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カフェ・ド・カグラザカ

婚約破棄された令嬢の前に現れたのは屋台カフェ。〜オフェリアの場合〜

作者: ルーシャオ

 春。雪は溶け、あちこちで草木の芽吹きが感じられる。


 移動の障害となっていた雪がなくなれば人の行き交いが多くなり、河川の桟橋には荷物を積んだ船が多く浮かびはじめ、王都は賑やかだ。


 しかし、ひっそりとした片隅の公園のベンチに浮かない顔の貴族令嬢がいることも事実であり、彼女にとっては慣れない大都市で所在なさげに俯くだけの理由がある。


 大きなベージュコートに身を包むトッド子爵家令嬢オフェリアは、珍しいピンクブロンドの長髪を腰よりも伸ばし、毎日櫛でしっかり梳いている。透き通るような白い肌はここよりも北の、未だ多く雪の残る土地から来た証であり、春先の強い日差しが苦手であるため、明るい時間帯は寒々しい日陰から出られない。そのことを知ったのはつい先ほどであり、鼻先と頬が少々赤く焼けてしまっている。


 はあ、とオフェリアは小さな口で大きなため息をついた。


 オフェリアにとっては、たとえ同じ国の中であろうと片田舎の故郷に比べれば王都は異邦同然であり、公園に植えられている木々さえも故郷のものとは種類が異なる。素朴な石積みの家なんて、王都には一軒もない。整備された道、区画ごとに建つ洗練された建物、遠くでは子どもの追いかけっこの叫び声が聞こえ、どこからか春を祝う合唱も耳に届く、まるで別世界だ。


 それに——いつの間にかベンチの隣にいる、奇妙なカンカン帽(キャノチエ)の男性もオフェリアには怪しさ満点だ。金縁の丸眼鏡、ライトブラウンのチェック柄フランネルシャツとエプロン、水色のチーフ……おおよそ、オフェリアの故郷では見ない格好をしていた。都会にはこんな人がたくさんいるのかしら、とオフェリアは何となく自分を納得させる材料を探すが、王都に着いてからはまるで嫌な思い出しかないため、さっぱりだ。


 とはいえ、男性はベンチに座るわけではなく、ベンチ横で自転車を整備していただけだった。それに気付かずオフェリアがベンチに座り、やっと先客だった男性に意識が向いたのだ。


 小さなカウンターがくっついた移動式店舗、それが男性の水色の自転車を見た感想だ。前カゴの上にはガラスで囲まれた炭コンロがあり、細長い口のコーヒーケトルが鎮座している。前輪を隠す両側の板には、店名とメニュー表の文字が踊っていた。


 オフェリアはそれをそっと読む。


「『カフェ・ド・カグラザカ』……カフェ……?」


 オフェリアの頭の中には、表通りでちらりと見た街角のカフェ店舗が思い浮かぶ。道路に並べられたテーブルと椅子、暖かいコーヒーと甘いお菓子の匂い、貴族ではなくても豊かな人々が男女問わず集って談笑する様子。


 ただ、ここは王都片隅の公園だ。客など一人もおらず、かすかにコーヒー豆の炒った香りはするが、どうやって淹れるのかはオフェリアには見当もつかない。カフェの一軒もない田舎育ちのオフェリアにとって、王都は未知で溢れ返っていた。


 すると、男性がくるりとオフェリアのほうへ振り返った。意図した様子ではなく、オフェリアを視界に収めるやいなや、驚いて手に持っていた工具を落としそうになっていた。


「うわ、びっくりした。全然気付かなかった」


 思わず、オフェリアは頭を下げる。


「も、申し訳ございません。私も、あなたに気付かずここに座ってしまっていて、今気付いたばかりなのです」

「ああ、そうか、なるほど。いやいや、気にしないで。集中しすぎるとすーぐこれだ、まったく」


 男性はぶつくさ言って、自転車の輪留めを固定し、前方カゴのカウンターを広げていく。


「ところで、お嬢さんはコーヒーは好きかい? 新しい豆が入ったんだが、試飲してくれないか?」

「え……あ、その……」

「怪しくない怪しくない。まだ春とはいえ寒いし、せっかくだから一緒に飲もうって話さ」

「お誘いはとても嬉しいのですけれど……私、コーヒーは飲んだことがなくって」

「それならちょうどいい。すぐに淹れるから、待っててくれ」


 男性はさっさと小さなマグカップを二つ取り出し、コーヒーを淹れる準備を始めた。なんとなく断りづらく、オフェリアは流されるままに待つことにする。


 元々、オフェリアはそれほど自己主張が出来る性格ではない。のろまでぼんやり、ぐずぐずして嫁の貰い手も逃しそう、なんて年の離れた兄たちには馬鹿にされてきた。故郷にいた時分からこれではいけないと思いつつも、性格なんてそう簡単に変わりはしない。


 でも。


 オフェリアは、もう変わらなければならない、と覚悟を決めて、男性へ話しかけてみた。初対面の男性に自分一人で話しかけるなんて今までなら考えられなかったが、王都に来たことや同道してくれた使用人たちと別れたことと同じ、勢いでやってしまえるのだ、と少しだけオフェリアには自信がついていた。


「あの、王都ではあなたのように、自転車でカフェを営むのでしょうか」

「いいや、俺だけだと思うよ」

「そう、ですか……あまりにも知らないことだらけで、驚いてしまいました」

「そういうもんさ。世の中のことなんて、誰もほとんど知らないよ。俺だって今でもコーヒー豆の焙煎に失敗するんだからね」


 オフェリアはほっとした。男性は客商売をやっているだけあって、話が弾む。


 不意に、スパイスのような特徴的で異国風の薫香と、ほんのり焦げた香ばしさが入り混じって、オフェリアの鼻腔をくすぐった。初めて嗅いだ匂いなのに、なぜか落ち着くその香りの元を視線で辿れば、自転車前カゴ上のカウンターにある密閉瓶の蓋が開けられていた。その中には濃い茶色の豆が七分目ほど入っている。


 花とも甘味とも方向性の違う芳しさに、オフェリアは目が醒める思いだ。


「ああ……いい香りですね。好きになりそうです」

「だろう? 初めてなのにこのよさが分かるなんて、お嬢さんも大したもんだ」

「そんなこと、ありませんわ」


 笑いながら、男性は手持ちのミルで豆を軽快に挽いていく。その手際の良さをオフェリアがぼうっと眺めていると、男性は目の前の作業から視線を外さずにこう言った。


「何かあったのかい?」

「え?」

「湯が沸くまで、少し時間がある。好きに話してくれていい」


 自転車後輪横のバッグから取り出されたガラスボトルから、細長い口のケトルへ水が注がれていく。炭コンロにかけられ、じわじわと炙られていくケトルは、おそらくまだまだうんともすんとも言わない。


 少しだけ緩んでいたオフェリアの顔は、途端に固くなり、視線は下を向いた。


 水色の瞳は薄けた土の地面を撫でるが、何の感慨も浮かばない。あの人も私に対して同じような目をしていたのかしら、などと思うくらいには、オフェリアはまだ未練があった。


 誰に話す謂れもないが、話さないでいられるほどオフェリアは心が強くはなかった。故郷から遠く離れた土地にやってきた心細さも、普段なら沈黙を保つオフェリアの心を溶かしたのかもしれない。


 オフェリアは、ポツポツと独白のようにつぶやく。


「実は、婚約者に会いにきたのですけれど、その……なかったことになりました」


 オフェリアの耳には、ミルの鋼鉄の歯が豆を砕く音が聞こえる。その音に紛れて聞こえなければそれでもいい、と思って、さらに口を開く。


「私、トッド子爵家のオフェリアと申します。その、王都にいる婚約者……と思っていた方からは、幼いころの口約束は婚約ではない、と。そんなはずはないと思いつつも、それ以上問い詰めることもできず、お屋敷の玄関から追い出されてしまいました。先年、故郷の父が伏せってしまって、死ぬ前にお金を工面して私を王都へ送るから、そちらで幸せになりなさいと言ってくれたのに」


 口に出してしまえば、自分はなんと愚かな話を信じていたのだろう。確認だってできたはずなのにその暇もなく故郷を発ち、勝手に婚約者と思っていた男性の家へ押しかけて断られた。恥ずかしい、田舎娘が舞い上がって自滅だなんて、オフェリアは自分をとことん責めたくなる。


 だが、ずっと信じていただけに——婚約という言葉をそう軽々しく扱うべきではないという感覚や常識が彼とも一致していたと思っていただけに、オフェリアの落胆は大きい。


 はあ、と大きなため息が漏れる。コーヒーミルの音が止んで、男性は問いを挟む。


「ふむ、貴族の婚約か。どこの家と?」

「アレンツ伯爵家の三男、エルリヒ様です。子どものころ、私の故郷に長期滞在なさっていたのです。そのときに婚約をしたはずなのですけれど、証拠は何もないと突っぱねられてしまいました」


 ここからはるか北方の氷海に面したトッド子爵家の領地は、貧しいながらも美しい雪原と森林を有する。時に狩りを楽しむ貴族がやってくることもあり、アレンツ伯爵家もその一つだった。


 オフェリアがまだ七つにもならないころ、エルリヒという黒髪の少年の案内役を父に申し付けられ、一緒に集落の周辺をよく散策したものだった。やがて仲良くなり、エルリヒはオフェリアへ「大きくなったら結婚しよう」と言い始め、「それにはまずしっかり婚約しなくてはだな」と父親たちもそれを笑って受け入れていた……のだが、果たしてそれは口約束にすぎなかったのか、と今でもオフェリアは疑問に思っている。


 ならばなぜ、オフェリアの父、病床のトッド子爵はオフェリアをエルリヒのいる王都へ送り出したのだろう。口約束ならばそんなことはしないだろうに、もしかしてオフェリアの父さえも口約束を本物と思い込んでいたという話だろうか。それもまた、厳格な父を知るオフェリアには考えられないことだった。


 ところが、である。


「まあ、確かに婚約は家同士の話だから、口約束だけでは無理筋かもしれないが……」

「分かっています。そんなものを鵜呑みにした、田舎者の私が悪いのです。だから」 

「いいや、そうじゃない」

「え?」


 棚からゴソゴソと何かを探しつつ、男性の口からはオフェリアにとって初耳の情報が飛び出す。


「口約束でも婚約という言葉を使った重みは、貴族なら理解しているはずさ。一時期傾いていたアレンツ伯爵家は、最近嫡男が大貴族に取り立てられて復興してね。それだから貧しかったころの約束は全部忘れ去ってしまいたいんだろうさ」


 顔を上げたオフェリアは、思わず唾を呑み込んだ。


 ——そういえば、アレンツ伯爵家はどうしてあのとき北方にやってきて、王都へ帰っていったのか。あれは王都や自領から一時逃げていたのではないだろうか。


 オフェリアは思い出す。


 アレンツ伯爵家の屋敷のエントランスで、オフェリアを一目見た出迎えの執事たちは困惑というよりも何かを言いづらそうな雰囲気で、現れたエルリヒ青年はオフェリアの名を聞くと一瞬反応したものの、結局至極迷惑そうにオフェリアを追い払ってしまった。


 ——それは、やはりエルリヒはオフェリアとの婚約を憶えていたが、もう履行したくないと思ったからなかったことにしたのではないだろうか。


 だとすると、辻褄が合う。


 つまりは、オフェリアは婚約を破棄されたのだ。口約束だったとは言い切れないが、もし何かしらの物証があったとしても、きっとアレンツ伯爵家もエルリヒも認めないだろう。いや、すでに何らかの手を打っていたのかもしれないが、王都からはるか離れたトッド子爵家がそれを知ることはなかったのだろう。


「そんな……」


 ざらざらと荒く挽かれた粉の山からあふれる香りも、オフェリアの意識を逸らすことはできない。現実に打ちのめされたオフェリアは、しばし呆然とする。


 オフェリアにはすでに頼るものがない。今更故郷に戻っても出戻り扱いでよく思われず、帰りの路銀も心許ない。行きは同道する使用人たちもいたが、彼らはトッド子爵家が窮乏のため雇えなくなったからオフェリアの王都行きに同行する旅費をもらってくっついてきただけで、もうとっくに別れてそれぞれの生活のために奔走していることだろう。


 ——だから……だから、ううん、悲しんでいたってしょうがない。落ち込むよりも、やるべきことがあるはずだ。


 厳寒の地で育まれたたくましい北方の民の血は、オフェリアにも流れている。すべての希望が失われたところで、生き抜くことを諦めるわけにはいかないのだ。


 オフェリアの心に不屈の精神(シス)が芽吹いたそのとき、眼前にそっと差し出されたのは小さな黒い焼き菓子だ。蜂蜜とバターの遠慮ない芳醇さが、炭コンロで温められたせいか倍増して、一瞬でオフェリアの意識を現実へと引っ張った。


「ほい、カヌレ。美味しいよ」

「あ、ありがとうございます」

「しかし、お嬢さんは北のほうの出だろう? ここまで来るのも大変だったろうに、ただ追い返すなんてねぇ」


 カヌレを受け取ったオフェリアは、もう嘆かないと決めていた。


「仕方ありませんわ。もし、エルリヒ様に心に決めた方が他にいらっしゃるなら、私なんて邪魔でしかないでしょうし……迷惑なのは間違いありませんもの」

「じゃあ、故郷に戻るのかい?」

「いいえ。もう戻れません。故郷は、長兄と次兄が激しい家督争いをしていて、巻き込まれないようにと遠い王都へ送られた事情もありますので、どこかで生計を立てる道を探します」


 そう、使用人たちと同じく、オフェリアもこの王都で生活していけばいい。貴族令嬢とは名ばかりで教養は乏しいが、薪割りだってできる。刺繍もできるし、狩猟の獲物を捌いて料理だってできる。こればかりは、田舎者であるがゆえの取り柄と言っていいだろう。


 カヌレを一口齧って、オフェリアはふわふわしっとりの生地と厚めの焦げ皮を味わう。これも作れるようになれば、お菓子屋さん(パティスリー)だってできるかも、などと楽しげに思えるほどに、オフェリアは前を向く。


 その表情を見て、男性もニコッと笑っていた。


「ん、前向きなのは立派だ。貴族のご令嬢とは思えないほどに」

「ふふっ」


 じわじわと熱せられていたケトルが甲高い声で主張する。男性はすぐに分厚いミトンを着けてケトルを炭から下ろし、セットしていた陶器製のドリッパーへと静かにお湯を注ぐ。ふわりと贅沢なほどコーヒーの香りは広がり、もうすぐだとオフェリアへ告げてきた。


 ほんの少し、あと少しと待てば、ドリッパーの下にあるまんまるのガラスサーバーに黒い雫が溜まっていき、世にも不思議な飲み物が出来上がる。飲んだことなんてないのに、香りはすごくいいそれは、オフェリアの興味を存分に惹くものだ。故郷の温かい飲み物なんて苦くてまずいものしかなかったし、甘いものなんて滅多に味わえない。領主たるトッド子爵家でさえその有り様だったのだから、王都の片隅でこんなふうに楽しめることは、いいことなのだ——きっと、そう。


 男性からたっぷりとコーヒーの注がれたカップを受け取り、こんな説明を受ける。


「淹れたてのコーヒーをどうぞ。軽めの、少し酸味がある味わいだが、時間とともに味も香りも変わってくるやつなんだ。カヌレを食べながら味わってくれ」


 こくり、とオフェリアは神妙に頷く。食べたことのないもの(カヌレに)飲んだことのないもの(コーヒーにと)、未知のそれらはもうオフェリアの期待を裏切らない。


 カヌレを一口、そしてコーヒーを一口、小さな口の中で甘みと苦み、ちょっとしたスパイス的な酸味、それからさっぱりと熱い波がそれらを喉へと押しやって、オフェリアは目を見開く。


 甘ければいいというわけではないし、苦みは慣れていたって多いと嫌だ。なのに、甘すぎず、苦すぎず、互いのいいところを打ち消すことなく、さっぱりと洗い流して次を味わう準備ができる。


 たった今起きた、美味しさを無限に堪能できそうなサイクルを、オフェリアはこう評した。


「合いますね!?」

「だろう? クッキーも出そうか、こっちは俺のおやつだからどんどん食べて」


 もはやオフェリアに遠慮というものはなく、カヌレもクッキーもコーヒーも、どんどんと腹に消えていく。最後のほうになると、少量残ったコーヒーを喉へ流し込もうとしたところ、甘味がなかったせいか、このコーヒーの持つ本来の味をわずかな苦味とともに発見した。


「あ……本当、冷めると果物のような味がします。すごい、味が変わるなんて」


 スパイスはフルーツに、苦味は徐々に慣れ、カヌレもクッキーも楽しめた。


 そんな幸せを噛み締めながら、オフェリアはカップを男性へ返す。


「ご馳走になりました。おかげで、気持ちが和らぎましたわ」

「そりゃよかった。沈んでちゃいい案も浮かばないからね」

「はい。ええと、これからは」


 オフェリアの覚悟が口から飛び出す——その前に、公園の入り口から突如初老の人物が駆けつけてきた。


「ここにいらっしゃいましたか! 探しましたぞ、オフェリア様!」

「え……あ、アレンツ伯爵家の、執事さん?」


 肩で息をしながら、アレンツ伯爵家の執事らしき身なりのいい老人は、オフェリアへと深く頭を下げた。


「先ほどは大変申し訳ございません。旦那様と坊っちゃまの手前、あのようなことに」

「い、いいえ。主人の言いつけを守らざるをえないあなたがたは悪くなんてありません」

「しかし、あまりにも不誠実というもの。他の裕福な貴族と婚約を結べたからと、それまでの約束事は反故にするなど……ゆえに、これからのことはどうかご内密に。こちらの紹介状、この家のご当主ならばオフェリア様のご事情を汲んでくださるでしょう。このようなこととなり本当に心苦しく存じますが、何卒」


 そう言って、アレンツ伯爵家の執事は懐から取り出した封筒を一つ、オフェリアの手へ握らせる。


 戸惑うオフェリアは、紹介状とやらの封筒の裏に書かれた一文を目にし、紹介先の家の名を読んでみる。


「オレンベルク家……ですか。分かりました、今から訪ねてみますね」


 正直、貴族ながらも家柄に疎いオフェリアにとっては聞いたことのない家だが、紹介してくれるというのだから厚意は受け取っておくことにした。何より、アレンツ伯爵家とはまったく別に、この老人の申し訳なさや誠意は伝わってくるのだ。疑うより、素直に頼るアテを得たと喜んだほうがいいだろう。


 オフェリアの返答を聞いたアレンツ伯爵家の執事は、再び深く頭を下げた。


「どうか、アレンツ伯爵家のことはお忘れくださいますよう。主人の不義理を諌められぬ使用人の言ではございますが……あの驕りも、長くは続きますまい」

「それは、どういう」

「では、あまり長く空けると怪しまれますゆえ」


 それ以上の会話を続けまいとするように、アレンツ伯爵家の執事は踵を返し、あっという間に去っていった。もちろん、彼の主人であるアレンツ伯爵家はオフェリアを袖にしたのだから、この紹介状のことはそちらへ知られないようにしたほうがいい。そのくらいのことは、いくら田舎者でもオフェリアもわきまえている。


 心の中で感謝しつつ、封筒をじっと眺めているオフェリアへ、蚊帳の外にいた男性がふとつぶやく。


「ふぅん、オレンベルクか」

「ご存じなのですか?」


 ご存じというほどでも、と男性は肩をすくめて謙遜しながらも答える。


「ああ、ここからも近い。そこを左に曲がって大通りに出たら、誰かにオレンベルク家の屋敷への道を尋ねるといい。すぐに教えてくれるさ」

「なるほど、分かりました。縋れるならば、この際藁にも縋っていかないと」

「いや、そこまでは……まあいい、頑張って。これは餞別のカヌレだ」


 そう言って渡された茶色の紙袋には、カヌレが三つ。意気込むオフェリアの門出に、男性は飲みかけのコーヒー片手に手を振って、別れを告げた。


 オフェリアは、歩き出す。





☆★☆★☆★☆★☆★





 その年の秋のことだ。


 麗しい白亜の宮殿のバルコニーに、この国の第二王子とその妃が並んで、階下の集った民衆へ手を振っていた。学者然とした第二王子の隣に、小柄でピンクブロンドの長髪と真っ白な肌の妃が寄り添い、遠目にも仲睦まじげにたたずむ。


 先日結婚式を挙げたばかりの二人は、兄である第一王子の立太子に伴い、初代ニルース大公と大公妃の称号を得て新たな領地へ出立することが決まっている。


 しかし、誰もが大公妃となった女性について詳しく知らない。


 なんでも、彼女はトッド子爵家の令嬢だそうだが、その名を聞いても王都では誰もが首を傾げる。そんな家があったのか、と。紋章院でよくよく調べれば由緒のある家だと分かるのだが、それにしては目立たない、領地が北の果てにあるためか中央とのつながりがまったくなかったらしいのだ。


 であれば、どうやって第二王子と知り合ったのだろう——いや、それを考えても詮ないことだ。あの第二王子は変わり者だから、フラッと立ち寄った先に彼女がいて求婚したのだろうとか、そもそもずっと婚約を隠していたのだとか、あちこちで好き放題に言われているが、どれも正しくはない。


 バルコニーを望む広場の片隅では、こんな貴族の若人たちの他愛ない会話さえも聞こえてくるほどだ。


「……俺たちの王子の結婚相手、見たか?」

「見た」

「反則だろあんなの」

「だよなぁ」

「もう妖精じゃん。天使じゃん」

「腰ほっそ、腕ほっそ……俺たちの心が醜いから羽が見えないだけだろ」

「神が遣わした存在だろあの姫は」

「さすが俺たちの王子、長年隠してた理由が今明らかになったぜ……」

「真面目な話、その噂は嘘だからな。今年の春にオレンベルク公爵があの子を王子へ紹介したんだよ。偏屈すぎて婚約者いなかったからな、俺たちの王子」

「は? なんでまず俺に紹介してくれなかったわけ?」

「お前、自分が王子より優先順位上だと思ってんの?」

「いやいや王子はそのへんから選べよ! よりどりみどりだろ! 俺は違うからほら!」

「お前がモテない理由が分かるわー」

「おい決闘。手袋よこせ」

「持ってないのかよ」


 第二王子の親しい友人たちのあまりにもくだらない会話は、平和の表れだ。王都のどこかの伯爵家が財産分与に揉めて仲違いしたとか、第三王子を王太子に推挙しようとしていた大臣が失脚したとか、そんな話はとっくの昔に消え去ってしまって、もう誰の記憶にも留まっていない。


 やがて人々には、結婚祝いの菓子として大量のカヌレが配られる。妃の得意な菓子で、第二王子の大好物であると銘打たれたそれは、二人を結びつけた縁結びの菓子としても知られるようになる。


 何台もの馬車ごと運び入れられた一口サイズのカヌレの山は、中を開けるとはちみつとバターのとろっとろな出会い(マリアージュ)が待っていた。


(了)

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― 新着の感想 ―
設定がとてもいいですね カグラザカに出会えた子たちはみんな幸せになれるのも 事後で何があったかと語りながら心を落ち着かせていく感じも。
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