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10話 陽光の影、星灯りの下。


 昼の光が屋敷の窓から差し込み、白木のテーブルに温かな輝きを落としていた。二人は向かい合って席につき、軽食の用意を静かに待つ。


 ルカは指先でテーブルの木目をなぞりながら、心の中で小さな波を感じていた。平穏な昼の光と、胸の奥にくすぶる不安の温度が微かに交差する。


 婆やが軽い足取りで立ち働き、籠から小さな菓子と暖かなスープを取り出した。

 黄色みを帯びてしっとりとした菓子パンに、溢れそうなほどの生クリームが挟まれている。スープの香りは豊かで上品。昼食を取るのは、労働者の習慣だった。


 ルカは窓辺に立ち、外の港をぼんやりと見やる。三人が出て行ってから、すでにそれなりの時間が経っていた。


 波の揺らめき、船の帆が揺れる音、人々の声——日常はいつも通りだ。しかし、自分の胸はざわつく。幼い日の恐怖、何もしなかった夜の記憶が、静かな日差しの中で微かに疼く。


 ——不安はない。筈。


 言い聞かせる。それでも、心の奥でざわつくものがあった。

 あの夜——父上が城の中に発生した異界を斬ったとき、幼い自分はただ見ているしかなかった。

 巨大な異界生物が地面を割り、影を伸ばす様は、恐ろしくも、どこか心に刻まれている。


「ルカ、どうしたの」


 奥方様の声が、頭上から穏やかに響いた。どうやら俯いてしまっていたらしい。


「……いえ、なんでもありません」


 言葉は途切れた。スープを一口啜り、気を落ち着かせようとするが、胸の中の焦燥は収まらない。

 自分のこと、三人のこと、異界のこと——そして、何か、見えない何かがこちらを見ている気配まである。


「ふふっ。行きたいのなら、行きなさいな」


 アウグスタの言葉に、ルカの指先が動いた。


 ——行く? 何処へ?


 昨夜、自分は何もしなかった。拒絶して、逃げて、孤独に耐えた。それが正しいと思っていた——守られるべき身分なら、そうするべき。


 けれど。


「あなたを縛るものは何もないわ」


 その一言が、胸の奥の何かを揺さぶった。


 ——自分で選ぶ。


 もう逃げない。守るだけの存在ではなく、守るために動く自分でありたい。

 港も、仲間も、自分で選んだ道で守る——その思いが胸を満たした。


「好きになさいな。自身で選んだ『何か』なら」


 その声に、ルカは思わず瞳を見開いた。自分で選ぶ? 自分の意志? それは許されるの?


「それはとても、残酷なことですけどね」


 悪戯な笑みに、自問自答が重なる。その隙間に、心の奥の曇りが、一瞬だけ晴れた。


「……良いの? ……皆に、迷惑じゃないの?」


 微笑む奥方様の眼差しは優しく、背中を押されたルカは立ち上がった。

 視線は窓の外、港を越えた先の道へ。


「ごちそうさま。——いってきます」


 幼い頃の記憶が閃光のように蘇る。父上の討伐、異界の生き物、恐怖と圧倒——しかし、今は違う。

 自分には、行ける力がある。周囲に見つからず、一人で向かうことだってできる。



 昼の陽光はまだ強く、町を明るく照らしていた。

 オルトとフィオナ、リナの三人は小規模異界へと足を踏み入れていた。地面はひび割れ、空気は濁るが、異界生物の気配は薄い。進行は拍子抜けするほど順調だった。


「なんだ、思ったより平和じゃん」


 オルトが肩を回しながら呟く。だが、その言葉を打ち消すように——


 赤い布を腕に巻いた男たちが、道の先を塞いでいた。

 先日ルカとリナに絡んだ連中だ。今日は人数が多く、銃も手にしている。


「は? なんでこいつら、こんな場所に……」


 眉を跳ねさせるオルト。赤布の一人が不敵ににやつき、仲間たちに目配せした。


「異界の中なら、何しても『消えた』で終わりだろ?」

「いい女もいるしよ。遊んでから——」


 最後まで言えなかった。


 オルトの姿が掻き消え、次の瞬間には一人の腕を逆関節に折って地に叩きつけていた。

 弾丸が飛ぶ。だが、肉体強化の術式を纏った腕で受け止め、そのまま銃を握り潰す。

 赤布の男たちは次々と倒れ、縄で縛るのも簡単な作業だった。


「終わり。……くだらねぇ」


 大斧を担ぎ直すオルト。肩の力を抜き、冷ややかに吐息をもらす。


「でも、異界を人間が利用し始めた、ってことよね」


 フィオナの言葉は軽くない。緊張の余韻を断ち切らず、戦場の空気を反映していた。

 リナは周囲を見回し、不安げに息を吐く。


「このまま放っておいたら、もっと悪いことに使われるかも……」


 その時——空気が、微かに震えた。

 肌を撫でるような、骨の奥まで凍るような圧。異界そのものが呼吸を始めたかのような気配が奥へ漂う。


「……主、かもな」


 低く呟くオルト。視線を前に向け、静かに身構える。


 ルカは港町の路地を駆け抜け、異界の入口へ。

 昼の光は遠く、路地の影は長く伸び、湿った石畳に足音が響く。息は荒く、鼓動は胸の奥でずしりと響いた。


 角を曲がると仲間たちの背中が視界に入った。

 オルトの肩越しに、リナは震える手で鞄を握り、冷静に周囲を警戒するフィオナ。

 初めて、四人が同じ戦場に揃った瞬間だった。


「間に合わなかったら……」


 幼い日の無力感が脳裏をよぎる。父上の討伐の夜、巨大な異界生物の影に立ち尽くし、何もできなかったあの恐怖。

 だが今は違う。守るべき仲間のため、自分の意思で動いている——その実感が足先の震えを少しずつ抑え、心を熱くする。


「……よし、間に合った」


 呟いたその声は、緊張と安堵が混ざった、初めての達成感を含む。


「遅刻だぜ」


 短い声だけのオルト。


「いらっしゃい!」


 抱きついてくるリナ。ルカは双剣を抜いたままだ。危なさに内心で声が出る。


「少し、ふっきれたみたいね? 護衛対象というのは変わらないけど」


 悪戯なフィオナの微笑。今なら三人の優しさや気遣いを、素直に受け取れる。


「私より未熟だから、オルトが心配」


 憤慨するオルトだが、素直な言葉だ。

 こうして、ルカは初めて『仲間』として、四人で異界へ挑むことになった。


 奥に進むと、歪な人影——二つの肉体が不自然に融合し、巨体の怪物となっている。

 四足四腕、双頭。皮膚は部分的に焼け焦げ、内臓と骨が露出し、目だけが赤く光る。


 リナは思わず後ずさり、震え声を漏らした。


「な、何これ……!」


 フィオナは冷静に指摘する。


「……あれ、去年行方不明になった男爵と、財務省の官僚よ。死体が、怪物化している」


 オルトは肩で息をしながら大斧を握り直す。

 ルカも剣を握り、胸の奥でざわめく——異界の気配、継ぎ接ぎの肉の中で輝く霊核。それはこの怪物の本質を告げる。


 怪物は唸り声を上げ、二つの頭部が咆哮する。

 動きは鈍重だが、圧倒的な存在感で空気を押し潰す。咆哮だけで空気が裂け、リナは思わず耳を押さえた。


 オルトは大斧を振りかぶり、全身の力をぶつける。

 刃が怪物の右腕に深く突き刺さり、肉と骨が裂け、黒い液が飛び散る。


 ルカも切り込む。連携で動きを封じるはずが、怪物は予想外の速度で反撃する。


「まだまだ、遅い」

「へっ、やるじゃねぇかルカ」


 双剣と大斧。二人の得物が怪物の腕を断つ。

 ルカは感じた——オルトと自分の動きが完全に一体化していることを。

 胸の奥で、仲間の存在が自分の力を呼び覚まし、恐怖ではなく熱い戦意が湧く。


 リナは治癒の詠唱を紡ぎ、フィオナは二丁拳銃で状況を分析。

 やがて怪物はうめき、力尽きて地に伏した。絡み合った死体は崩れ、濃密だった異界術力の残滓が静かに散っていく。


 戦いの後、異界の空気は軽くなり、町の夜の匂いが遠くから漂い始めた。

 ルカは剣を下ろし、胸の奥に残る違和感を覚える——ただ倒しただけでは、異界の深淵は見えない。


 オルトは倒れた赤布たちを淡々と異界の外へ運び出す。

 リナは安堵の息を吐き、フィオナは周囲を確認してルカを振り返る。


「ルカ、大丈夫……?」


 ルカは静かに頷いた。


「うん……でも、まだ感じる……変な気配を」


 理由はわからない。

 ただ、異界はまだ生きている——それだけが確かだ。



 屋敷へ戻る道、ルカは夜風に髪を撫でられ、微かな疲労を感じる。

 胸の奥に残るざわめきは、戦いの恐怖ではなく——理解しきれない何かへの予感だった。


 屋敷の扉をくぐると、昼間の温かさは消え、夜の静寂が静かに広がる。

 深く息を吐き、ルカは短く目を閉じる。異界の残響はまだ息づいている——今はそれをただ受け止めるだけでよい。



 アウグスタは椅子に腰を下ろし、手元の書類にも視線を落とさず、夜の屋敷を静かに見渡した。

 外から戻った四人の気配は消え、部屋には自分と静かな灯火だけが残っている。


 深く息を吐き、肩の力を抜く。手のひらで触れる書類の感触に意識を集中し、頭の中で昼間の出来事や各所からの報告を整理する。


 ——昼の光の喧騒は、今や遠い。


 婆やは既に二大貴族への使者として霊核供給協力を取り付けていた。

 オルトも組合を通し、冒険者たちを動かしている。

 そしてフィオナが物流と帳簿管理を担うことで、秩序の維持も確実だった。

 赤布の一件が、更なる敵の思惑や異界の利用の可能性を匂わせている。


 ——すべては町の安定と守るべき者たちのため。


 だが胸の奥に微かに残るざわつきは消えない。

 霊核供給は、民心の安定を保つ一方で、赤い獅子たちの思惑を利する危うさも孕む。

 それでも、この危うさを受け入れ、敢えて動く。

 過去に祖父が行った復讐戦や暗殺の痕跡を知る者として、覚悟を持っての選択だ。


 夜の屋敷に静かに座し、港町の灯が波に揺れるのを眺めながら、アウグスタは思考を巡らせる。

 情報と経験を武器に、次の夜に備える——それだけが、今できることだった。



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