11話 ざわめく港町。小さな騒ぎのその先に。
陽の光が柔らかに街角を照らしていた。
リナはルカの小さな手を引いて、石畳の道を歩いている。
ただのお出掛けなのに、ルカの頬は少し赤く染まり、目にはうっすらとした喜びの輝きが戻っていた。
「ルカ様、今日もお出掛けできてよかったね」
「うん、リナお姉様と一緒だから楽しい」
リナは微笑みながら、並ぶ細い肩を見下す。
「わっ!」
その肩が小さく跳ねて、握られた手がほんの少しだけ引っ張られる。
「猫さんですねー」
どうやら横切った野良猫に、驚いたようだった。
孤児院にいた頃の歳下の子達は皆、悪戯小僧ばかりだったので、こんな他愛のない仕草が可愛らしい。
もっと、楽しいことを教えてあげたい。
お姉ちゃん的欲求が湧き上がるリナは、そんなことを考えている。
学問や鍛錬には熱心なルカだが、沢山いる「弟達」とは違い、子供らしい遊びはあまり知らないようだから、と。それは勿体無いことで。
だからこそ、こうしたお出掛けはリナにとっても、楽しい息抜きとなっている。
貿易により成り立つトラーパニは、雑貨屋や服飾店だって豊富なのだ。
色とりどりの布を吊るすお店、刺激的な香辛料の匂い、飴を売る屋台……見るだけでも心が弾む景色が、いくらでもあった。
たまには、子供らしく遊んだっていいよね。
そう思う一方で、街の空気には何か違和感を覚えていた。
いつものトラーパニは、人も声も温かくて、少しくらい騒がしくても安心できる場所だった。
でも——今日は、何かが違う。
いつもなら、遊ぶ子供たちの笑い声が響くはずなのに、今日はほとんど聞こえてこない。
立ち止まる人々の表情も、どこか張り詰めている。
陽気な港町らしくもない、どこか冷めた空気。
目に映るのは、見慣れない顔の商人たち。警戒心を隠さず、通行人を気にしてざわついている。
なんとなく、不安が押し寄せてくるような。
「なんだか……、街全体がぎこちないよ」
リナは眉をひそめ、小さな不安を口にした。
ドシン、ガタン、ガラガラ……。
その時、大きな音が鳴る。続けて、荒い罵り声が聴こえてきた。
見れば二組の商人らしき男達が、露店の前で取り合うように箱を引き合い、言葉を交わしている。
よく目にする、屑霊核の露天前だった。市場には流れないような、ささやかな霊核を扱うお店。
「え? あの店で、なんで……?」
細かな日用品や玩具に使われる使い捨ての霊核を、子供の小遣いでも買える程度の値段で出している露天だった。
子供好きな、優しいおじさん冒険者が店主をしている。孤児院にいた頃は、よくお世話になっていた。
そんなおじさん店主の静止の声など無視し、彼等は品物を叩き、口から泡を飛ばしながら、威圧的な態度で相手を押し込もうとしている。
周囲の別の商人や通行人の視線が一斉に集まり、ざわつきが広がっていった。
リナは息を飲む。嫌な予感が胸に広がり、思わずルカの手を強く握っていた。
ルカも、その手を離さないまま——じっと前を見つめている。
「どうして、こんなことが…?」
そこへ護衛団——街の治安を守る行政による民間委託組織——が駆けつけ、怒鳴り合いの諍いはあっけなく終わった。
箱は奪われる前に取り戻され、商人たちも渋々と引き下がっていく。
……それだけの、小さな騒ぎだったはずなのに。
胸の奥に残ったざわつきは、むしろ強くなっていく。
まるで街全体が、何かを押し隠しているみたいで。
リナは、隣にいるルカの手を握り直した。
すると、ルカもそっと握り返してくる。
その指先には、静かな決意のようなものが宿っていた。
……ルカは、何を感じているのだろう?
リナの手を握ったまま、ルカは視線を前に据え、頭の中で整理を始める。
屑霊核の露天で起きた小競り合い——表面的には些細な騒ぎだ。
護衛団が駆けつけ、あっけなく収束したことで、街の秩序は保たれたようにも見える。
しかし、普段ならば誰も目を向けないはずの品に、他所から来たらしき商人達が手を出そうとした。
この事実は、ただの偶然とは思えない。
王都では霊核が高騰している。それはフィオナお姉様からの情報だった。
こうして小さな霊核にまで関心が向けられているということは、他州でも同様に価値が高まっている可能性がある。
あるいは、流通や需要の変化が、この街の経済構造にまで微細な影響を与えているのかもしれない。
ルカの頭の中では断片的な情報が淡々と整理され、因果や兆候の線が見えかけている。
街のざわめきや商人たちの警戒心、通行人の立ち止まる様子。
そして何より、子供達の少なさ。
そのどれもが、微細な違和感として残った。
大人達は何かを警戒している。
子供達を危険に晒さぬように、自由を抑制しているのだろう。
小さな異常の積み重ねが、やがて大きな変化の兆しを示している。そうルカは直感している。
「ねえ、ルカ様。あんな小さな霊核にまで手を出すなんて、どうしてかしら?」
リナの問いかけに、ルカは口を開かずに小さく頷くだけだった。
言葉よりも、冷静に見つめる視線のほうが、状況の深刻さを物語る。
屋敷への帰路、街並みを歩きながらルカは考える。
この騒ぎは単なる偶然なのか。
それとも、潮目の変化を示す序章なのか。
普段ならば見過ごされる小競り合いですら、何かを伝えている。
ルカは、街や商人、霊核市場の動きなどを慎重に頭の中で繋ぎ合わせ、報告の準備を進めていた。
「屋敷に戻ったら、ちゃんと奥方様に報告した方が良いよね? お姉ちゃんと一緒に行こう?」
リナの提案にルカは頷き、指先でリナの手をそっと握り返した。
屋敷に戻ったルカは、街での様子を簡潔に報告した。リナも少し補足する。
アウグスタは二人の言葉に耳を傾けながら、頭の中で情報を整理する。
表面的には小さな騒ぎでも、そこに潜む兆候を見逃すわけにはいかない。
「……わかったわ。ありがとう、二人とも」
報告を聞き終えると、アウグスタは静かに指示を出した。
「夕食後に少し時間をとる。街での出来事について、家としての方針を固める会議を開くわ。ルカ、リナ。二人にも出席してもらうわよ」
二人は頷き、僅かな緊張を見せながら席を外した。
どちらも、まだまだ未熟。
けれど、小規模とはいえ初めて異界攻略をしたあの日から、目覚ましい成長を続けいるようだった。
特にルカ。迷いが晴れたとでもいうような鋭い観察力にはアウグスタでさえ、舌を巻く思いであった。
その後は屋敷での夕食も終わる。会話は穏やかに、日常の軽い話題に終始したが、アウグスタの心は既に先ほどの報告の分析に向いていた。
目の端で二人を見やりつつ、彼女は会議で取り上げるべき課題や方針を頭の中でまとめていく。
小さな諍いは街のあちこちで起きている。
州外から来た者同士、あるいは地元の商人との間でも、互いの警戒心が擦り切れかけている。
さらに、数日前から州をまたいで流れた「ある噂」が、異様な速度で広がっていた。
——貴族や官僚の行方不明。
——異形と化した、その骸。
それは虚実が入り混じり、尾ひれをつけながら熱病のように各地に伝わる。
オルトたちが討伐した異界の主は、まさに行方不明者の末路だった。
この現実を知るアウグスタには、噂を妄言として切り捨てるわけにはいかない。
日常を守るための合理的な防衛行動も、街の空気を冷たくしていく。
霊核を買い占める者、備蓄を増やす商人、資金を引き上げる者——いずれも愚かではない。寧ろ当然だ。
だがその行為が、疑心を生み、笑い声を減らし、子供たちを外で遊ばせなくさせている。
人々はまだ何も起きていないのに、「起こることを前提として」呼吸し始めていた。
小さな不満が集まり、大きなうねりになる前に、舵を取る者が必要だ。そして、それこそが貴族の責務。
理と利益をもって秩序を守る——。
夫の死から十四年、そして祖父没後の十二年。無事次代の希望へ繋ぐため、アウグスタに預けられたキエッリーニはそう掲げてきた。
それでも、情が心の片隅で揺れる。
守りたいもの、失いたくないもの——その思いは、理の判断の上に重くのしかかる。
だが、今動かなければ、何も始まらない。
アウグスタは静かに息をつき、二人を自室に呼び入れた。既にオルトと婆や、フィオナも集まっている。
燭台の柔らかい光の下で、街で起きた異変への対応策を話し合う家族会議が、始まろうとしていた。
燭台の柔らかい光がテーブルを照らす中、アウグスタは資料を広げた。
屋敷の小会議室は静まり返り、出席者それぞれが思いを巡らせている。
「皆、今日の街の様子について、迅速に対応策を考えたい」
アウグスタは言葉を切り、全員の顔を順に見渡す。フィオナが静かに手帳をめくった。
「市中の霊核取引に関して、既に異常な動きが確認されています。小商人が被害を受ける前に、資金面での支援も視野に入れる必要があります」
婆やが腕を組む。
「通りの様子ば、商人は皆びくびくしとっとたい。子供たちも外で遊ばんと、落ち着きがなかとよ。早急に安心感を出さねばならんけんが」
オルトは拳を軽く握り、顔をしかめた。
「手っ取り早く、市場を押さえて買い占め者を直接取り締まりゃ良いんじゃねぇか? 街の皆も安心するだろう?」
アウグスタは首を横に振る。
「即効性は理解する。だが、強硬策は民心を逆撫でしかねない。それに、この流れは容易に収まるものではない。だからまず、弱者を守りつつ秩序を保つ形で対処するわ」
ルカが手を挙げ、静かに質問する。
「具体的には?」
アウグスタは資料を指し示す前に、状況の具体例を添えた。
「昨日、市場の通りであった小競り合い——露店の霊核が突如、他州から来た商人に狙われた事例があるの。こういうことが繰り返されれば、小商人は大打撃を受けるわ」
目を巡らせながら、指で数字や場所をなぞる。
「まず、露店や行商に簡単な取引記録を提出してもらう。冒険者組合にも協力を要請して、取引の透明化と監督を進めるの」
ルカは小さく頷いた。
「次に買い占めへの対応ね」
後をフィオナが継いで続ける。既に私の意図を汲んでいるか。賢い子だ。アウグスタはそう考えた。
「誰か一人が大量購入できる数を制限する。回収も罰則ではなく、『保護』の名目で行い、補償も示すつもりよ。——ね? 奥方様」
婆やが言葉を添える。
「えすからんごつ、損失が出そうな小商人には屋敷の予算から補填も出すつもりとね。フィオナ、ミリオッツイば噛ませるつもりと?」
その言葉に、「家の父も経験者ですからね」と舌を出すフィオナ。
「トラーパニ商人としても、見過ごせる状況じゃないからね。婆やも、爺婆たちへの宣伝任せたよ」
軽快な様子の二人にも、オルトは眉をひそめ、思わず拳に力を込める。
「——俺には、このまま待つってのがもどかしくて仕方ねぇんだ」
ルカが瞳を細め、口元に笑みを浮かべる。
「オルトは浅慮。……でも、それでいい」
「んあ? 俺はこれでも真面目にだなぁ……」
息子は無情な突っ込みにもへこたれなかった。
だが、彼の眼差しは焦燥に揺れ、屋敷の柔らかな光を受けてもなお鋭い。
「だけど、手遅れになる前に制圧した方が……。どんな奴等が紛れ込んでいるかも、わからねーしよ」
アウグスタは深く息をつき、指先で資料の端を押さえながら、冷静に答える。
「オルト、それは最後の手段。まずは弱者を守ることを優先するの。必要な場所に優先供給しつつ、市場の独占を避け、認可による管理で安全を確保する」
ルカが小さく頷く。
「なるほど。配慮を見せて混乱を抑える」
リナも微笑んだ。
「怖い思いをしている人たちを、守ってあげるのね」
アウグスタは二人の顔を見ながら、短く頷いた。
「ええ、これが今、私たちにできる最善の策だと考えているわ。細部を詰めます。何か意見があれば——」
そうして夜更け近くまで掛けて、キエッリーニ・トラーパニ子爵としての声明は固められていった。
これを、明日の緊急招集と共に本会議へと上げる。
確かな実績がある。想定する反論や懸念も織り込み済みだ。フィオナにも、「商人」の立場から援護を貰う事になる。
これは行政府が一丸とならなければ、成り立たない政策だ。理解と利益が必要となる。
根回しこそ足りないが、議会は理に聡い商人達が取り仕切る。充分に説得は可能だろう。
非常事態への対策は、整えられつつあった。後は通し、実行に移すのみ。
しかし、この策がどのような波紋を呼ぶか、まだ誰も知らなかった。




