28話 異界の地にて。
太宰治をリスペクトしています。
「おえ、気持ち悪ぃ……」
すぐ側にいるオルトの声が、やけに遠くに感じた。
薄らと、目を開いてゆくルカ。
視界が戻る、筈だった。
色がある。だが、それは「景色」などと、到底呼べるものではない。
絵の具を手当たり次第にぶちまけたような色彩が、まだらに満ちている。
赤でも、青でもない。名前をつけようとした瞬間に、別の色へと変わった。
それは、溺死した遺骸の顔色にも似ている。気持ち悪さが、胃の腑から込み上げた。
腐臭があった。やけに、オルトの匂いが遠い。
「平気か? ルカ」
やはり、声が遠く感じる。すぐ側に、いる筈なのに。
頭には残らない、されど耳へと流れ込んでくる、陽気でありながら荘厳な旋律が、響き続けている。
上も、下もない。右も左も。
だが、この何もかもが過剰な空間に、何かが舞っていた。
紙片だ。
無数の紙の切れ端が、周囲で渦巻いている。
黒々と書き連ねられた、認識できない文字列。
刻印されしは、赤い紋章。
その表面には数字が並んでいて、瞬く間にその値は変わっていく。
一枚が、足元に落ちた。
触れた瞬間、冷たい何かが腕を伝って体の中へと侵入してくる。——気がした。
「っつ!」
「ルカ!」
オルトの声は遠い。
でも、温度だけは、きちんと伝わっている。
安堵の束の間、怖気が走った。
——見られている。
紙片の中から、無数の視線が向いている。
方向はない。あるのは、「注目」だけ。
この異界は、ルカを知っている。
——否。「人」というものを、知っていた。
それらはずっと、人と共に在り続けてきたのだから。
そう見えてしまった瞬間。ルカは思わず、オエッと嘔吐いた。
鼻をつく苦味に耐えきれず、吐瀉物を吐き捨てる。
堕ちてゆくそれは、胃液ですらなかった。
自分の吐き出した何かが、濁った色のインクとなって拡がり、出鱈目な数式を形造ってゆく。
蠢く紙片の群れたちが、数式を貪る。
虚空へ消えてゆく数と意味。
形のない巨大な何かの中へ、何もかもが吸い込まれていった。
ガシリと、腕を掴まれた。
「チビで、ひ弱なルカ王子様君よぉ。んーな情けない顔してんじゃねーよ。目指してんだろ? 心身一如」
その手は上へと上がり、頭を撫でられる。
顔を上げれば、そこには。
ニカリと、お日様みたいに笑うオルト。この複雑で曖昧な異界の中で、それだけは、はっきりと見えた。
「危ないよ。これだから、浅慮は……」
ルカの双剣は抜き身のままである。手は離れたが、あまり不用意な行動は、控えて貰いたかった。
「こんなわけわかんねー異界はよ……」
構えを取るオルト。それは、得意の得物である大斧を振るう為のもの。
「……ぬくぐ。うぐぐ……」
何故か難しい顔をして、唸りをあげる兄貴分。
暫くクマみたいな声をあげながら、やっとそれは出る。
「さっさと、ぶっ潰してやろうぜ」
肩に担ぐのは、巨大な戦斧。それはあまりにも大きく雄大で、力強かった。
先代トラーバニ領主にして、キエッリーニ家当主が手にしていたという、海の男達の誇り。
オルトが大斧を振り被る。周囲で蠢いていた視線に、「注目」以外の意味が乗った。
「ねぇ、オルト。渦喰らいなんて業物、ちゃんと扱えるの?」
「へっ、見とけって。俺ぁ、トラーパニの小熊で、クマのビーさんなんだぜ」
紙片が、数式が、訳のわからない何もかもが竦む。
飽くなき欲望達は、圧倒的に純粋な「暴力」の前兆を前にして、慄き震えた。
そして、一閃。
断層が奔った。その切れ目から、亀裂を走らせてゆく異界、そのもの。
「ま、中からじゃキツイか。ツイてんな」
オルトに異界を壊すまでの力はない。
だが、最短で辿り着いている。
その先に聳えるのは、霊核が凝集した恐ろしい気配。主の間へと繋がる、扉であった。
「さっさと主をぶち殺して、こんなしけた場所とは、おさらばしようぜ」
獰猛に笑う「お兄ちゃん」に、ルカはコクリと頷いた。
リナは激怒した。必ず、あの才気煥発なルカを救わねばならぬと。リナに戦闘はわからぬ。リナは屋敷の侍女である。掃除をし、奥方様と遊んで暮らしてきた。けれども愛情に対しては、人一倍敏感であった。
つい先程赤い屋根の家を出発し、庭を越え、坂登り、このキエッリーニの屋敷に戻って来た。リナには父も、母もない。恋人もない。アウグスタたちキエッリーニの家族と、五人暮らしだ。
その家族を救うためならば、恐れも痛みもない。
種子と呼ばれ子供扱いであっても、受け取ったものを返さぬ程、恥知らずではなかった。
肺が焼け、息が上がっている。目も乾いていた。
少しだけ久しぶりの、全力疾走。
動悸は激しく脈打つも、頭は冴えている。
ただ、屋敷に辿り着いた事で、僅かに緩んだか。
急に身体が重くなった。けれど、息を大きく吸い、進んだ。
そこへ立っているのは門番。ではない。
エーリチェの、アントニオ小父様の騎士たちが、走り寄って来る。
「奥方様に報告を!」
叫んだ瞬間、騎士達に抱き上げられた。そのまま屋敷へと運ばれる。どさくさに紛れ、胸を揉まれた気がするが、今はそれどころではなかった。
「リナ? ……どうしたの?」
騎士達に抱えられたまま、大広間へと滑りこむ。
華やかな笑い声、グラスの音、香水の甘い香り。その全てが、今のリナには遠かった。
相変わらず喪服を纏った奥方様は、壁の花を気取っている。周囲の貴婦人たちは、酒杯を傾けながら談笑していた。
一瞬で、感情が膨れ上がった。いつも通り、奥方様は穏やかで、優しい。
けれど、大人の顔の悠長さに、思わずリナは爆発してしまう。
「何言ってるんですか! ルカが怪我してる!」
白い顔に、動揺が走る。しかし、それは一瞬の事。
「リナ。筋道立てて、説明なさいな」
促されるままに、リナは知る事全てを語る。
夜会は歓声に包まれたままだ。ただ、当主代行の温度だけが低い。
「婆や」
「はっ」
老練の忠臣、婆やが跪く。
「……お客様方へは、少々中座しますが、ごゆるりとお楽しみ下さいませと」
そのまま、婆やの姿は掻き消えた。そしてまた、冷たい声が静かに響く。
「アントニオ。標的は、赤い屋根の家です」
最上級の騎士礼にて控える音が一人。
彼の名は、アントニオ・マリオ=ペントラ男爵。
キエッリーニの、トラーパニでの最強の英雄にして、当主代行唯一の剣。
そして、ルカの父親だった。
「はっ」
会場の視線は、一対の主従へ釘付けとなる。リナの身体から、力が抜けていった。
貴婦人は窓辺を見詰め、指を差す。
その視線の先にあるのは、丘の下。
アントニオはまだ顔を上げない。トラーパニにおいて、号令の言葉は決まっている。
「|インヴァデーレ・ミエイ・カルヴァリーエ《侵略せよ、私の騎士》」
「|スイ・ミア・シニョーラ《はい、我が夫人》」
アントニオが立ち上がる。その動きに、騎士たちが続いた。
鎧の音が大広間に響き渡る。貴婦人たちの笑い声が、一瞬止んだ。
そして、リナの緊張の糸が切れた。
膝から崩れ落ちる。
——瞬間に、柔らかに抱き抱えられていた。
温かい。どこか懐かしい香り。喪服の黒い布が、視界を覆う。
「後で、沢山働いて貰いますからね。それまでは少しだけ、お休みなさいな。良いですね、私の愛しい娘」
そして響く。強かで、優しい人の声が。
安心感が、リナに口角を上げさせる。
「スイ・ミア・マンマ」
呟いたリナの意識は、僅かにでも体力を回復するために、短い休眠へと向かった。
人の手足が絡み合い、造られた無数の杭。
高速で回転し、八方から迫り来るそれを、ルカが双剣で切り落としてゆく。
「どっせいっ!」
オルトに、そんな器用な芸当は出来ない。正面から受け止めて、弾き返すしかなかった。
「もっと、慎重に受けるべき。屍毒や雑菌は怖い」
「へっ! こんな雑魚相手じゃ、傷一つ付かねーよ」
ルカから小言を貰うが、余計な心配だ。五人力に毛が生えた程度なぞ、問題とはならなかった。
言い切った時には、既に頭部を一つ両断している。
だが——。
「胸糞悪ぃし、キリがねーな」
呪詛と苦悶を喚き散らす無数の貌。
再生してゆく肉塊。異界そのものから新たな力と肉を取り込んで、その異形は膨張していく。
隣で繊細なルカは嘔吐いたが、オルトは構わない。
「核を壊せば終わり。けど、五つある」
「手数がなぁ……」
こういった融合型の「霊獣」は、複数ある核を一度に破壊しなければ絶命しなかった。以前は二つ、今回は五つ。同時にともなれば、難度も高い。
「あるじゃん、解決策。『使いこなす』んでしょ?」
「っても、ちょい溜めがなぁ……。ほら、俺って空間系は苦手だし……」
話しながらも、二人は異形の攻撃を捌いている。
余裕はある。だが、決め手を出すには少しの時間が必要だった。
溜めている間は、無防備となる。ルカ一人に任せる事となった。まだ成長期を迎えていない、痩せっぽちの「ガキ」に負担を強いるのに抵抗があるのだ。
だが——。
「私を、信じてよ。ね? 『相棒』」
フッと、ルカが笑った。そして、前へ出る。双剣と風の術式をを用い、触手を斬り伏せてゆく。
「王子様」などと呼ばれるのに相応しい、秀麗な貌で。
「ったくよぉ。……任せた。少し、頼んだぜ」
オルトは渦喰らいを足元に突き立て、瞳を閉じた。
体内を巡るモノへと意思を乗せ、「父ちゃん」が唯一遺してくれた「形見」の品へと伝える。
渾沌の中、舞い吹くは、無数の紙片や数式。
それらがゆっくりと、だが確実に、ペタリ、ピタリと、元は人だった筈の異形、肉塊へと貼り付いた。
もう人と呼べないそれが、みっしりと圧縮されていく。触腕は短く、体積だけが低下してゆく。
だが動きは俊敏に、鋭くもなっている。
オルトは獰猛に笑った。
ルカは触手を切り裂き、捌き、受けている。その剣戟の反響は、甲高く、乾いたものとなっていた。
負傷はない。動く範囲も減っている。だが段々と弾かれてゆく、魔銀の刃。
——華奢な身体で、よくやるぜ。
既に触手へ刃は通らない。
異形の手数は減ったが、一撃の速さは増している。
その重み。
弟分は相性の悪さから、押され始めていた。
——やっと、ぶった斬り易い大きさに、なりやがったぜ。
ルカの斬撃が弾かれ、その反発で否応なく小さな身体が泳いだ。次の刺突が、既に用意されている。
だが、オルトは揺らがない。裏切らない。
獲物は一撃で決められる、象形になっていた。
「待たせたな。『相棒』」
たった一言。ルカが跳ぶ。
「別に、待ってない」
「うるせぇ」
その一息で、渦喰らいを高く振り上げ、大きく踏み込んだ。
正直、無責任心中男には思う所がありますが、やっぱり凄いと思いますね。




