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最後の花

作者:

 街中に立ち込める黒い煙は、いつの間にか日常的風景となってしまった。町人の反対を押し切って建設された新しい工場も、完成したのはつい一週間前だというのに、川の水面には虹色の油膜が揺れている。

 花屋の男はここ数年の街の発展具合を考え、ひどく重たい気持ちになった。ほんの五年前、彼が十かそこらの頃にはまだ辺りは木や草に囲まれ、花々、虫たちで溢れかえっていた。それが今ではみる影もない。化学薬品の染み込んだ水はあっという間に自然を枯らしてしまった。緑豊かな街は、灰色の工場と灰色の煙ばかりが目に入る、随分と単調な場所になった。太陽光さえも、薄暗い雲に遮られる日が続いている。

「すみません。」

 昼過ぎの店で、控えめな声がした。

「プレゼント用の花が欲しいのですが。」

 顔を上げるとそこには、ふんわりとした茶色の髪の女性がいた。花屋の男は突然の来店に我に返る。ここ最近、店には閑古鳥が鳴いていて、直接人が来ることなどなくなっていたものだから。

「はい、どなたへのプレゼントでしょう。お入れしたい花などはございますか?」

 すっと冷静になり応対したものの、店にある花は少ない。作れる花束は限られている。

「誰に……あの、友人に、プレゼントしたくて。」 

 緊張からかまごまごと答える女性に申し訳なく思いながら、

「お相手は女性でしょうか、今日ある花は店内のもののみになります。ご希望に添える花がない場合、後日の受け渡しとなりますが、よろしいですか。」

 と尋ねた。

「いえ、今ある中で見繕っていただければと。友人は女性で、黄色が好きなんです。」

「それでしたら、キンセンカなどはどうでしょうか、ちょうどここにある花です。」

 レジ前の花を示すと、女性は、眼鏡奥のまなじりを和らげ、花の茎をそっとなぞった。

「優しい色ですね。これでお願いします。」

 その日から女性は度々、この店へ足を運ぶようになった。幾度か女性に花を作った後で、花屋の男は彼女が、花屋の近くにある病院へ入って行くことに気づいた。花屋の後すぐその病院へ入っていくのだから、彼女のいう友人はそこに入院しているのだろう。足繁く通っているようで、三日に一度は彼女と会う。彼女とは、花の話をよくした。

「花を見ていると、心の中がこの綺麗な色で満たされて、なんというか、豊かな人間のままいられる気がするんです。現実にもちゃんと明るい色があるって思える。」 

 そこまで言って彼女は照れたように微笑みながら、花の茎をそっと指で撫でた。「いつ見ても綺麗。素敵な花束をありがとうございます。」 

 そう言う彼女の耳は桃色に染まっていた。気づくと男は、彼女に惹かれていた。会うたびに、惹かれていった。

 夏が終わりに近づいた頃、彼女は突然来なくなった。街では新しくできた工場による水中汚染が、作物に膨大な被害を与えたとかで、町人によるデモが絶えなかった。店内の花も、ほとんどない。

 再び彼女が店を訪れてたのは、真冬の夕暮れ時であった。店じまいの時間ギリギリに、倒れ込むように店へ入って来たのだ。

「すみません。お久しぶりです。まだお店は空いてますか。」

 最後に会った時よりも顔色が悪く見えるのは、寒さのせいか。

「ええ。ですが、花はもう後一つしかないんです。」

 男が持って来たのは、植木鉢だった。しかも蕾のだ。

「先ほど団体の注文を受けてしまって、余りももうこれしか。」  

 だから注文は受けられないと、はっきり言ってしまえばいいのだが、その言葉が口から出ない。

「では、その鉢をいただいても?」 

「もちろん構いませんが、これ一つでよろしいのですか。」 

 よろしいも何も、これしか渡すことはできないのだが、思わず問い返してしまう。

「はい。花が咲くのが楽しみです。」 

 ふんわりと微笑むその表情は以前と変わらない。花のような可憐な笑みだった。

 その日以降、彼女は再び訪れなくなった。冬が過ぎて春になっても、彼女はやってこない。町人のデモに耐えかねた工場会社は、水質や大気に関する規定を見直すことで合意した。花屋にも、花が増えた。

 ちょうどその時期に、男の友人が入院するほどの大怪我を負った。友人には悪いが、願ったり叶ったりのタイミングであった。もちろん、病院に入院しているのは彼女の友人であるから、彼女に会えるわけではないのだが。 男は不審がられないよう廊下からそっと室内を眺めて、あの鉢植えを探した。ところが、それらしいものは見つからない。何度か確かめた後で諦めた男は、友人を見舞うと、帰路につこうとした。その時、ロビーに飾ってある鉢植えが目に入った。暫く呆然とした後、側の看護師に声をかけた。すると、どうやら、去年の冬に亡くなった患者のものだと言う。彼女の友人は亡くなったようだ。

「よく病院を出ては、花屋へ花を買いに行くほど、花が好きだったみたいでね。」 

 つうっと、嫌な汗が伝った。

「亡くなる前もここを抜け出して、この鉢植えを買ってきたの。」 

 困ったようにそう言う看護師の言葉が、頭にこだまする。乾いた口の中で唾を飲み込んだ。

「あの、すみません。私近くの花屋の、」 

 そう切り出し、なんとか、その女性の顔がわからないかと尋ねるが、個人情報故と申し訳なさそうに断られてしまった。ただ、茶色の髪の女性だとだけ。彼女の好きな黄色が、男の視界を占めた。

  

 

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