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20話 訪れる雷鳴。

誤字修正です。バで、なくトラーパニなんです。


 ——夜。アウグスタの寝室。

 そこには鏡の前に立つ、当主代行の姿があった。鏡面に映る己へ視線を合わせ、薄衣の寝巻き越しに豊満な胸元へと掌を当てている。

 鼓動は常と変わらない。

 湯上がりで上気した肌は艶かしいが、その瞳は冷たく深かった。

 その強さは何かを迫る様であり——。


 一つ頷くと、彼女は呼び鈴を手に取った。




「なんだ、こりゃ……?」


 朝。キエッリーニ邸は喧騒に包まれていた。


 普段なら静かな中庭には巨大な木樽がいくつも運び込まれ、力自慢の男衆たちが威勢のいい声を上げながら、積み上げている。

 厨房の方からは石臼が回る重い音と共に、何かを叩き切るような小気味よい包丁の音が絶え間なく響いてくる。


 窓から溢れ出すのは鼻腔をくすぐるニンニクとハーブの香ばしい匂い。そして、大鍋で煮込まれる肉料理の濃厚な蒸気が、庭の空気さえも白く染め上げていた。


 オルトは、グウと腹を鳴らす。


 回廊を走るのは、普段の淑やかな足音ではない。

 婆やの檄が飛び、侍女たちが山のような絹布や銀食器を抱え、まるで戦場を駆ける兵士のような形相で行き交っている。


「若様、邪魔ですよ! どいて!」


 リナまでもが頰を煤で汚しながら、見たこともない巨大な酒瓶を抱えてオルトの横をすり抜けていった。


「おい、待てよ! 誰が来るんだ、一体!」


 オルトが声を荒らげても、誰も足を止めない。

 ただ、皆の顔には、不思議な高揚感が宿っている。

 それは、嵐を前にした恐怖ではなく、期待。


「なんなんだよ……」


 どこか取り残されている様な気分で、走り込みから戻ったオルトは、汗を流しに浴場へ向かう。


 ふと目が止まるのは、中庭の中央。


 そこには、キエッリーニの家紋が大きく刺繍された、真新しい深紅の天幕が張られようとしていた。



 ——昼過ぎ。

 遠く、エーリチェとも繋がるトラーパニの空へ、重く鳴動する低音が響いた。

 それは、まるで青空に轟く雷鳴に似ていて。


「ん?」

「この音……」


 水浴びを終え、遅い朝食も平らげたオルトはルカと共に、門前での稽古をしていた。


 今日の予定は聞かされている。夕刻には客人が訪れるので、外出はせずに待っておきなさいと。


 ルカも今日は学園を休まされている。当主代行命令によってであった。


 中庭で日課の稽古をしようとしていたら、二人して準備の邪魔だ。と追い出されたので。


 だからこその、門前での稽古なのだが——。


 小高い丘の上に立つキエッリーニ邸。門前から坂下は見えない。

 だが、重く、大きな音が近付くと共に砂塵が舞い、白き土煙が立ち昇っているのが見えた。

 その数は多い。


 そして、先頭の一団が門前に現れた瞬間、オルトは息を呑んだ。


 それは、騎馬ではない。


 岩の如き巨躯を揺らし、泥と潮にまみれた皮膚が鈍く光る。太い体躯を低い位置で動かすその生き物達は、まるで海を這い上がってきた巨大な獣の群れだった。


 地を這うごとに、ずしり、ずしりと蹄とは異なる重い音が響き、大地を揺らす。

 その先頭、ひときわ大きく威圧的な獣の背に、男は揺るぎなく座していた。


「父上……?」

「兄貴……?」


 ルカと共に、つい呆けてしまうオルト。


 潮風に黒いマントを翻し、視線はまっすぐにキエッリーニ邸の天幕を見据えている。


 トラーパニの英雄──アントニオ・マリオ=ペントラ。

 キエッリーニの剣の、推参であった。


 オルトはここに来て漸く、「母ちゃん」の決断が何かを察した。

 強者には、更なる強者を。単純な解だった。

 

 衛兵達を連れ、苦虫を噛み潰したような顔をした婆やが屋敷からやって来る。


ポヴェロ(残念)


 オルトの耳には、聴き慣れたルカの小さな声が響いた。

 

 紅き夕陽が沈み始めた頃。

 キエッリーニ邸が、そしてトラーパニの街全体が英雄の帰還を祝う篝火で照らされている。


 中庭に張られた深紅の天幕の下は、オルトが想像していた「軍議」の場とは程遠い、狂気じみた華やかさに支配されていた。


 上座には、普段の冷徹な瞳をどこへやったのやら、満面の笑みを浮かべる黒衣のアウグスタ。


 その隣で、鋼の如き肉体を礼服に押し込み、魂が抜けたような顔で座っているのがアントニオ。

 美形だけあって、そんな顔までが様になる。


 そして二人の前には、家中から集められた「これ以上ないほど着飾った娘たち」が、品評会の獲物を射るような熱い視線を英雄へ注いでいる。


 天幕の至る所では、街中より集った娘達が、華やかに宴へ彩りを加えていた。


「さぁ、アントニオ。皆様方。遠慮はいりません。この子たちは皆、英雄の背中を支えたいと願う、トラーパニの宝石たちですよ」


 当主代行の声は慈愛に満ちていて、同時に逃走を許さない、絶対的な「命」の響きがあった。



 天幕の内側は、甘い香と熱気で満ちていた。

 笑い声、衣擦れ、杯の触れ合う音。そのどれもが軽やかなのに、どこか張り詰めている。


 娘たちは皆、同じ方向を見ている。

 だが、その視線の色は揃っていなかった。


 期待に濡れた瞳。

 家名を背負わされた覚悟の眼差し。

 場違いを悟り、逃げ道を探す不安な視線。


 誰もが互いを測り合いながら、ほんの半歩ずつ前へ出ている。


 上座では、アウグスタが静かに杯を置いた。

 それだけで、ざわめきが一段低く沈む。


 主催の隣に座るアントニオは、背筋を伸ばしたまま動かない。元々表情の動かぬ男だが、今はそれすらも消えてしまっている。

 


 剣を抜く時ではない。

 命令を下す場でもない。

 ここでは、選ぶか、選ばれるか。その場合しかなかった。


 ——そして、アウグスタは何も言わない。


 言わないまま、すべてを並べ、逃げ道を消していた。


 その均衡を、破ったのは——。

 誰も予想していなかった人物だった。


「……あのー」


 控えめで、しかし妙に通る声。

 天幕の奥、列の後方から、ひょいと手が上がる。


「私、別に本気じゃないんですけど」


 ざわ、と空気が揺れる。

 視線の集った先にいたのは、煤の跡も落としきれていない侍女服姿の少女——リナだった。


「ルカ様の『お母ちゃん』なら、まぁ、いいかなーって思っただけで」


 軽い。

 あまりにも軽い一言。


 だが、それはこの場に集められた誰よりも、状況を正確に射抜いていた。


 次の瞬間、

 上座から冷たい気配が降りる。


「……リナ」


 名を呼ばれただけで、天幕の温度が一段下がった。


「この場が何か、理解した上での発言ですか」


 咎める声音。

 だが、断罪ではない。


 リナは肩をすくめて笑う。


「ええ。だからですよ。本気じゃないなら、最初に言っといた方が親切ですよね?」


 娘たちの視線が、再びリナへと集う。

 軽口の皮を被ったその言葉が、退路を作り、同時に覚悟を問う刃だと、皆が理解したからだ。


 数拍の沈黙。


 やがて、アウグスタは小さく息を吐いた。


「——よろしい」


 それだけで、許可が下りたと分かる。


「本気でない者が混じることを、私は咎めません。ですが——」


 視線が、列全体をなぞる。


「本気でないまま、居座ることは許しません」


 軽さは、受け入れられた。

 だが、逃げ道は塞がれた。


 リナは一歩下がり、何事もなかったように列へ戻る。

 その背を見送りながら、誰もが悟る。


「さぁ、アントニオ。皆様方——」


 この宴は、もう冗談では終わらない。


 が、そこへ一石を投じる者がいる。


 静まり返った天幕に、杖が一度、石を打った音が響いた。


 ——コン。


 全員の背筋が条件反射のように伸びた。


「では、役目を果たしましょうか」


 衛兵を従え、深い皺を刻んだ老婆が前へ出る。

 キエッリーニ家に仕える、婆やである。


 その目は、もはや宴を見ていなかった。

 数を、位置を、価値を量っている。


「本日、この場にお集まり頂いた皆様は——

 『候補』ではありません」


 騒めきが走る。


「候補になる資格があるかを測られる側です」


 言い切り。

 逃げ道を与えない言葉。


 婆やは、手元の帳面を一枚めくる。


「本日は顔合わせ。名乗りと、所作と、耐久を見るだけ」


 次に視線が向いたのは、アントニオ。


「英雄殿は、今夜、選びません」


 これが、電撃戦の否定。

 だが——。


「ただし」


 杖が、再び鳴る。


「明日から、減ります」


 それだけで十分だった。


 誰もが理解する。

 今夜は戦端を開くだけ。

 だが、明日以降は脱落が始まる。


 婆やは最後に、にやりと笑った。


「ご安心を。長引くことは、ございませんから」


 アウグスタの笑みが深くなる。そして、決定的な言葉。


「夜が明けるまで——存分にお楽しみ下さい」


 それがこの家のやり方だと示す、何よりの宣言だった。


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