31話 暴動。
壮年→青年へ、絵面のためです。
港町の風は、ざらついていた。
潮の匂いと、人の熱。不信と怒りが混じり合う、息苦しい気配。石畳へ立つだけで、それらが肌へと貼り付いてくる。
倉庫街と市場を隔てる広場には、あまりにも多くの人々が集っていた。
数百。いや、既に千を超えているだろうか。
叫び声と怒号が重なり合い、言葉は輪郭を失っている。それでも、意味だけは、はっきりと伝わってきていた。
「奪われた!」
「返せ!」
「俺達の正当な利益だ!」
掲げられた拳。
振り回される帳簿と契約書の束。
誰もが、自分の正しさだけを手放さない。
フィオナは群衆の前に立っている。たった一人で。
「皆さん、落ち着いて下さい! このような無届けでの蜂起は、例え正当な訴えであっても『暴動』として処理されてしまいます。それでは、皆さんの主張が届く前に、騎士団の剣が喉元に届くことになります!」
彼女の言葉に、動揺が広がる群衆。それを抑えるかの様に、青年が一人、進み出た。
「落ち着け」
声は渋く、低い。商人風の風体だが、身体は逞しく、目付きも鋭かった。
その一声で、波が引くかの様に、動揺が収まる。
不気味な熱気が再び、港に満ちていた。
「貴方が、この集まりの代表者かしら? 馬鹿な真似は止して、解散しなさい。利害を考えれば、わかる筈よ」
淑女の礼を一つして、フィオナは告げる。
「これは、これは。ミリオッツイ商会の、お嬢様ではありませんか。私共は、此度の権力による不当な弾圧を、憂慮しているだけですよ。放棄とは、いささか言葉が過ぎませんかな」
「知らない顔ね。よく、私が『そう』だとわかったわね」
フィオナの言葉に、男の口角が僅かに上がった。
それは、獲物を追い詰めた猛禽が漏らす愉悦の形。
「この街で商いをする者なら、太陽の如きミリオッツイの名を知らぬ者などおりませんよ。……私共が訴えているのは、自由な商取引の権利です。一握りの特権階級が『法』という名の鎖で、我ら小市民の希望を縛り付ける。これこそが真の悪徳ではないでしょうか」
群衆達から、同調の声が上がった。
見えるのは、知らぬ顔に、知った顔。
トラーパニへ根を張る大商人、ミリオッツイの後継として、フィオナは人の顔を忘れない。
その中にはこの港でなく、王都に巣食う者達があった。だが、それを指摘した所で、意味はない。
「だからと言って、この様な暴動染みた真似っ!」
誰もが、男に同調するでない。不安そうな者もいる。だが、それが何なのか。彼等、彼女達もまた、男を救い主かの様に見ていた。
「それに、アタクシ達は被害者でしてよ?」
甘ったるい声。群衆の中から抜け出でて、男へしなだれ掛かる女がいた。豊満な肢体に派手な化粧。そして、左手の手袋。
これまたド派手な扇子を掲げて流し目を送るのは、つい先日夜会でも見掛けた、好色婦人であった。
「ええ、そうですとも」
代表者の男が、女の肩を軽く叩く。
「我々は、正当な投資を行っただけ。それを一方的に『違法』だと決めつけられ、財産を奪われた。これは不当な弾圧です」
「投資……?」
フィオナの声が、低くなる。
「人を、食い物にする商売が?」
「お嬢様、言葉が過ぎますよ」
男は、肩を竦める。
「我々は、誰一人として強制していない。契約は、すべて当事者同士の合意の上です。法もまた、それを是としています」
それに――。と、天を仰ぐにも似た仕草を見せた。
「失敗の責任まで、社会が背負う義務はない」
「……法は、人を守る為にあるものです」
フィオナは、はっきりと告げる。
「弱い立場の者が、知識と資本を持つ者に踏みにじられぬ様に。その為にこそ、法はある」
その言葉が理想論である事を、フィオナ自身も知っていた。それでも、そう信じなければ、何も守れなくなる。
「ならば、なぜ我々は救われない?」
男の声は、静かだった。
「我らは、貧しさから抜け出そうとしただけだ。誰かを踏みにじる為ではない。だが、その結果として、罪人の烙印を押され、財産を奪われる。……それが、正義ですか?」
フィオナは、即答できなかった。
「賢いお嬢様なら、わかって、くれるわね?」
偽りの慈愛にみちた、好色婦人の言葉。
フィオナは、群衆を見渡した。
その中には、確かに「被害者」もいた。
希望を語られ、未来を信じて金を出した者たち。
だが、同時に――。
次の誰かを勧誘しなければ、元が取れない。
だから、隣人を、友人を、家族を、誘う。
被害者が、加害者になる。
「……あなた方の『合意』で、何人が破産したの?」
「それは――」
答えは、聴くまでもない事だった。
「私の商会の者が、一人、行方不明です」
フィオナの声は、震えていた。
「借金を抱えて。家族も、友人も、みんな騙して。最後には、誰にも顔向けできなくなって」
空気が、変わる。
「それが、何だってんだ!」
群衆の奥から、怒声が飛んだ。
「俺だって必死なんだよ! 元を取らなきゃ、家族を養えねぇ!」
「そうだ!」
「苦労知らずの嬢ちゃんに、何が分かる!」
ざわめきが、大きくなる。
代表の男が、手を上げた。
「皆、落ち着け。暴力は、いかんぞ」
だが、もう遅い。
数が、勇気を与えていた。
正義が、免罪符を与えていた。
「どけよ、嬢ちゃん!」
「当主を出せ!」
「喪服の女に、直接言ってやる!」
群衆が、じりじりと前に出る。
誰かが、小石を拾った。それが、開幕だった。
「待ちなさい!」
フィオナの声は、届かない。
次々と、石が宙を舞う。
彼女は動けない。恐怖ではなかった。
ただ、信じられないでいる。人の心は、こんなにも簡単に。
そう思った時、目に映るのは石だった。
視界のそれは、どんどん大きくなっていく。
ああ、これは——。
避けられる筈なのに、見えている筈なのに。
思わず、瞳を閉じてしまった。
弾ける音。
だが、痛みはない。
恐る恐る、瞳を開けば、そこに。
大きな、背中。
掌を広げて、「悪意」を受け止める、男がいた。
「何ビビってんだよ。お前なら、余裕だろ?」
「アンタと違って、繊細なのよ。女の子って」
「はぁ? 女の子? んな、タマかよ、お前が」
背中を見せた、オルトがいる。
いつもの軽口、いつもの温度。
考えなしのお調子者で、その癖、しっかりと男の子なままの、幼馴染。
笑みを湛えるかつての少年は、受け止めた石を、静かに握り締める。
一瞬の、破砕音。
止めたのは、小石一つなんかじゃない。
宙を舞い、飛び交うソレらを、受け止める。
彼が受け止めた、それは——。
「あっぶねーな。無事だろ? フィオナ。母ちゃんを頼むぜ」
口にするまでも、ない事だ。
彼が親指を立て、指し示した先に佇むは、闇よりも静かな、喪服の淑女。
私達の「お母さん」。
トラーパニ領主代行の、嫋やかな微笑みだった。
アウグスタが群衆を一瞥する。
そして、静かに唇を開いた。
「オルト」
一言。
それだけで、充分だった。
誰かが、ゴクリと喉を鳴らす。
一歩だけ、滑る様にして踏み込むオルト。
小石を振りかぶっていた、男の身体が沈んだ。
次の瞬間、その背中は石畳へと叩きつけられる。カハッと、吐き出された呼気。
悲鳴があがるよりも先に、別の影が崩れ落ちた。
オルトは、ただ歩く。柳の様に、ソヨソヨと。
距離の詰まった荒くれ者が、拳を振るう。
腕を取る。捻った。
宙へ浮く、身体。
ドシンという、重い音が響いた。
掴み掛かろうとした者が、足を滑らせ転んだ。
足元が、払われている。
それとは別に、乾いた関節の外れる音が鳴る。
一人、また一人と、石畳へ転がってゆく。
速くはない。洗練された武芸とは程遠い。
だが、それでも。
「ひっ」
「なんだ、コイツ……」
凪の様に静かに、波の様に確かに。
侵略していく。海が割れるかの様に、千を超える人波が静かに崩されていく。
倒れた人々も、立ち上がらない。立ち上がれない。
血は流れず、肉体も壊れていない。
大した負傷もしていないのに、どこか呆然として、オルトを見ている。
その時、僅かに状況が変わる。
背後の一人が、白刃を抜いた。陽に輝く、狂気。
それは真っ直ぐに、静かな巨漢の背中を狙う。
明らかに、手慣れた動きであった。
だが、振り返った青年はその手首を取ると、慣性に逆らわず、受け流す様にして、その肩を抜く。
短い悲鳴。
落ちた刃が、甲高く鳴った。
オルトは、立ち止まる。息一つ、乱れていない。
「ちっと、お痛が過ぎんぜ。抜かせんなよ、俺に」
誰も、殴られていない。
誰も、血を流していない。
格好でも付けているのか、自信満々の顔付きで笑うオルト。
誰も、動かない。動けない。
千を数えた群衆は、たった一人の青年に気圧されていた。
フィオナは、我に返った。
自身に強化を施し、奥方様の元へと走る。
背中の心配はなかった。
群衆は既に、オルトという存在に飲まれている。
投石も、進行も、止まっていた。
静寂。
あれほど肌を焼き、鼓膜を叩いていた千人を超える怒号が、嘘のように消えている。
石畳に転がる男たちの呻き声すら、この静寂を深める調べに過ぎない。
一つ歳上の、バカな弟分がまるで、知らない男の子みたいだった。
そんな彼を視線で追ってしまうフィオナの隣から、クスリと微笑が漏れる。
アウグスタの、ものだった。
「フィオナ。少し、焦り過ぎたわね? ……そういう若さって、嫌いじゃないけれど」
「ちょっと、冷静さを欠いていましたね。せめて、騎士の一人でも連れて来ていれば、と」
場は、凪いでいる。一つの暴を前にした、千を超える群衆は、退くも進むも叶わずに、停滞していた。
たったの三人を、前にして。
「そんな真似をしていたら、収集が付かなくなっていたわね。今はまだアントニオが、なんとか抑えてくれているのですし」
優しい軽口に、自嘲気味に応えたフィオナ。
そこへ、呆れを含んだ声を漏らしたのもまた、アウグスタだった。
騎士は「剣」などとも呼ばれるが、実際は違う。
フィオナは、ハッとした。
もし、騎士を連れてきていたら——。
「彼らの『正義』は、主君を守ることだから。石一つ飛んできただけで、暴発しかねないもの」
そうなれば、止められない。
「連れて来ないで、よかったわ……」
彼らの『正義』が、同胞を、共に生きるトラーパニの民達を『敵』だと決めた瞬間、終わる。
問答無用で、殲滅するだろう。
主君へのみ忠義を捧げる存在が、「騎士」だった。
思わず、背筋が震える。
「じゃ、アントニオ様も、気が気でないのでは?」
「なんでよ?」
不思議そうに首を傾げたアウグスタへ、フィオナは溜息を吐く。
賢いフィオナには、わかってしまうのだ。
エーリチェの騎士達が忠義を捧げるのは、アントニオ・マリオ=ペントラ卿。
四代も続く、美貌の一代男爵様だった。
そんな英雄が忠義を捧げるのは、一人の未亡人。
どこか疲れた様子の奥方様へ、フィオナは肩を竦める。無力が暴力を御する大変さが偲ばれた。
「だから、オルトを?」
「そう。あの子は、まだ騎士ではありませんからね。それに、ゆくゆくはトラーパニ子爵という貴人として、街を背負って貰わねば、なりませんし」
バカ笑いをしながら、何故か筋肉を見せつける弟分が、子爵ねぇ……。
と、なんともやりきれない気持ちになりかけたフィオナであるが、悠長にしてはいられない。
あの、代表を名乗った男は微笑を崩さず、再び前へと出ていた。それも、オルトの目の前に。
「これは、これは。領主『代行』のご婦人。ご機嫌麗しゅう」
今更ながらもこの男、胆力も、統率力も大したものだ。何名かの男達が群衆へ「待て」を掛けている。
当然だ。彼等は、被害者であり続けなければならない。冷静になって見れば、その意図は明白だった。
「ご機嫌よう。落ち着かれたようで、何よりですわ」
アウグスタが静かに応じる。
暴力を振るわない。
奇しくも、どちらの思惑も一致していた。
石畳を叩くオルトの拳も、熱を孕んだ石も、もう飛ばない。
ここから先は、血の一滴も流れない、けれど肉を断つより残酷な「言葉の戦場」だ。
闘うべく「敵」を前にして、隣に立つ奥方様の微笑が、より深く、鋭いものへと変わってゆく。
代表者の男が、一礼をする。
「単刀直入に申し上げます。我々の財産を、返していただきたい」
「お断りいたします」
奥方様の声は、凪いだ海のように穏やかだった。
「あれは、収益構造に欠陥がありますわね? それに未認可の博打は、ご禁制でございますわよ。従って、返還の義務はございません」
「法は、我々を罰していない」
「ええ。ですから、これからの法案を練る為の、大切な資料ですの」
男の顔が、僅かに歪む。
「……では、没収ですかな?」
「適切な処理を、お約束しましょう」
「それでは、我々は納得できない」
アウグスタは、微笑んだ。
「ですが、それが法です」
男が、舌打ちをする。
だが、すぐに笑みを取り戻した。
「……わかりました。今日のところは、引きましょう」
群衆に手を向ける。
「皆、今日は帰ろう。我々の訴えは、必ず届く」
その目が、フィオナとアウグスタを見た。
「王都にも、報告させていただきます。この不当な扱いを」
アウグスタは、何も言わなかった。ただ、微笑んだまま。
群衆が、ゆっくりと散っていく。
怒号も、熱気も、嘘のように消えた。
広場に、静けさが戻る。フィオナは、息を吐いた。
終わった——と思いかけて、隣を見る。
アウグスタは、まだ微笑んでいた。
でも、その目は笑っていない。
「……これで、終わりですか?」
「いいえ」
静かな声だった。
「これから、よ」
その声は、広場を去っていった人々への対処よりも、もっと遠くへものに聴こえた。
フィオナは、予感している。
代表者の最後の言葉、「王都への報告」。
それが、何を意味するのか。
「僭主」、「暴君」、「独裁者」。
キエッリーニの当主代行を呼ぶ際の、悪名たち。
トラーパニの「母」たらんとあり続けた女性は、政敵達からは、謂れなき汚名を浴び続けてきた。
それこそが、王国財務省に巣食う過激派達。
領有貴族を廃し、中央集権化を望む強硬派。
読まねばならない。
赤い獅子の、次の手を。
フィオナは、学んだ。
焦ってはいけない。でも、油断してはならない。
彼女の本当の戦いは、これからだった。




