33話 守護者。
お読み頂き、ありがとうございます。
陽光に照らされた、果てしない紺碧。
大波小波が揺れ、形を崩しながら瑠璃色に輝いた。
白い飛沫が散り、吹き荒ぶ熱い風に流されてく。
広大なる海。
最も古い異界の一つにして、幾層もの異界の連なる「大異界・海」。
沖合では潮が引いてゆき、窪んだ海面が渦を巻く。
轟音と共に、巨大な水柱が上がった。
なお深く、抉れてゆく海。
その底から、重々しい音を立てながら、黒い影が持ち上がる。
太陽を遮るほどに高く、鎌首をもたげる巨体。
海水に濡れ、ヌラヌラと輝く黒曜の鱗。
一枚一枚が小舟程もある鋭利な刃は、密に逆立つ。
突き出た顎を開けば、巨大な牙が並んでいる。
吐息が海水を蒸発させ、蒸気が白く立ち昇った。
グツグツと煮える海面に現れたのは、陸棲生物の理を嘲笑う様な、爬虫類とも魚類ともつかぬ形状。
——「大禍」。
怪物達の顕現を、人々は古くからそう呼んだ。
大いなる異界の残滓が、現実へと溢れ出す現象。
陽光に煌めく海に、産声にも似た咆哮が、響き渡った。
体躯を揺すればその質量で、津波が起こる。
怪物は一点を見つめていた。
それはとても、小さなものだった。
無機質な金色の瞳の中に、銀光の煌めきが映る。
その瞬間、長い首がズレた。
「次」
涼しげな顔で、銀光を携えた男が一言。
そして、巨大な頭は落ちてゆく。
噴き出るは、大量の体液。
雨の如く降り注ぐそれを浴びる事なく、男は駆け出した。
次の獲物を求めて。
ときに牙を剥き、ときに恵みを齎す人類種未踏の大海原を。
その瞳は、既に見据えていた。
一角を持つクジラの、その切先が迫る。
クジラの感覚器官を兼ねるそれは、硬く鋭利な槍。
無造作に真正面から突けば、使い古した筆が折れるのにも似た、軽い抵抗。
「次」
振動による感知機能を失ったクジラは暴れ回るも、既に只の肉塊に過ぎない。
沸騰をしたままの海に、無数の目が浮かんだ。
囲まれている。回転し、獲物を喰らう巨大な海ワニの群れに。
獰猛な海棲爬虫類による死の回転が、四方八方から襲う。
「次」
何の問題にもならない。
同時に百二十四の斬撃を放つのは、騎士として最低限の嗜みだ。
四や八では、足止めにもならない。
海を、駆ける。
次々と、獲物を屠る。
軟体に硬い吸盤を持つ巨大なイカも、大型の人喰いサメや、嵐と一体化したサメさえも。
「……」
サメの群れを巻き上げる竜巻を両断する前に、僅かな間があったが。
出鱈目を、非常識をも、斬って捨て。
霊獣達を切り裂き、貫きながら、男は縦横無尽に海原を駆けてゆく。
「団長ー! ちょっと張り切り過ぎですって!」
同じく海を駆けるのは、男達。
彼等もまた騎士であり、大異界からの脅威を防ぐ、盾である。
だが、今日の彼等は「狩り」をしないでいた。
一人の騎士が、最初に首を落とされた怪物の頭、瞬膜に覆われる前の、柔らかな眼球に鉤爪を射掛ける。
「流石は黒鱗魚蜥蜴! 頭だけで、この重さっ! 大漁が、期待出来んぜ!」
その頭だけでも、埠頭に建つ、物見の番小屋の大きさに匹敵する。だが詰まった質量は、桁違いだった。
「こりゃ腹ん中も、きっと獲れたてのマグロでいっぱいだぜ!」
他の幾名かの騎士達も、次々と首なしの胴へと縄を掛けてゆく。海へ、沈ませぬように。
黒鱗魚蜥蜴は肉、骨、鱗に至るまで、全てが有用な素材となる。
中でも胃袋には、顕現と共に飲み込んだマグロが回遊する事から、豊漁にも期待が持てた。
「今日はマグロ尽くしになるぜー!」
この大物は、そう頻繁に大禍として顕現する事はない。中型である大海蛇を超える、大型として分類される霊獣だからだ。
現界へと顕現する個体は、異界内部の生存競争に敗れた弱き者。必然、大物である程、収穫の機会は減った。
黒鱗魚蜥蜴は、彼等騎士達にとっても生命や犠牲を覚悟して挑む難敵だ。それだけに、喜びも大きい。
「団長がいると楽だけど、悔しいよな」
「俺らも、もうちっと腕を磨かねーとな」
まだ比較的若い騎士達が言い合う。
彼等は二人して、暴れる一角鯨に投網を投げ掛け、陸へと向かい走っていた。
この商船ほどの大きさをした海棲哺乳類。
角や骨自体も建材などに用いられるが、肉や油の市場価値も高かった。クジラの使い道もまた、数多い。
「さっさと戻って、手伝いに戻ろうぜ」
「だな。良い鍛錬になるし」
大昔には、一頭獲れば七浦潤うと呼ばれたのが、海神の眷属とされる、鯨の霊獣たちである。
今はそれ程の価値ではないが、充分な収穫だった。
残念ながらこの個体は角こそ砕けてしまっているが、生きながらにして解体すれば、一滴の油さえも無駄にはならない。
一方で、他の騎士達も次々と貴重な「資源」を回収してゆく。
大量の回天鰐は、素材としての価値はそれほどでもないが、群れで現れる。放置をすれば航路の脅威となる「害獣」となった。
クラーケン族の亜種である軟体魔も似た様なものとなる。
その尽くを、彼等の主人が作業的に斬り捨てて行くからには、騎士団は只の回収業者となるしかなかった。
「サメは、いらねーな」
「鮫皮や肝油はいい金になるが、今日はもう満載だ。あんま持ち帰って値崩れさせたら、絞られるしな」
「手間も掛かるしよ。海の肥やしになりゃ御の字だ」
サメに関しては、彼等も放置する。
人喰いとはいえ、普通に海で棲息する生き物だ。
彼等の使命は航路の安全の維持であり、漁ではないのであった。
また、こちらは霊獣であるが、竜巻と一体化した、嵐を纏うサメの群れに関しても、彼等は無視した。
騎士達にも、目を背けたいモノはある。
竜巻が巻き上げて、内陸へサメを降らすなんていう出鱈目は、こんな世界においても、直視するには憚られる喜劇であった。一部は、熱狂的に楽しむが。
サメたちを舞上げた竜巻を斬り捨てた騎士団長は、降り注ぐサメたちへ一瞥を加える事もなく、剣を収めた。
ドボン、ドボンと海へ還ってゆくサメ達。
飛び散る飛沫のその隙間から、獲物を回収してゆく我が騎士達の姿が見える。
出鱈目な怪物、理不尽な天災。
そんなものは、剣で両断すれば済む話であった。
咆哮に耳を貸す必要も、その目に宿る悪意を汲み取る必要もない。
——やはり、ここは良い。
言葉が通じない相手を、言葉を使わずに片付ける。
その単純明快さが、今の彼には何よりの救いであった。
「戻るぞ」
短く命じ、男は反転する。
港へと向かい、海面を駆けて行く。
無駄なく働く部下達に満足し、その口許に笑みを浮かべながら。
今日の彼を待つのは、窮屈で面倒な夜会ではない。
戦勝を祝う、真の意味での宴であった。
バチバチと音を立てる篝火には、分厚く広い鉄板が置かれている。
熱の伝わりきった鉄板に、逞しい腕が固形化した鯨の脂身を塗りたくる。たちまちに立ち昇る、独特の癖のある臭い。
そこへ、すかさずとも言うように、赤く、分厚い肉塊が乗せられる。
ジュワリと音が鳴る。おもいきり振り掛けられた香辛料の刺激が、強く香った。
湧き上がる、男達の歓声。
「各国から集められた素材を、トラーパニの塩田で採れた塩と塗した香辛料、龍の魔法薬よ!」
「あの、高いヤツかっ!」
「応よ、ミリオッツイの嬢ちゃんが、しこたま置いてってくれたぜ!」
浜辺にて、集うのは男達。仕事を終えて一時の補給を楽しむ、騎士達であった。
強い酒の香りと鯨肉の濃厚な獣臭と混じり合い、食欲を誘う匂いを醸していた。まだ、日は高い。
空腹を刺激し、酒を進める肴は、それだけではなかった。
鉄板に乗せられ焼かれる、貝類や海老、蛸、烏賊などの海の幸達。龍の魔法薬だけでなく、魚醤やバターなどの調味料が使われていた。
「はいよっ! 香草蒸しだ! お待たせっ!」
「ドルチェもあるからねっ! 腹ペコ共!」
女達による威勢の良い掛け声と共に、鉄板へと乗せられたのは、土鍋やドルチェなどの皿々。
他にも幾つかの料理が、断熱性能の高い、黒鱗魚蜥蜴の肉で遮られた鉄板の一部へと乗ってゆく。
「うおっ、こいつも美味ぇぜ」
「こらっ! 手掴みなんざ、お行儀が悪いよ!」
そこでは早速摘み食いに走る若い騎士と、それを嗜める女——彼女もまた騎士だ。そんな光景が繰り広げられている。
「世話をかける。ありがとう」
「そんな、世話なんて、とんでもありません!」
穏やかな微笑を浮かべるエーリチェ騎士団長の言葉へ、快活に応える女騎士達。
彼女達が運んできたのは、男達の素朴な料理とは一味違うものだった。
土鍋から立ち昇る爽やかな香草の蒸気。男の手には余るその繊細な味付けは、騎士団に所属する数少ない女騎士たちの領分だ。
シシリアの男は、獲物を殺し、火に焼くことくらいしか知らぬが故に。
「ほらほら、団長もお飲みよ! 一番の戦働きなんだから!」
「かんぱーい!」
潮風に、陽光や香草に食材、そして女達の匂いが混じり合う。余計なモノのない、自然な香り。
女騎士達も宴へと混じってゆく。彼女達に色気はなく、活発な生の躍動があった。
「お嬢様も早く誓いの儀を終えて、帰ってくれば良いのにね」
「学園でも優秀なんですって。帰って来たら、騎士の技を仕込んであげようね」
女騎士達が笑い合う。そんな姿を横目に、男は杯を傾ける。
英雄の一人娘は、十二歳で迎える一度目の成人——世界へ向け、自らの立ち位置を示す「誓いの儀」の為、彼の甥に当たるキエッリーニ次期当主の屋敷で、年明けから過ごしている。
娘が六つまでは過ごしていた、かつて知ったる屋敷だが、それから五年も経っている。
自分に似て口下手で、亡き母に似て、あまり丈夫でない、利発だが、可愛いだけの愛娘。
父としては、やはり心配だった。
「あれ? お嬢って、若様の騎士になるんじゃねーか? 若様って、もしか盆暗なんか?」
「安心おし。冒険者の仕事で会ったんだけどさ。小熊の坊ちゃんは、良い男に、良い主人になるよ」
部下達が和気藹々と語り合っていると、ゴリっとした音が立った。
掌の冷たさと、濡れた感触に男は手元を見やる。
酒盃が潰れ、酒が零れ落ちていた。
「ゲェッ! 団長、勘弁してくだせーよ。そのグラス、魔銀製の高いヤツなんすから」
「力加減を、間違えないでくださいよ」
どうやら杯を、握り潰していたらしい。
剣と同じ素材であるので、高価なのはわかっていた。普段は丁寧に扱っているのだが、つい、手に力が籠ったらしかった。
慌てる者、呆れる者。笑う者、怒る者。
それぞれがいる。
だが、仕方がなかった。父の脳裏には、あの夜の光景が思い出されている。
獣の如き男に組み伏せられ、服を破り裂かれた、まだ十二にもなっていない娘を。
苦悶に喘ぎながらも弱気を見せず、声を押し殺す小さなあの子。
血が凍り、沸騰した様だった。思わず状況を省みず、剣に手を掛けかけた程に。
「そそっかしい大将だねぇ」
「ま、いいじゃねーか。おかわりだ、おかわり。酒持ってこーい!」
気の利く部下達の言う通り、少々迂闊であったのだろう。
すぐに誤解——というよりも、応急処置の為だと気付いたが、それでも怒りが勝った。
かつて弟子だった者へ殺意が芽生えたのも、あの時が初めてだろう。
未熟者め。と、どちらとも付かずに、父であり師でもある男は内心で吐き捨てた。
真っ直ぐに、情深く育ってくれた娘が、跡を継ぎたいと願ってくれているのを知っている。
されど、一代貴族は実力により認められた。
それは、平穏とは程遠い日々である。
潮風が、強く頬を打った。
「団長、マグロはどうします?」
そんな、即断も即決も出来ないでいる彼へ、マグロを担いだ騎士が、声を掛けた。
——そういえば、アイツらもマグロは好物だったか。
まだ生きている。
ビチビチと跳ねる、銀色の巨体。
「腹は?」
「まだまだ、入りますぜ」
「……俺がやる」
剣を抜く。
一閃。
武器が、文明の利器へと変わる。
正確な手つき、無駄のない動き。
納刀。
瞬き一つの間には、捌き終えていた。
喝采の拍手が鳴り響く。
それぞれが手頃な大きさに切られた刺身を小皿に取ってゆく中、彼もまたその幾つかへ「収納」の術式を施した。
「団長、明朝の出発部隊は予定通りとなります」
肴を摘み、酒を呑んでいると、副官の一人から名簿を渡される。それは予定通りの人員であった。
「不景気な顔してないで下さいよ。この最近始められた、定例帰参演習。若い奴らだって、楽しみにしているんですから」
そう。此度の騎士団によるトラーパニへの帰参は、定例化される予定であった。
あの街の大きくなり過ぎた経済に、見合わぬ武力。それへの埋め合わせをする政策であった。
「勉強にも訓練にもなりますし、アイツらだって命を賭けてます。息抜きに、華やかな場に出られるのは、生命の選択ですよ」
——夜会やらの催しは、あのお方の余計なお節介であるのだが……。
「お嬢だって待ってますよ。それに、あの方だって、ずっと……」
流暢に話していた副官の言葉が止まった。
「……なんだ? もう囀らんのか?」
大きく息が吐かれる。両手まで上げていた。
「あのですねぇ……。普通は天国なんですから、そんな死地に挑む様な顔、しないで下さいよ」
あまり機微に聡い訳でない、男にもわかった。
呆れられているのだと。
ならば、取り繕うくらいはせねばならない。今の娘と同い年の頃から、あの女性にも言われている。
「……我が騎士達の誇りに、乾杯」
「……はぁ。我等の主人が剣を捧げる方へ、乾杯」
部下の言葉を聞き流し、肴を摘み、杯を干す。
男は、父は、騎士は。
紅き夕陽が遠く沈み始めたトラーパニを、眩げに眺めていた。
その名はアントニオ・マリオ=ペントラ・エーリチェ一代男爵。
海城と航路を守護するトラーパニ領主の騎士であり、キエッリーニ当主代行の剣である。




