らかで、乾いていた。
それなりに質の良い寝具で寝かされている。
そう——寝かされている。
頭の重さや喉の渇き、震えを帯びた身体感覚。術式や薬物の使用が予測されるも、それが身体反応によるものなのか、別の原因からかも判断がつかなかった。
生臭さだけが、やけに鼻をついている。
何が起こったか。何をされたのかが分からない。
記録されていないもの。その空白がただ黒く、足裏付近の粘り気だけが、やけに不快であった。
「待たせたなぁ愛する妻よ。おぉ、おぉ……」
再び傅いた監査官は絹布を手に取っていた。そして拭いてゆく。
足の裏、土踏まず、踵。爪先、足指からその股までをも丹念に。
拭いてゆく。自らが汚した女の足裏を。
「おぉ、こんなに穢されて、汚されて。だが、儂は、忠実な僕だけは永遠に、お前を愛すと誓うぞ。我が妻よ……。美しい、美しいぞ……」
言いながら、濡れた音。監査官はアウグスタの示指を咥え、舌でねぶり始めた。
肉体の反応か、心理的なものなのか。その姿は冷めた代行でさえも、怖気を走らせるものだった。
「おやめなさい」
やっと、声が出る。
「お、奥方様っ! 今、お起こしいたします!」
思うよりも余程、冷たく出ていた。
額を床へと押し付けた監査官。ひれ伏した男を、女は冷たく見ている。
「不要です」
まだ、御せる。彼女はそう見ていた。ならば、状況を確認しなければならない当主代行である。
倒れていった婆やの背中。一抹の不安を胸に、アウグスタは問い掛ける。
「婆やを、どうしましたか」
それが、最も大きな懸念。
「おお、そうでしたな。忘れておりまして、申し訳ござらん。乳母殿もお連れするべきでしたが、ジーノのヤツがヘマをこきましてな。お迎えにお連れする事、叶いませんでした」
柳のジーノ、あの男。ならば、そういう事か。
直立した男からは視線を逸らし、女は考える。
その腕と危険の天秤を。
「無事なのでしょうね?」
「傷付けるなと、厳命しております!」
醜い下腹部を晒したまま敬礼を見せた監査官。その息は荒く、頬は紅潮していた。
アウグスタは彼の瞳へ視線を送る。見えるのは澱みしかない。
ふぅと吐息が漏れた。聞きたくもない事を問い掛けねばならない。正直な話、気は進まなかった。
だが、それを知らないでいてはどうともならない事も理解している。
「それで、何を望みます?」
単刀直入に尋ねてみれば、監査官の貌は喜びを露わとした。ただ相変わらず瞳は濁ったままであり、涎と情欲の証がとめどなく溢れている。
「でゅふふ……。の、望みなど、勿体無い……お、おふ。……お言葉。女神はそこに座すだけで、……ふぉぅ、おふ。……愛なのです。ただ衆生を踏み付けて、睥睨されておられれば、……はぁ、ハァ、それだけで救われ申す。……うっ」
豚にも似たその姿にアウグスタは眉を顰めた。
だが同時に、僅かながらも安堵を得ている。
身体機能が回復してきたという事もあった。
さて、この様子。密かに願っていた様な、都合の良い要請でない事など明らかだ。
彼の求めるものが名誉も富などという、わかりやすい利でない事なぞ察せぬ筈もない。
だからこそ、賭けに出た。
「……ん、くっ。……あらあら、監査官殿は欲のないお方。……欲しいものが、おありでしょう?」
身体を起こせば胸部の脂肪が揺れた。これが衆目を浴びるものだとアウグスタも知っている。
子に含ませるこれを、愛好する者がある事も。
「ほっ、……おふっ。……め、滅相もござらん。この卑しき豚猿を、お赦しくだされ……」
頭を上下に揺らしたかと思えば、再び慌てた様にして跪く男。放たれたもので、異臭がまた濃くなった。
肉体への違和感はあまりない。試みに、ソロソロと脚を上げてゆく。血走った視線はそこへ。
「赦すも何も、ありませんのよ坊や。トラーパニは、そしてキエッリーニは富裕な港。今回のお仕事につきましても、また金銭につきましても幾らかの融通はつきますわ。それとも——」
例え瑕疵となろうとも。
口利きでも、贈答品であっても可能な限りはしてやろう。そういった誘惑であった。
だが男の視線は足裏を、捲れ上がった黒衣から覗く脹脛を見ている。絡みつくように、粘りつくほどに。
「——いいえ、止めましょう。監査官殿には、あの方がいらっしゃいますでしょう? こんな石みたいな冷たい女なんかより、素敵な」
脚を下ろして軽く。親しみと揶揄いを込めて。
「いえ。拙者、彼女との関係を清算しております。これも奥方様にお仕えする為に必要でありますれば」
断ち切る様に言われてしまえば、続ける訳にもいかないもので、ならばとアウグスタは小さく笑う。
力で敵うはずもなかった。そんな事は知っていた。だからこそ彼女は理と利によって立ってきた。
「真面目なお方ですのね。敬服してしまいますの。そういえば、監査官殿の持ち寄られた新型兵器の採用が決まりましたわ。行政府も後日、お礼に伺う事かと」
阿諛に過ぎなくとも男を立て、感情の暴発を抑え込む。今までも、そうやって切り抜けて来ていた。
だからこそ、この男の反応が理解出来ずにいる。
「はい、いいえ。至らぬ所ばかりであります。だからこそ、某はお叱り頂きたいのです」
時として喜びを浮かべ、時として肩を落としはするものの、欲望をとめどなく吐き出し続けた。
濁った瞳で。
——収納解除。
胸の奥で呟けば、手に握られたのは小さな刃。
やっと、やっと出せたかとアウグスタは息を吐く。微笑みを浮かべ、彼女は「ねぇ」と囁いた。
「——それなら、以前よりのお望み、叶えて差し上げましょうか?」
嘲りを込めて呼び掛けてあげればまた果てる。それでも萎える事はなく、男は息を荒らげた後、ゴクリと喉を鳴らしていた。
「お顔、踏んであげてもよくってよ?」
何も、理解出来ないでいる。それでも茶番を演じていなければ、何が起こるかわからない。
否。それもアウグスタには予測が出来ていた。
かといって、とても受け入れられるものでなく。
だからこそ、懐剣を。
嫁入り前から手にし、研ぎ続けた薄い刃を握る。
貫くべきは、どちらか。その答えは既に出ていた。
手を持ち上げ首元へ。視線が胸元に注がれる。
このまま突けば、万事が決した。なのに——。
「おおうふ……。ならぬ、なりませぬぞ儂の女神」
指がそれ以上動かない。また臭気は一段と。
再びか。とアウグスタは思う。それでも眉すら動かさなかった。
言葉とは裏腹な肉の動きだけを、冷たく見やる。
アウグスタの細腕如きでは、厚い脂肪と筋肉で覆われた男の肉体を貫く事など叶わない。
そんな事は知っていた。そして、それを望みもしないでいる。
彼女は代行とはいえトラーパニ領主。王国行政府の官僚を傷付けて、百害あって一利なし。
「神聖なる我が愛に、一指を触れる事さえも恐れ多き事。お方様はただ、そこにおられるだけで儂は、儂は……もう……うっ、ふぅ……。お慕い申しますぞ……」
咽ぶ獣。その濁った視線は見ているようでいて、何も見ていない。理も、利も。
だからこそ、恐ろしい。男の臭いが、ずっと鼻をついている。
「それで、監査官殿? 何をお求めでありますか?」
良い落とし所への期待は出来ない。それでも、問い掛ける必要があった。見極めるために。
「ぬおぉ……奥方様。我が最愛の妻よ。ハァ、ハァ、ふぅ、うぉっ……うっ」
彼女は欲望を吐き出し続ける男を冷たく見ている。
害するならばどちらか。女にとって自明であった。
恐怖により、己が貞操を守ろうと刃を振るった女と自害を選んだ女。
そのどちらが同情を集めるかなど知れた事。
「ふふっ……。あらあら。意気地のない坊やなのね。確か、女の扱いがお得意なのではなくって? それとも——」
浅ましい、はしたない。アウグスタは己の振る舞いに屈辱で震えた。だが彼女はそれさえも、媚態となると知っている。
目を血走らせ、立ち上がった男。老いた太り肉の男は、醜かった。
微笑みを浮かべながら喉元へと刃を向けている。
乗って来たならば、突き入れるだけで済む。
この男を抑えられなくとも、監査官という職責を抑え込む事は出来た。
掠れた息が漏れている。演技の必要さえもない。喉も肺も、元より疲弊していた。
「——欲しいの?」
掠れ声。計算のはずだった。
なのに、指が動かない。答えを出したのは、誰だったか。
——ダン。
床を蹴る音が遠くに聴こえる。アウグスタは瞳を瞑り、懐剣を自らの喉へと突き入れ——。
「な、なりませんぞ! 我が女神!」
ようとして押し倒され、腕を抑えられていた。喘ぎにも似た男女の吐息。黒衣を白く濡らすもの。
「ひっ、……は、離しなさい! 貴方に汚されるくらいなら死んでやるっ!」
自分のものとは思えない、酷く上擦った声だった。
——弱い女。
アウグスタは自らを冷徹にそう評価する。躊躇わなけば、出来たはずだった。
それが最も効率的であり、この場において取り得る最も利益を最大化するものだとも、知っていた。
無理矢理にもぎ取られ、指から離れてゆく刃。
「お、奥方様、我が女神。なりませぬ、なりませぬ」
身を悶えさせ、首を振る女。そんな彼女へ向けて必死に口から泡を飛ばしながら叫んだ男。
その身体が、老いた肉体が熟れた女の身体から、離れていった。僅かな欲望の残滓を残して。
息が荒い。アウグスタは動かない、動けない。
もう身体機能は回復しているはずだ。つい今し方まで、思考と肉体反応は制御出来ていたはずだった。
「拙者があの男、英雄殿に代わり、いつまでもお守りいたします故、何卒、何卒、ご自愛願い奉る……。お方様、儂の愛よ。どうか、どうか……」
なのに、動けない。呆然として、薄くなってきた男の旋毛を見ている。
——この男は何を言っている? 英雄殿? アントニオのことか。何故あの人が出てくるの? 確かに彼は——。
アウグスタには、わからない。
この男の事も、彼の事も、何も。
「ああ……。愛よ、妻よ。どうか、至らぬ儂をお叱り下され。さすれば、女神様の心へ影を落とすあの男よりも某は……」
顔を上げた老人の顔は、涙と鼻水、そして涎で濡れていた。その跪いた両膝もまた濡れている。
その貌は。
渇望、恍惚、憧憬——そして憎悪と嫉妬。何もかもが混じり合い、狂ったものに見えた。
人の心などわからない。
ただそれが、アウグスタには恐ろしいものに見えていた。
「あ……」
その言葉が、意味を持つ事はなかった。男が、ただ恐ろしく。
アントニオ、早く——。
彼女が剣へと縋るのは、間違いなのだろうか。
そんなはずもない。この十四年、いつも側にいてくれた。病める時も、健やかなる時も。
「先代様の事など、忘れませぃ。ご子息も、来年からは兵役へ向かう事となりますぞ。……確かに、良く似ておられる。……のぅ、お方様。拙者ならば、トラーパニの暴れ熊殿、その名も温もりも、胸の下で忘れさせてやりますぞい!」
腰を振る男は冗談のつもりなどではない。そう直感出来た。雄の臭気がまた高まって、鼻を刺す。
粘りつく、青臭さ。気持ちの悪いものであり、触れたくもなかった。己の太腿へと放たれたその感触があまりにも不快で。
けれども——。
「十四年も昔に死んだ旦那に、操も何もありゃすまい。某を導き新たなる未来を切り拓き……」
嗚呼、あゝ。何を言っている。
この男が英雄と呼んだ相手が誰か、アウグスタはここに来て理解した。では、彼は——。
「ツ……」
違う違うと、アウグスタは首を振る。横へ。その動きは、あまりにも弱く儚い。
遠く、声が聴こえる。
堅牢な檻の中。女は呆然と天井の染みを眺めた。
ミシリ、ミシリ。どこかで音が鳴る。
天井が軋んでいた。地の底から、海の底から響く振動——地震にも似た事象。
声が、聴こえている。
パラパラと剥がれ、落ちゆくものがある。
荒々しい破壊音、物質が破壊されてゆく声の中。獣の咆哮にも似た誰かの声が聴こえ続けていた。
天井が、堕ちてくる。それは錯覚に過ぎない。
空が、天井が切り拓かれる。光が差した。
反射として焦点が結ばれる。
あの声が、呼んでいる。
「——ア、ウグスタぁぁぁ!」
十四年の永きに渡り呼ばれる事のなかった一人の女の名を。
夜の帷の中を縫い、月光が降り注ぐ。
照らすのは、地下の女と地上の男。
冷たい月灯りの下、男女の視線が絡み合った。
お読みいただきありがとうございます。




