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6話 血の誓いと砕ける闇。


 腕が背へと捻り上げられている。骨の軋む音を聞きながらも、痛みは遠い。

 視界には、床石に散らばった杯の破片。葡萄酒と血が混じり合い、どちらの色か判じ難い紅が滲んでいた。


 衣は裂け、髪は乱れ、片頰には冷たい石の感触が伝わっている。押さえつける手は粗雑で、息は獣のように荒い。

 だが、その熱も、力も、彼女の内には届かない。事実として在るだけだった。


 喉元に刃が触れていた。わずかな圧力が、皮膚の柔らかさを確かめるように上下する。

 指先の震えも、刃先の冷たさも、すべて記録のように心の奥へ沈めていく。

 感情を混ぜる余地はない。混ぜれば、壊れると知っているからだ。


 髪を掴まれ、顔が強引に持ち上げられる。荒れた指の節が頬を擦り、皮膚に浅い傷を残す。

 そこに痛みは確かにあるはずなのに、感覚は切り離されていた。

 ——血が流れた。

 ただ、その事実だけが胸の奥に書き込まれていく。


 耳元で下卑た笑い声が重なった。汗の臭いと酒精の混じる吐息が肌を撫でる。

 女として屈辱を覚えるはずの場面だった。だが彼女の内側は空虚で、羞恥も怒りも湧かなかった。

 わずかに反射的な仕草が残っていただけだ。唇を噛み、胸元を押さえようとする動き。

 それすら、もはや意志ではなく、習慣の名残にすぎなかった。


 夫の姿が過った。血に濡れ、なお立ち続けた背中。

 その強さを重ね合わせてしまう。

 だが次の瞬間には、違うと知る。ここにいるのは英雄ではない。

 無様に恐怖に怯え、女を脅すことでしか己を保てぬ、取るに足らぬ影。


 その否定を、胸の奥で繰り返した。


 膝を押さえつけられ、衣の布が荒々しく裂かれていく。

 乾いた音が耳に残る。布の繊維が切れる、その瞬間だけが鮮明だった。


 ——辱めを受ける。

 その言葉が、頭の内側に無感情に刻まれる。


 抵抗は試みた。腕を振るい、爪を立てた。

 だが、その力は彼女自身が驚くほどに弱く、まるで子どもの仕草のようだった。

 もはや心は自分を動かしていなかった。ただ、身体が反射するだけ。


 「……」


 声は出なかった。喉に刃を突きつけられているせいだけではない。

 悲鳴も、怒号も、感情そのものが置き去りにされたように、出てこなかった。


 ——その時だった。


 空気を切り裂く咆哮が、耳を撃ち抜いた。


「お館様ァアアア!! 奥方様アアア!!」


 血の匂いと鉄の衝撃が一度に雪崩れ込んだ。

 押さえつけていた腕が、骨ごと叩き折られたように吹き飛ぶ。

 刃が閃き、影が崩れ落ちる。


 目の前に飛び込んできたその姿。

 鮮血を浴び、憤怒に燃える瞳をした若き武人。


 一瞬、夫の姿が重なった。

 だが違う。あの人はもう、ここにはいない。


 アウグスタは胸の奥で、淡々と否定した。


 鮮血が飛沫となって散った。

 振り下ろされた剣は、迷いも躊躇もなく、裏切り者の胸を割っていた。

 肉が裂け、骨が砕ける音が空気を震わせる。


 ——強い。

 だが、まだ届かない。


 心の奥に浮かんだ夫の姿を、アウグスタは即座に打ち消した。

 あれは英雄だった。

 この若き男は違う。ただ血に酔い、怒りに任せて剣を振るうだけ。


「奥方様ッ!」


 再び叫ぶ声が響く。

 その声に返す言葉はなかった。ただ胸の奥で記録のように刻まれる。


 ——違う。あなたではない。


 剣が閃き、また一人が倒れる。

 その背を見つめながら、彼女は心の底で淡々と否定した。


 三度目。


 剣戟が響き、鮮血が床を赤く染める。

 乱舞する影の中に、夫の姿が一瞬だけ蘇る。


 胸の奥が、かすかに震えた。

 抑え込んでいた声が、喉を掠めて漏れ出す。


「……違う」


 その小さな呟きは、誰にも届かない。

 だが、彼女自身には確かに届いていた。

 響かないはずの戦いに、ほんのわずかな温度が差したことを。


 四度目。

 

 怒声と鉄の衝撃が交錯する中で、若き武人の動きにわずかな揺らぎが見えた。

 彼女の否定が届いたかのように、剣筋が一瞬だけ鈍る。


 アウグスタは目を細め、淡々と再び否定した。


 ——いいえ。やはり、あなたは違う。


 それ以上、声には出さなかった。

 表情も変わらない。

 ただ、冷たい眼差しの奥で、確かな記録として刻みつけられた。


 踏み込んだ瞬間、最短距離で刃を滑らせる。胸を割るよりも早く、次の腕を払う。

 振り下ろされかけた刃ごと骨を断ち切り、相手は声を上げる前に崩れ落ちた。


 反転、勢いを殺さず脇腹を突き抜く。返す刃で背後の影を薙ぎ払う。

 斬撃の終わりには必ず一拍の余韻がある。その目はすでに次を探していた。


 一撃ごとに敵は倒れ、剣はすぐに次の線を描く。

 迷いがない分、動きは淡々としていて、逆に異様な迫力を放っていた。


 剣先が静かに下ろされた。残心を解くと同時に、彼は彼女の側へ膝をついた。

 その手が伸び、肩と腰を確かめるように支える。

 衣は乱れ、足には力が残っていなかった。自ら立つことはできない。


 躊躇はなかった。

 彼は剣を鞘に収めると、彼女の身体を抱え上げた。

 血と汗で濡れた甲冑が、頬に冷たく当たる。

 彼の腕は硬く、熱を帯び、そして震えていた。


 アウグスタはその力を拒まず、ただ受け入れた。

 抵抗する意味はなかった。

 自分の足では歩けず、彼が運ぶ以外に道はない。


 視界の端に、夫の亡骸が横たわっている。

 血に染まった衣、動かぬ手、閉じられた瞼。

 伸ばせば届く距離にあるはずなのに、腕は動かない。

 いや、動かすことを許されていない。


 胸の奥が、わずかに疼く。

 その温度を、彼女は自ら押し殺した。


 彼は背を向けた。死者ではなく、生者を抱えたまま。

 その選択に声を上げることはなかった。

 悲しみも、怒りも、感謝さえも。

 ただ事実として記録する。


 ——置いていく。

 ——生者を優先する。


 その選択を抱えたまま、武人は一歩を踏み出した。

 踏み込んだ床石の下から、異界の縁が裂けるように揺らぎを放つ。

 血と鉄の臭いを引き連れた現実が、徐々に別の色へと侵食されていく。


 彼の腕に抱かれたまま、アウグスタはその変容をただ見ていた。

 恐れも、抗いもない。ただ記録として、その瞬間を胸の奥に沈めていった。



 異界の縁を踏み越えた瞬間、空気の重さが変わった。

 圧し掛かっていた湿り気は消え、夜気が肺を満たす。

 アントニオはようやく足を止め、アウグスタをそっと石畳の上へと座らせた。


 彼女の顔は蒼白で、衣も乱れていた。だがその眼差しは揺らいでいない。

 己を支える強さを、なお保っていることにアントニオは胸を打たれた。


 剣の柄に手を置き、彼は振り返る。

 置いてきた主君の遺骸。あの人を、ここに残して良いはずがない。

 まだ戻れる、まだ間に合う。

 そう思った刹那だった。


 大地が低く唸り、足下の石に黒い線が走った。

 影がにじみ出し、音を濁し、空気そのものを蝕んでいく。

 侵蝕の兆候。異界の崩壊が始まっていた。


 アントニオの胸に迷いが渦巻く。

 振り返れば危険は避けられない。だが、背を向ければ永遠に失う。


 その逡巡を、彼女の眼差しが断ち切った。

 静かに、確かに。

 咎めも拒絶もなく、ただ「行くな」と告げる強さがそこにあった。


 時が止まったように思えた。

 剣を抜くか、踏み出すか、その決断の余地を奪う眼差し。


 そして、彼女は口を開いた。


 「——主命です」


 淡々と告げられた一言は、ただの命令ではなかった。

 それは主家に仕える者へ課された最後の縛り、逃れる術のない誓いだった。

 抑えた声でありながら、背負わせるにはあまりに重い響きを持っている。

 彼女は夫が務めとして行うべきことを、今この場で自らの口から告げる。


 アントニオは息を呑み、視線を落とした。

 すでに道は定められている。


「異界を消滅させなさい」


 一瞬、時が止まった。

 胸を焼く逡巡も、引き戻したい未練も、その言葉の前にかき消えた。

 そこに残ったのはただ一つ。

 ——二人で背負うべき呪い。

 ——騎士として殉ずるべき命令。


 異界は、静かに裂けた。

 闇は揺らぎ、ひと息のうちに崩れ落ちていく。

 アントニオは剣を収め、わずかに頭を垂れた。

 力みのない所作。儀礼のような静けさだけが漂う。


 その空気を、アウグスタは知っていた。

 かつて英雄と呼ばれた人が、戦いの後に纏っていた静謐さ。


 重なりが胸の奥に広がる。

 言葉はなかった。

 刃が収められると、ただ静けさが残った。

 血と鉄の匂いの中で、その背に纏う空気だけが際立っている。

 声はなく、言葉もなく、ただそこに在る姿。

 アウグスタは目を閉じ、その沈黙に夫の面影を重ねた。

 否定はしなかった。ただ、胸の奥に小さな熱を覚える。

 それは言葉にならず、やがて静かな余韻となって彼女を満たしていった。



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