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5話 潮風と遠き残照。


 意識が遠のいたというのに、視えるものがあった。

 抜けるような青い空の色と、絶え間なく奏でられる海の音。濃い潮風の匂いと身体を包む温度。


 ——ああ、これは(過去)か。


 船が港へ入ると、甲板は一気に活気づいた。縄を投げ合う声、樽の転がる音、潮風に混じる笑い声。

 王都で帳簿と規律に縛られ、職を失った若者たちが、まるで新たな希望を見つけたように声を張り上げる。

 夫の信頼する仲間たちがその中心で号令をかけ、移民団の如くトラーパニを目指す大所帯を束ねていた。


 王都では霊核の異常流通が噂され、中央調達庁が絡む経済の破綻で街が沈みゆく中、ここシシリアの風はそんな影を吹き飛ばしてくれるようだった。


「荷下ろしは慎重にな! 奥方様がお見えだ!」

「奥方様とは畏まりすぎだろ。まだお嬢さんの方が似合うぜ。子持ちでも変わらぬ美しさだ」

「ほう? 旦那様に聞かせたら、どんな顔するかな。きっと、睨みつつも内心じゃ嬉しがってるさ」


 笑い混じりの軽口に、アウグスタは唇に手を当て、くすりと笑った。仲間たちの声と、甲板を埋める若者たちのざわめきが、胸の奥を温かくする。

 夫が中心に立ち、領有貴族としての威厳を漂わせながら皆を率いる。その隣に自分がいる。

 夫がアウグスタの手を握り、耳元で囁いた。


「お前の笑顔があれば、王都の務めも、こうして皆を導く重さも耐えられる」


 その甘い言葉に、アウグスタは頰を赤らめ、夫の手をそっと握り返した。

 トラーパニの実家にオルトを預け、王都へ通う日々は心苦しい。

 だが、こうして夫と過ごす時間があれば、すべてが報われる。——この瞬間、未来は輝いて見えた。


 港を離れた一行は、街道沿いの宿に腰を落ち着けた。潮の匂いがまだ残る旅籠の部屋で、アウグスタは夫と向き合う。

 明かりを落とした室内には、蝋燭の火がゆらめき、窓の外から虫の声が忍び込んでいた。


「こうして、落ち着いて二人きりで過ごすのは……久しぶりね」

「そうだな。王都じゃ霊獣も異界も出ないが、帳簿と使者に追われるだけだ」


 夫はそう言いながら、アウグスタの肩を引き寄せる。広い胸板に頬を預けると、旅の疲れも嘘のように溶けていく。

 彼の鼓動が子守唄のように耳に響き、胸の奥に静かな安らぎを満たした。


「これからは違う。もう王都と行き来せずに済む。家族で、同じ屋根の下で暮らせるんだ」

「ええ……オルトも、お義姉様もあなたと一緒に過ごせるのを待ち焦がれているわ」

「姉貴の趣味には付き合いきれんのだが」


 言葉を交わすうち、視線が自然と絡み、熱が宿る。

 弟妹を、と願い続けた日々を思い出しながらも、いまはただ、このひとときが愛おしい。

 互いの存在を確かめるように、唇が触れ合った。


 ——明日のことも、遠い未来のことも忘れて。


 夜は穏やかに更けていった。


 翌朝。馬車が街道をゆるやかに進む。

 朝露に濡れた葡萄畑が光を反射し、遠くの丘の上に石造りの城壁が姿を現した。


「見えてきたな。エーリチェだ」

「アントニオ……あの子は、どんな顔で迎えてくれるのかしら」

「あの顔に似合わぬ暴れん坊の事だ。出迎えなんて気の利いた真似でなく、怪物共と舞踊を楽しんでいるだろうな」


 今日も異界攻略に出向いているのだろうが——それでも、無事に帰る姿を思い描いてしまう。

 胸が自然と高鳴る。夫と、息子と、そして旧き縁で結ばれた若き城主との再会。

 未来は、まぶしいほどに輝いていた。


 馬車が城門をくぐると、使用人たちが整列して迎え入れた。石畳に車輪の音が響き、懐かしいエーリチェの空気が肌を撫でる。


「久しぶりだな。アントニオはどうせ海に出ているのだろうが、変わりはないか?」

「はい、当主殿。若き城主は霊獣退治に精を出しておられます。不在ですが、城内は平穏です」

「相変わらずだな。流石は俺の弟分、キエッリーニの剣だ」


 馬車から降りた夫が威厳たっぷりに声をかければ、小気味よい返答が返る。

 仲間たちが荷を下ろし、若者たちは好奇心に目を輝かせる。アウグスタは夫の隣で、使用人から花束を受け取り、微笑んだ。

 かつては、言葉少なにただ真っすぐ見つめ返すばかりの子だった。笑うよりも黙ることを選ぶ。不器用で、それでいてどこか頼もしさを感じさせる、幼き武人のように。

 いまや、その少年が城を束ね、人を迎える主となっている。留守なのは残念だけど、きっと無事に帰ってくるわ。


 一行は来賓室に案内され、軽い食事が振る舞われた。葡萄酒の香りが部屋に広がり、仲間たちの笑い声が再び弾む。夫が皆に杯を掲げる。


「トラーパニへの道はまだ続くが、今夜はゆっくり休もう。明日は早いぞ」


 素朴な歓迎に包まれて、歌と笑いの中で夜は更けてゆく。


 杯を置いた夫が、ゆるやかに笑った。


「明日も早いし、そろそろ休もう」


 部屋の灯りが揺れ、仲間たちが名残惜しげに席を立つ。

 その時だった。

 扉が荒々しく叩かれ、緊迫した声が響く。


「当主様、急報にございます!」


 空気が一変する。赤らんでいた頬が、すっと冷えた。固まった誰かも俯いている。

 その報せが、この夜を最後の幸福なひとときに変えることを、まだ誰も知らない。

 ——各地で同時に始まっていた惨劇のただ中へ、自分たちも巻き込まれていくとは思いもせずに。


「トラーパニ近海で侵蝕が発生しました。ご両親殿が向かわれましたが、消息は不明とのこと」


 ざわり、と場が揺れた。杯を握る手が止まり、若者のひとりが思わず口を覆う。

 家臣は震える声で続ける。


「他領でも同時に兆候が。領主失踪の報せが次々と……中央調達庁の影を囁く声も」


 家臣の声が震え、部屋の空気が凍りつく。アウグスタは夫の手を強く握った。

 仲間たちの笑顔が消え、若者たちの一人が杯を握り潰し、別の者が扉へ素早く歩く。その動きが、まるで合図を待っていたかのようだった。

 夫が立ち上がり、冷静に問う。


「どの程度の侵蝕だ? 詳しく話せ」

「小規模異界が複数! トラーパニだけでなく、各地でも侵蝕開始が報告されています!」


 侵蝕への対処は貴族の義務、夫の眼が鋭くなった。


「そうか……どうするかは、お前たちに任せる。ただ、残る者がいるならば、妻を頼んだ」


 だが、返事はない。仲間たちの沈黙が、海の底のように重い。若者たちの一人が目配せし、微かに笑う。

 アウグスタの胸に冷たい予感が走った。——アントニオがここにいてくれたら、こんな不安はなかったのに。


 その静けさの中に、乾いた音が響いた。来賓室の床の上へと転がったのは、輝く霊核。瞬間、突き飛ばされるアウグスタ。空気が揺らぐ。


 輝く霊核が床を転がり、瞬く間に光は一点へと収束した。

 刹那、胸を押し潰すほどの衝撃。

 空気が逆巻き、床石が裂け、木片や灰が四散する。

 影だけを焼きつけられて消えた者もいた。

 焦げた匂いが鼻を刺し、誰かの悲鳴は途切れたまま戻らない。


 ——だがその惨劇すら、すぐに呑み込まれた。


 音が遠のき、匂いも消える。

 痛みさえ、世界から切り離されたように希薄になっていく。

 輪郭は揺らぎ、蝋燭の炎が色を失い、部屋そのものが塗り潰されていった。

 現実は一枚の薄紙のように剝ぎ取られ、別の理がその上に重なる。


 静謐。

 ただ、自分の鼓動だけが耳に残る。


 ——ここは、異界だ。


 夫の胸に広がる黒い痣は、刻一刻と広がりを増していた。それでも彼は笑んだ。血に濡れた唇をわずかに吊り上げて。


「無事か、アウグスタ」


 その声は、砕けた肺から絞り出すにはあまりにも穏やかで、彼女の胸を締めつける。


 だがその直後、幾本もの刃が一斉に突き立った。肩、背、腹。骨を擦る感触が伝わってくるほどの至近で。血が噴き、衣が裂け、英雄の肉体は杭のように打ち込まれた鉄に貫かれていく。


 呻きひとつせず、彼はただ立っていた。


「奥方は……無事だ。お前が死ぬまではな」


 震える声で吐き捨てる裏切り者達。刃を押し込みながらも、瞳の底は怯えに濁っている。


「俺たちも……赤き獅子に逆らえば、一族ごと潰される……」

「やめろ、口にするな!」

「だが事実だろう! 霊核の流通を操るあいつらの報復は、異界より怖い。行方不明の領主たちも、その犠牲だ」

「黙れと言ってるんだ!」


 叱責が飛ぶが、その声の端にも怯えが滲んでいた。言い訳とも呪詛ともつかぬ声が重なる。だが夫は、ただアウグスタを見つめていた。


「しぶてぇ野郎だ。まっ、こうなりゃ、木偶だがな」


 誰かが吐き捨てる。アウグスタの腕を荒々しく捻り上げる感触が走り、冷たい刃が喉元に添えられた。


 夫は、刃を振るうことなく動きを止める。その強さを知り尽くしているからこそ、裏切り者たちは「口約束」を迫ったのだ。


「俺たちの言う通りにしていれば、奥方は無事だ。お前が死ぬまではな」


 嘲るような声が、血に濡れた床を這った。


 英雄は頷き、ただ妻を見た。痛みに滲む視線の奥で、まだ護ろうとする光が宿っている。


「……死なせねぇ」


 その一言が、最後の誓いになった。しかし誓いは、無残に踏みにじられる。


「もう我慢できねぇ」

「どうせ死ぬんだ、今のうちに楽しませろ」


 獣欲に濁った声が重なる。手が伸びた。荒い息が近づく。


 アウグスタは抵抗する気力を失っていた。麻痺した心は、夫の崩れ落ちる音だけを確かに聞き取る。

 床に、重いものが沈んだ。


 ——鼓動が、途絶えた。


 喪失は涙をも奪った。悲鳴も出ない。ただ胸の奥が冷え、色が抜けていく。

 愛を、英雄を、この瞬間に喪ったのだと知りながら。


 世界は闇に沈んでゆく。


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