21話 大掃除。女達は戦場へ。
夜明け前。
キエッリーニ邸の裏口で、婆やはすでに起きていた。
東の空はまだ白み切らず、港から流れ込む湿った霧が庭石を濡らしている。
鳥の声もない。
だが——静けさは、眠っているもののそれではなかった。
控えの間で湯を沸かしながら、婆やは数を数えていた。
刻。
足音。
門の開閉。
今朝は多い。
やがて、乾いた音が廊下に響いた。
遠慮のない、急ぎの足取り。
伝令だ。
「……始まりよったか」
受け取った紙束を一瞥し、婆やはそう呟いた。
返事はない。
伝令はすでに踵を返している。
紙には、名が並んでいた。
倉庫。
船。
人。
脳裏では、昨夜の宴で杯を掲げていた顔がいくつか混じっている。
それを見ても表情は変わらない。
——予想通りだ。
厨房では、すでに火が入っていた。
だが今朝の鍋は軽い。
祝宴の残り香を消すための、必要最低限の食事。
廊下の奥、「奥方様」の寝室の扉は、まだ閉じたままだった。
昨夜、あれほどの騒ぎがあったというのに。
いや、あったからこそか。
婆やは知っている。
「お嬢様」が、本当に動くのは——。
人が酔い、油断し、安心したその翌日だ。
遠く、港の方角で低い音がした。
合図の角笛。
街が、目を覚ます。
婆やは布巾で手を拭い、背を正した。
「……さて」
今日からが、本番である。
トラーパニ行政府。
治安維持局の窓口担当である男は、冷めた珈琲を啜りながら、欠伸を噛み殺している。
昨夜はキエッリーニ・トラーパニ子爵邸で大きな宴があった。
その余波で、今朝は二日酔いの酔客が数人、騒ぎを起こして連行されてくるだろうと高を括っていたのだが。
その予測は、夜明けの角笛と共に打ち砕かれる事となる。
「おい、表を見ろ!」
同僚の叫び声に顔を上げ、窓の外を見た男は、珈琲を喉に詰まらせ咽せ返る。
まだ朝靄の深い広場に、巨大な影が連なっていた。
海を這う獣、海雷獣だ。
その背に乗るキエッリーニの騎士たちが、荷車を数台、引きずるようにして庁舎へと向かって来ている。
荷車の上で猿ぐつわを噛まされ、数珠繋ぎにされているのは、街の「裏」を牛耳っていた何名かの顔役たちだった。
「……五号倉庫の親分じゃねえか。それに、あの船主も。一体何が……」
庁舎の扉が蹴破られるように開く。
入ってきたのは、キエッリーニの侍女だった。
彼女は疲労の色も見せず、分厚い書類の束を窓口へと叩きつける。
「当主代行、アウグスタ・ビアンカ=キエッリーニ様よりの預かりものです。密輸、脱税、および禁制品の所持。証拠品は外の荷車に乗せてあります。検収して頂いても?」
確か、屋敷ではそれなりの古株で、旦那はエーリチェの海城に詰める騎士団の……。
「え、ええ!? ちょっと待ってください、こんな数、手続きが……」
「ご心配なく」
慌てた窓口の男へ、彼女が指し示した書類の末尾には、アウグスタの血判に近い鮮やかな朱印。
そして驚くべきことに、昨夜付けでの「調書」が揃っていた。
「昨夜……? 昨夜は、確か邸で宴があったはずでは……」
「ええ。誠心誠意、歓迎いたしましたわ。お楽しみ頂けたと自負しておりますの」
朝には似つかわしくもない、妖艶な微笑。
「……酒と女に酔って、自分が何を喋っているかも忘れるほどにね」
彼女の冷ややかな言葉に、窓口担当は背筋が凍るのを感じた。
これは推察に過ぎない。
だが、アウグスタは敵対勢力を「祝宴」という名の密室に招き入れ、英雄アントニオという巨大な圧力を盾に、酒と香で弛んだ口からすべての情報を掌握した。
そう誰もが察する。流石は盾。とまで。
男たちが朝の光に目を覚ました時、そこはもう天幕の中ではなく、騎士の槍が突きつけられた断罪の場に変わっていたのだろう。
街の通りでは、騎士たちの「清掃」が続いていた。
逃げ遅れた端くれどもが官憲の網に追い込まれていく。
街の人々は、窓を少しだけ開け、その様子を驚愕の目で見守っていた。
「……昨日まで、あんなに威張っていた連中が、まるでゴミみたいだ」
誰かが呟く。
行政府の廊下は、泣き喚く容疑者と、書類を抱えて走り回る公僕たちの怒号で溢れかえった。
昨日まで滞っていた「法」という名の歯車が、アウグスタという強引な潤滑油によって、悲鳴を上げながら高速回転を始めている。
その混乱の最中、行政府職員はふと、書類の一枚に目を止めた。
そこには、今朝の検挙から漏れた「空欄」がいくつかある。
その中には、最も捕らえるべき「獅子」の影が残されていた。
——柳のジーノ。
王都でも売り出し中の無頼漢。魔銀位階の冒険者の名は、この完璧な包囲網の中に、不気味な空白として残されている。
一夜明けたキエッリーニ邸では、迎賓室や中庭などの至る所において、華達がひしめきあっていた。
「さっすが、奥方様よね。私達の気持ち、わかってるぅ!」
「最近は出会いの場なんて、限られてっかんね」
華とは、トラーパニのみならず近隣から集った妙齢のご婦人達である。
どういう訳だかこの宴、婚活会場として伝わっていた。
もっとも、出会いの場など限られたものであるの以上、文句を言うなどある筈もない。
「ほら、貴女達もいらっしゃいな」
だからこそ、淑女達も鷹揚だ。彼女達は「給仕」に徹する侍女達にも分け隔てがない。
当然だ。侍女とは、侍る女。主人へと近い格がなければ、成立し得ない。
「私達は同志よ。よくってよ? 遠慮なく、牙を突き立てなさいな」
「では、遠慮なく。後悔先に立たず。とも言いますが」
だからこその寛容、懐柔。
彼女達にとってもこの硬直に対する反抗は、実に小気味良いものであった。
「よりどりみどり。でも、狙うのなら一番の大物よね?」
「将を射らんとすれば、まず馬を射よ。とも言うわね」
「英雄と一緒に王子様までなんて、最高だわ」
女達は戦意を燃やす。婚活という戦場にて。
というこの現状に際して。
アウグスタは大層満足している。
正に、多士済々。女の顔で、闘う戦士達だ。
彼女は思う。理と利、そして情による結束こそが力であった、
「奥方様。なんか、不穏な空気があるんですけど……」
「好きにさせなさい。貴女達を阻む法はないわ」
不敵に微笑んだアウグスタだったが、ふと、リナの幼い顔立ちに目が止まる。
煤だらけのままだった。仕方なく顔を拭ってやれば、くすぐったそうに笑う。
そんな二人を尻目に、高笑いが響いた。
「オーホッホッホ! ここで英雄殿を射止めれば、もう学園にも通わなくても済むわ!」
それは、どこぞから来ていた令嬢。どうやらこの催し、多感な少女達にも届いていた様だった。
「……いや、学問は積みましょうよ。もったいない事なんてしないで」
小声でリナが毒付く。クスリと笑ってしまうアウグスタだが、再び周囲へ目を向ける。
能天気な高笑いをするお嬢様と比べ、期待に目を輝かせている淑女たちの熱気。それはあまりに生々しく、剥き出しの欲望だった。
「……いえ、待ち受なさい。訂正します」
アウグスタは冷徹な「代行」の顔で、リナにだけでなく、周囲へと告げた。
「此度の催し。参加できるのは、十八歳以上の、成人した女性のみとします」
「えっ、奥方様!? 私、十五ですよ? もうお嫁に行ける歳なのに!」
「アタクシもですわっ!」
驚きに反論するリナだが、若き淑女もまた、同じ事を叫んでいた。
ならば、大人として言わない訳にはいかない。
「学業、あるいは職能の修行期間は、心身を守るための『律』の範疇です。十五歳はまだ、保護されるべき種子。……リナ、お嬢様。あなた方は脱落です」
有無を言わさぬ宣告。リナ、だけでなく年若い娘達は皆、頬を膨らませる。
「そうですな。私も、我が子と然程変わらぬ歳のご令嬢のあしらいは、難しいですからな」
当然、ここにはアントニオもいた。
昨夜からずっと魂の抜けた様な顔をしていた彼だが、初めて真面名な発言をしている。
歳若いお嬢様方は歓声を上げていた。
アントニオは苦い顔付きで、首を振りっぱなしでもあった。
「当人の意向は、尊重しなくてはならないわね」
「ならば、この催し自体を収めて頂けると……」
情けない提案をする「我が剣」を、当主代行は鼻で笑う。
「アントニオ。何を言うのです。まだ幼いルカには母親の温もりが必要ですし、貴方も気の利かない武辺者。「英雄」を慕う騎士達の世話を焼く、内助が必要でしょう」
「いえ。ルカも、もう十二。お披露目を迎える歳頃でございますれば……」
しどろもどろになりながら、返すは英雄。
「理屈を捏ねないで。貴方が霊獣の相手をしている間、あの子がどれだけ不安で、寂しかったか。今も1人寝の寂しさから、時折私の所へ来るのですよ。埋め合わせは、必要です」
アウグスタは胸を張り、アントニオは項垂れた。哀愁漂う横顔に、苦笑が浮かんでいる。
見目が佳いので女たちからの歓声が上がるも、勢いに押し切られただけだった。
「お集まりの皆様、お覚悟なさって」
立ち上がったアウグスタは周囲へ告げる。
「英雄殿を射止めんとするならば、妻だけでなく母、そして将として在らねばなりません。半端な気持ちでは、務まりませんよ」
それは、覚悟と苦難を説くもの。その先は甘い恋愛話でなく、女の戦場だという宣告。
「誇りを賭けて、励みなさい」
それは後世において「女達の後添い戦争」と呼ばれる逸話の、端緒となった。




