12話 責任の先に。
——トラーパニ行政府、本会議。
石の床に響く足音と、低いざわめき。荘厳に彫られた長椅子に議員たちが座を定める。机の表面を渡る紙の擦れ合う音が、妙に浮いていた。
天井の大窓の下、光差す「劇場」に、議会の開始を告げる議長の声が響いた。だが、並み居る議員たちはその存在を無視し、一人の女を見ている。
光を廃した色彩の、公式の場を意味する装いを。硬質な美貌と謳われる白い顔を。
荘厳に造られた壇上に、アウグスタ・ビアンカ=キエッリーニは、領主代行として昇っていった。やがて立ち止まったアウグスタは黒衣の裾を揺らし、微笑を湛える。
——その姿だけが、場内の空気を一点に集中させた。敵対する者も、頭を垂れる者も、すべてが息を呑む。
その時、彼女には遠く離れた扉辺りに、ひっそりと立つ男の姿が見えた。アントニオ。本来この場には「いない」はずの男が、そこにいる。
瞬間、短く触れ合う視線。説明も感情も交わされない。だが、確かに「何か」が軋んだ。小さな針が、静かに均衡を破った。
「皆様、本日はお集まり頂き、誠にありがとうございます」
万軍の兵を率いる将の如く、アウグスタは「劇場」にて「戦場」の口火を切った。軽く息を整える間も、場の視線が彼女に吸い込まれていく。
——そして、火蓋は落とされる。
「拙速に過ぎますな。流通を制限するおつもりか」
──威圧的に机を叩く一人。
「貴女は家の事情しか見ておられぬ。息子への配慮が判断を曇らせているのでは?」
──低く、しかし観衆の耳を引く声。
「市場を止めれば、我々の港に繋がる商路が死ぬ。貿易都市としての根幹を揺るがすつもりか」
──理屈で切り込む合理派。
アウグスタは即座に応じた。
「市場を止めるのではありません。過去三週間で、霊核の価格は四割上昇しました。このままでは、六週間以内に小商人の八割が取引から排除されます。それでも『自由な市場』を維持すべきだと?」
止まった所へすかさず切り込む。
「これは、無秩序な取引を抑制し、『霊核』の流通を安全に管理するための暫定措置です。今のままでは、外部勢力に利を奪われ、最終的には市場そのものを失う危険が——」
そこへ、威圧的な声が割り込んだ。
「理屈は結構。しかし、その『暫定』がいつ終わるのかが問題なのだ!」
答えに窮して息を呑む。約束出来ない事だった。
「我々は何度も見てきた。一度始まった規制が、永久に解かれなかった例を」
静かに、しかし鋭く言い放つ議員がいた。感情的な声ではない。だからこそ、その言葉は場内に染み渡る。
「前例を忘れたわけではないでしょう、奥方様?」
「そうだ!」
同調の声が次々と上がる。ざわり、と空気が揺れた。誰かの机の上で拳が静かに握られ、また誰かが立ち上がる。それらの視線が一点に集まっていく。
それでもアウグスタは怯まない。短く呼吸を整え、微かに眉をひそめながらも次の言葉を紡ぐ。
「では、お尋ねします。暫定措置を取らず、市場が崩壊した場合——その責任は誰が取るのですか?」
アウグスタの声が、静かに議場を貫く。
「前例を恐れるあまり、現実の危機を見過ごすことこそ、最大の失策です」
声を張り、言葉を尽くす。軽く間を置き、視線を巡らせる。
「狙われているのは何も、『今に始まったことではない』のだ!」
だが、続く言葉を別の議員が遮った。
「我々は十年以上、貴女に従い、貿易によって均衡を保ってきた!」
「異界産資源を武力でなく交渉で扱う、その柔軟さこそトラーパニの強みだ!」
——その言葉には、重みがある。そして何より彼女自身が望み、叶えてきたことだ。
非難には、変節への疑いまでもが混じる。アウグスタはわずかに目を細めた。確かに、それは事実……。
しかし、フィオナが立ち上がる。
「議員の皆様。私はミリオッツイ商会として申し上げます」
まだ若い、参政権を得たばかりの女の声が、議場に静かに響く。
「王都との取引で、私は霊核相場の異常を目の当たりにしました。このまま放置すれば、トラーパニの商人は他州の商人に食い尽くされます。奥方様の提案は、私たち商人を守るためのものです」
その言葉には、賛同を示す者もいた。アウグスタは軽く息を吸い、短く間を置いた。
その間に、場内のざわめきが微かに緩む。ドレスの裾を掴みながらも、論理の糸口を探った。
「皆様、恐れるべきは前例ではなく、現実の数字です」
低く、冷静な声。言葉の重みが空気を切り裂く。
「霊核の備蓄率は現在、都市全体で七割を超えています。医療機関への供給も充分、船団の動向も監視下にあります。短期的な取引停止が致命的な損失を生むことはありません」
数字を示したことで、いくぶん議場が静まる。
しかし、場に満ちる不安の根は深い。職人や荷役、港を支える者たちの生活が、規制で直撃される懸念は正当だ。彼らの声は、単なる反発ではなく「生活の叫び」でもある。
「価値を高める? ならばまず、我々の商人と職人を守れ!」
立ち上がった声が重なる。机を叩き、書類を握りしめる手に力が籠っている。議場は次第に高まり、やがて頂点へと向かう。
——どの懸念も、正しい。
アウグスタは一歩も引く訳にはいかない。軽く肩の力を抜き、視線を議場にめぐらせた。
「負担は理解しています。ですが、今この瞬間にも、霊核を巡る争奪は激化し、価格は乱高下し、暴力すら起きている。『秩序』を失った市場は、いずれ管理不能になります!」
つい、声を荒げてしまう。短く呼吸を整え、間を置いた。そこへ——
「では、その秩序を誰が管理する?」
静かに投げられた問い。矢のように鋭い。
「『代行』の、貴女がか?」
一瞬、場が凍る。論点が、政策から「権限」へと移り始めた。
「貴女は選挙で選ばれたわけではない」
「役職ですらない。我々が立てている飾りに過ぎぬ」
「その立場で、『自由な市場』を縛ると?」
机の表で指が鳴る音。衣擦れ。囁き。嘲り。熱が、理屈を溶かし始めていた。
「もし失敗したら、誰が責任を取る? 貴女か? キエッリーニ家か? それとも——我々か?」
その問いに、場内の視線が一斉に集まった。
彼女の強さを知る者も。彼女を恐れる者も。彼女を憎む者も。
皆が、その答えを試すように見ていた。
——この問いだけは、避けられない。
低く、鋭い声が、彼女の心を直接狙った。
「だが、結局は妻であり母であるあなたの『情』が判決の基盤ではないのか。夫を失った痛みが、全てを曇らせているのだろう?」
その言葉は静かだが、致命的な一撃となって胸に突き刺さる。指先が震える。資料の紙の端を爪で挟む力が増す。
言葉を紡ごうとするものの、頭をよぎる十四年の重さ。理性は働くが、胸は痛む。
アウグスタは目を閉じるようにして短く息を吐いた。
——そのとき、ふと視界の端に動いた黒い点があった。
扉の傍ら、変わらぬ姿勢で立つ一人の男。アントニオだ。
彼の瞳は、変わらず彼女を見据えている。言葉は発しない。ただ、逸らさずに見ている。
その視線の強さが、内側で煮え立っていたものを静めるように働いた。
アウグスタはゆっくりと顔を上げる。震えは残るが、呼吸が落ち着いていくのがわかる。
彼女の目が、確かに変わった。冷たく、しかし揺るがぬ光を帯びている。
静かに、しかし確固とした声で口を開いた。
「——いいでしょう」
その一言が、議場の流れを断った。音が、沈む。
アウグスタは一歩、壇前へと進む。
「私は『妻』であり、『母』であることを否定しません。家族を守りたい、その想いは、皆様も同じはずです。だが、それ故に私は、結果に責任を持つ者です」
視線を横一列に送る。
「情を棄てよ、などと無慈悲に言うつもりはありません。むしろ、情こそが誰をも突き動かす力です。問題は——情に溺れることで理を見失うことではなく、情を根拠にしつつ、理でそれを支えることです」
静かな語り口だが、言葉の一つ一つに重みがある。議場に、微かな静寂が戻る。
「もし、私を『感情的』と断じるのならば——どうぞ、その場で私を論理で裁いてください。あなた方の『理』がどれほど有効か、見せて貰いましょう」
沈黙のあと、空気が揺れる。だが、もはや先のような嘲りばかりではない。戸惑いが混じる。
アウグスタは深く息を吸った。盤石ではない。しかし、ここで立ち止まるわけにはいかない。
——ようやく、立てる。
——議場に沈黙が広がった。
アウグスタの言葉の余韻の中、誰もが呼吸を整える。攻撃的だった議員も、論理と数字に押され、眉をひそめたまま迷う。
そこへ、フィオナが声を上げる。
「奥方様のお考えに、賛同いたします。私たち商人も、この方針で共に動きます」
小さな拍手が静かに響く。若手議員たちが次々に続き、重ねるように言葉を選んで協力の意思を示す。
「我々も、異界資源を安定的に扱うなら……指導に従いましょう」
机の上で指が軽く鳴る。紙の擦れ合う音が、低く場内に広がる。完全な賛同ではないが、妨害の意思も薄れていく。
アウグスタは視線を巡らせ、冷静に応じる。
「ありがとうございます。皆様の協力なくして、この都市の安全も、秩序も守れません」
利害の対立する者の視線も、もはや敵意ではなく、計算に基づく判断に変わった。誰もが、現状で反発することは自らを危険に晒す行為だと知っていた。
議場の熱がゆっくりと落ち着き、代行の言葉に耳を傾ける空気が支配する。
「暫定措置の承認をもって、本日の議会を終了いたします」
議長の声に、場内はわずかに頷きと囁きを返す。アウグスタはゆっくりと息を吐き、黒衣の裾を整える。胸の奥には、安堵と同時に、重い責任がずっしりと残る。
扉の傍ら、アントニオが一歩前に出ることもなく、ただ見つめている。その存在が、彼女の心に確かな安定をもたらした。
議場のざわめきが落ち着きを取り戻す。全員が完全な賛同を示したわけではない。しかし、反発や妨害の意思は薄れ、協力の空気が漂い始めていた。
議員たちはそれぞれの席を立ち、書類や資料を整理し始める。賛成の声も、反対の声も、混じり合いながら、静かに都市の未来への決断を確認していた。
——会議場外、廊下。
アウグスタは深く息を吸い込んで扉を開けると、光差す廊下へと出た。大窓の外には港町トラーパニの穏やかな光景が広がる。船団が静かに波を切り、街の喧騒が遠くに漂う。
オルト婆やは先に帰した。二人には、大いに働いて貰わねばならない。
彼女は一人ゆっくりと歩きながら、次の行動を頭の中で整理する。
考え込んで曲がった角の先に、静かに去ってゆくアントニオの背中が見えた。開け放たれたままの窓。馴染み深い潮風が頬をくすぐる。
彼も、港を眺めながら風を感じていたのだろうか。
その背中は止まることなく離れてゆく。何故、彼が来ていたのかは知る由もない。ただその存在が、孤独な決断の重さを少しだけ軽くしてくれていた。
アウグスタは黒衣を揺らしながら再び歩き出す。議会で示した理と利を、街の現実に具現化するために。
そして、彼女の目は、港湾の向こう、静かに揺れる波を見据えていた。
——これで、暫定措置は動き出す。だが戦いは、まだ終わらない。都市の秩序を守るため、アウグスタは前を向く。冷たい光を帯びた瞳で、次の一手を見据えながら。




