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30話 取り戻されない日常。


 帰って来た屋敷は、賑やかな喧騒に彩られている。

 迎えに出た侍女の一人からの報告に寄れば、大過なく夜会は続いているらしい。

 そちらに関しては婆やとフィオナが仕切っているので、心配をしていないが。


「お部屋を、整えてあります」

「ありがとう。……心配はいらないわ」


 不安を隠しきれない視線。釣られるように、腕の中のルカを見る。

 その身体は熱く、呼吸も浅いままだった。

 リナが治療を施している。予断の許されぬ状況であるが、今、打てる手はなかった。


「この子の強さを、信じてあげておやりなさい」


 どれだけ便利な世の中となっても、奇跡や魔法なんていう都合の良いものなんて、ない。

 だから結局は、祈るしかなかった。


「……俺は、どうしようもないケダモノなんだ……」


 呟きが聴こえる。大きな身体で項垂れて、ずっと繰り返しているオルトのものだった。

 誰も、そんな息子へは声を掛けない。怖いというよりも、関わりになりたくないからだった。


「リナ、ルカを任せましたよ」

「お任せください」


 落ち着きを取り戻した彼女は、力強く頷いた。

 オルトもリナも、信じているからだ。

 ルカは、負けないと。

 言葉にしなくとも、アウグスタも同じであった。




 穏やかな寝息が、朝焼けの中へと吸い込まれてゆく。胸に抱いたままの、二人の「娘」の安らかな吐息だった。


 傷からの痙攣と高熱。破傷風に似た症状を見せていた「姪」、ルカであるが、既に峠は超えている。

 リナと共に施した生命力の譲渡術——分身活性は、期待以上の効果である様だった。

 強い子達だった。孤児であるリナと、孤児でないからこその不自由に苦しんでいたルカ。

 どちらも、実の娘の様に想っている。

 特にルカは、アントニオと、亡夫の姉であるあの方の娘だ。

 それが二人の美点を受け継いで、強く、逞しく育ってくれた事に、アウグスタは安堵していた。


 かといって、昨晩の己の態度に思う所がないでもない。

 例え必要であっても、冷徹な振る舞いは気が引けるものなのだ。

 胸に抱いていたルカの呟きが、耳を離れないでいる。

 

「……お母さん。ね……」


 あの子は産まれ落ちると共に、母を失っている。

 元々、出産に身体が耐えられないとされていた義姉だった。本人だけでなく、義両親もまた、彼女が行かず後家となる事を受け入れていた。筈だった。


 後悔はないわ。と言ったあの方。

 娘を抱く事もなく、夫に看取られる事もなく、凪の様に静かに逝ってしまった義姉。


 彼女が遺した、守りたかった小さな日常を、私は護れているのだろうか。

 そう、自問自答してしまう。


 争う理由を失くす為、経済成長を第一としてきた、この十二年間。


 身を包む清潔な衣類や寝具は、そのお陰であった。

 生活の安定と教育の振興を軸に、安全と、誰もが富を持つ権利を得ている。税収は増して、社会保障制度にも厚みを増した。上手く、回っている筈だ。


 だが——。

 その歪みが、ここに来て表れている気がした。


 富を得る事が、目的となってしまっていないか。

 自由な競争や、正当な権利という名の大義名分が、互いに手を取り合う為にでなく、傷付ける為の武器として、使われてしまっているのではないか。

 そうも考えてしまうのだ。


「……奥方様?」


 寝息の一つが止まり、言葉を口にする。

 もう一人はまだスヤスヤと、赤みの差し始めた頬で眠っていた。心地良く耳へと届く、安らかな吐息。

 それでも、気の抜けた欠伸混じりの声を嗜める。


「……朝の挨拶は、大昔から決まっているの」

「……あ」


 目を瞬かす「娘」の寝起き姿を見て、一旦思考を棚上げとする事とした。

 今日も良き一日を過ごすなら、先祖代々、始め方は決まっている。


「「おはようございます」」


 二人の唇から、忍び笑いと共に、全く同じ挨拶が紡がれた。




 アウグスタは、起き上がらせたルカの背中を支えながら、温かな一皿から掬い取った一匙を、口元へ差し出している。

 白い湯気。立ち昇る香り。

 ふーふーと息を吹きかけた少女が、一度上目遣いに匙の持ち手を伺いながら、あむりと咥えた。


 港町特有の、白身魚の出汁をたっぷりと吸わせたパン粥だ。

 昨晩から煮込まれ、形を失った白パンは、今のルカの弱った胃腑にも障らない、優しい滋養だった。


 匙を差し出せば、一口、また一口と啄むルカ。リナはいない。侍女達の朝は忙しいからだ。まだ心配だろうに、あの子は日常の仕事へと戻っていった。


 ルカもまだ立つのは難しそうなので、アウグスタは朝食の用意を部屋まで運ばせている。

 部屋の隅ではその運び手が、小さくなりながら佇んでいた。


「……美味しい?」

「……はい。とっても」


 消え入りそうな声。けれど、その瞳には確かな生の色が戻っている。

 港町の朝の匂い。海がもたらす慈愛。

 手が動かせば、返ってくる感触に、頬が緩んだ。


「……けほっ」


 咽せたルカへ水を飲ませる。その視線を追えば、部屋の隅へと。

 そこにあるのは、朝食を載せたカレッロ(配膳車)の取っ手を握りしめる、エプロン姿の巨漢。

 視線に気付いたのか、静かな寝室に車輪がタイルを噛む、重苦しい音が軋んだ。


「……いつもの、オレンジがいい」


 掠れ声で言った彼女の視線の先には、鮮やかな真紅の液体で満たされた、大きなデキャンタ。


「少し酸味が強いわよ?」

「大丈夫。さっぱりしたい……です」


 搾りたての、ブラッドオレンジジュース。シシリアの夏の定番で、ルカの好物。彼女は毎日自ら絞って一杯のオレンジジュースを飲む事を好んだ。


「ですってよ、オルト。そんな隅っこで震えてないで、用意しなさいな。王子様——ではなくて、『お姫様』が、ご所望よ」

「震えてねーって!」


 部屋の隅っこにいる息子へは、笑って声を掛けてやる。さっきから、ビクビクしながら突っ立っていたオルトが、ようやく「らしい」反応を見せた。


「貴方が絞ったのでしょう? ルカの為に」

「別に、そんなんじゃ……」


 頭の痛い事に、年明けから共に過ごしていながら、オルトはルカを、男の子だと思い込んでいた様だ。

 そうでなくとも、ルカが六つになるまでは共に過ごしていた。なのにである。


 もう良い大人であるのに、事実の衝撃からか、魂が抜けた様にしていた息子。

 応急手当てなのは、判る。だが、昨晩の絵面の酷さには、アウグスタもまた面食らった。

 当事者であるオルトとしては、アレだけでなく自らのこれまでの振る舞いにも、思う所があるのだろう。


 だが、それはこの子自身の浅慮が招いた自爆。

 もう良い大人である息子の脳筋節穴ぶりには、アウグスタも、思わず溜息が漏れてしまう。もう少し、考えながら日々を送って欲しい。


「オルトは、鈍間」

「お、おいっ! ルカてめぇ……」


 言い掛けて、止めるオルト。いつもの遣り取りの筈なのに、動揺している。


「さっさとジュースを持ってくる。味は期待しない」

「お前さぁ……」


 いつもの毒舌、いつもの軽口。

 ルカの方が、余程に大人であった。


 オルトはグラスへブラッドオレンジジュースを注いだ。近付いてくる、足音。

 大きなものでなく、慎重な、静かな調べ。

 オルトが側に寄る。大きな手で、ルカの好物を捧げ持ちながら。

 今朝も、走って来たのだろう。だが汗でなく、石鹸の匂いがしていた。


「……珍しい」

「何がだよ」

「いつも、汗臭いのに」


 くっくっと、つい笑いが漏れてしまう。いつも通りのルカと、明らかに動揺しているオルト(息子)

 ルカは受け取ったグラスへと口を付け、喉を鳴らした。


「……ごちそうさま。まだまだだね」


 またもや何かを言い返そうとしたオルトだが、言葉を飲み下し、眉を下げている。

 ルカとは、顔を見合わせてしまう。

 瞳に映るのは、いつも通りに可愛らしい姪の顔。息子には生意気に見える様だが。


私の光栄でございますア・ミオ・ピアチェーレお嬢様(シニョリーナ)


 頑張ってはいるが、まったく板についていない。

 どうやら、そろそろ本格的に女性の扱いを学ばせねばならない様だった。

 

 

 

 穏やかな朝食の時間は、扉を叩く切迫した音により唐突に終わりを告げた。

 許可を出す前に滑り込んできたのは、婆やだった。


「奥方様、急ぎ、お耳に入れにゃならんことが……。昨晩、検挙しちょう欲深か連中の残党が、港で喚いとります。不当逮捕だなん言いくるめて、群衆ば、煽りよっとです」


 その情報は、寝耳に水と呼べるものである。


「その数、五百は下らんごだ。だけん、そいば止むっ為に、フィオナお嬢が外に出なはったとですたい!」


 そして、到底見過ごせないものだった。


「あの馬鹿……」


 オルトの吐息。

 アウグスタは手に持っていた匙を静かに置いた。

 その僅かな金属音だけで、部屋の空気が凍りつく。


「騎士団は?」

「色男めが抑えちゅうばってん、留まっとりますたい」


 アウグスタの瞳から、つい先ほどまであった穏やかな母としての微かな熱が、氷のような冷徹さへと塗り替えられる。


「婆や、ルカを任せます。私が出るわ。オルト、エプロンを脱いで、着いて来なさい。帯剣を認めます」


 だが、その貌もまた母のもの。

 正義感が強く、道理を通そうとする「娘」を、危地へと晒しておく訳にはいかない。

 予感は、確信に変わっている。

 これも、十四年前に経験した「赤い獅子」の手管であった。

 ならば、トラーパニ領主代行として、出なくてはならない。

 優雅に、されど迅速にアウグスタは、いつもの喪服を身に纏ってゆく。



 


 お読み頂き、ありがとうございます。読まれたいな。

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