19話 嵐の前。
短いですが。
「おかえりなさい。二人とも」
先にアウグスタへと歩み寄ったのはルカだった。
足音を立てない歩き方。距離を測るような歩幅。背筋は伸び、顔つきも落ち着いている。まるで、ここで何が起きているかを把握しているかのように。
けれど、空気を探る視線だけが、わずかに忙しい。
分かったつもりでいようとする、その浅さ。──アウグスタは見逃さなかった。
胸の奥で、そっと息をつく。
——この子は、本当に強くあろうとしすぎる。
「いらっしゃい」
抱き上げると、ルカの身体が一瞬だけ強ばり、それから力が抜けた。
その変化が、腕越しにもはっきりと伝わる。
少し離れたところで、オルトが立ち尽くしている。
呼ばれるのを待っているのか、言葉を探しているのか。肩は固く、指先だけが宙を彷徨っていた。
恐怖と誇りの間で、どちらにも寄りきれずにいる。
そんな感情が見て取れた。
アウグスタは、まず聴くべきだと静かに心を整える。
──そして聴いたのは、ただの若者同士の諍いではなかった。
密輸。
それも、単発ではない。
想定の範囲内ではある。
規制を敷けば、抜け道を探る者が出る。それは人の性だ。
「……やはり、そう来ますか」
低く零した言葉に、感情は込めない。
正義感の強いこの子が、見過ごせるはずがない。
嬉しさと同時に、心配がよぎるのもまた、親としては当然だった。
だが今は、それよりも先に聴くべきことがある。
「で、その男は。名を名乗ったか」
「柳……柳のジーノと」
名が落ちると同時に、オルトの視線が床へ沈んだ。
唇がわずかに歪む。無理もない。
——柳のジーノ。
フィオナの報告にあった名だ。
近頃、王都で名を上げているらしき無頼、魔銀。
冒険者登録の位階制度は、こういう時に便利だ。
実績と危険度が、端的に分かる。
中級の上位。
褪せた灰銀の登録証を授けられた者。銀霊に御されし卿。
その「力」と「罪」だけならば、貴族にも並ぶ。
「……強かった、ですか?」
「母ちゃん、アイツを知ってんのか?」
「いいえ」
即答だった。
主張も信条も持たぬ破落戸に、個人的な関心はない。
社会の脅威となるなら別だが──今は、まだ判断が早い。
「アイツは……ヤベぇ」
オルトの拳が、小さく震えていた。
力の差を、嫌というほど思い知らされたのだろう。
誇りがある。
だからこそ、言葉が続かない。
アウグスタは、それ以上を急かさなかった。
「その名なら、聴いているわ」
声は落ち着いている。
けれど、アウグスタは意識的に言葉を選んでいた。
「腕が立つのは確かね。……ただ、それだけよ」
「それだけ?」
オルトの眉が、わずかに跳ねる。
「力があるからといって、何かを決められるわけじゃない」
「でも、俺は──」
詰まった言葉は、どのような感情からか。
大方、思い出したくもない光景が、脳裏をよぎったのだろう。それとも、男の子の意地か。
アウグスタは、そこを追わない。
「強者は厄介です。でも、それは敵に回した時の話」
「じゃあ、放っとくのかよ」
息子の苛立ちが、声に滲んだ。
「いいえ」
だからこそ、短く否定した。
「放っておけない相手だから、聴いているのです」
「……」
オルトは口を閉ざしたまま、視線を逸らす。
納得してはいない。それだけははっきりと分かる。
この子にはまだ、会話の中から情報を引き出せる力はなかった。
アウグスタは、抱いているルカの体重を感じ直す。
軽い。
それが、余計に現実感を伴って胸に落ちる。
「柳のジーノは、一人で動いているとは思えません」
「……根拠は?」
ルカが、小さく口を挟む。
声は冷静だが、どこか張りつめている。
だが、それは状況を聴けば即座に察せれる。「雇われ」であると、自ら口にしているのだから。
ルカならば、気付くと思ったが焦りがあるか。
仕方がない。まだ小さなこの子だ。オルトへの心配が勝るのだろう。
だからこそ、教えてやる訳にはいかない。
「経験よ」
それ以上を伝える事はない。
理由を並べれば、いくらでも並べられる。
だが今は、それが必要な段階ではない。
「密輸は、力だけで続けられるものではないわ」
「……後ろがいる、ってことか」
オルトの声が低くなり、ルカの息を飲む音が聴こえる。そう。単純な話だ。
「ええ。だからこそ、本件は軽く扱えない」
それだけを、事実として置いた。
判断は、まだ先だ。
オルトが見たという赤い獅子、王国財務省の紋章。
王国を富まさんと志す国士の旗。
だが——「嫌な手触り」だけは、はっきりとしている。
「……でもさ」
オルトが、低く呟いた。
「それでも、放っとけねぇだろ」
「ええ」
これにも即答だった。
それが、かえってオルトの表情を歪ませる。
「じゃあ、なんでそんなに落ち着いてんだよ」
「落ち着いているように、見えるだけです」
アウグスタは視線を逸らさなかった。
「判断を急がないのと、何もしないのは違います」
「……」
オルトは言い返さない。
理屈としては、分かってしまうからだろう。
だからこそ、拳に力が入っている。
これも、男の子の意地か。
「俺が負けたのにか?」
「負けたからこそ、です」
少しだけ、声を低くした。
勝ち負けを語る必要性なぞない。
残念ながら、この子の視座は低い。そうしてしまったのは、忙しさにかまけた私自身の過失。
アウグスタはそう考えている。だからこそ、突き付けるものは現実となる。
「感情で動けば、同じ失敗を繰り返す」
「……っ」
噛みしめた歯の音が、わずかに鳴る。
そこに、控えめな声が重なった。
「……奥方様」
ルカだ。
「一つ、よろしいですか」
アウグスタは頷く。
「もし、その人が——柳のジーノが」
「ええ」
「次に動くとしたら……こちらは、間に合うのですか?」
問いは短い。
だが、逃げ場のない角度だった。
アウグスタは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、答えでもある。
「……間に合わない可能性も、あります」
オルトの肩が、ぴくりと跳ねる。
「だからこそ、準備をするのです」
「準備って……」
続きを、言わせなかった。
「今は、それ以上は言えません」
決めている。考えれば、自ずと解は導かれる事。
「なんでだよ……」
オルトは、それが気に食わないのだろう。考えるよりも感情が先走っている。
「母ちゃんは、もう決めてんだろ」
「……ええ」
初めて、否定しなかった。
「でも、それはまだ『あなたに押しつける答え』ではない。考えなさいな」
顔を背けたオルト。
理解している。それでも、納得はしていない。そんな空気が全身から漏れている。
——それでいい。
アウグスタは、そう判断した。それが正解でなくてもよい。考える事、自ら解を求める事こそが、これから先の息子の仕事だ。
「ルカもよ」
降ろしたルカがオルトに並ぶ。
二人は辞去の礼をして、執務室から去った。
大きく、吐息が漏れる。
とうに夕陽は沈み、窓の外からは月明かりが覗いていた。




