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アプロとセス


 遠くから地響きの音が近づいてきた。

 それに混じって「ときの声」が乾いた空気を突いて来る。

 都市国家スパルタの誇る騎馬戦車軍団だ。

 オリュポスの生命線であるテッサロキニ港を確保するには、要塞都市に籠城して戦う道は選べない。否が応でもスパルタ軍団と対決しなければならないのだ。オリュポスの命運をかけて戦場にいるオリュポス人は貴族から自由民まで手にした槍と盾を握りなおした。

 朝日が昇ると同時に地平線を埋めつくす戦車軍団の影が見えた。砂埃は陽炎のようにゆらぎ、炎の中に黒々とせまる戦車軍団は、さながら冥界の主ハデスの軍団のようだ。

 「構え!」最前列に並ぶ弓兵隊が天に向かって弓を引き絞った。

 「放て!」弓兵隊長が号令をかけると、つるの音が鳴り、一斉に放たれた弓が戦車軍団へ向かって飛んで行く。しかし、戦車軍団の馬も搭乗者もみな青銅のよろいを身に着けており、ほとんどの矢はちん、とむなしい金属音をたてて下に落ちた。

 「下がれ!」号令とともに弓兵たちはいっせいに後ろへ下がった。代わって歩兵たちが最前列へ進み出る。

 「構え!」歩兵隊長の号令で歩兵たちは一斉に槍を担ぎ、投てきの体勢となった。

 馬のいななきが轟音の中に混じり、ついに敵が正面に現れた。正面に居並ぶのはすべて色とりどりの二頭立て戦車だ。それぞれに二名ずつの兵士が乗車し、槍をわきの下に抱えている。

 「放て!」戦車隊を引き付けていた歩兵たちは号令とともに一斉に槍を投げた。重量のある槍は矢のようにはいかず、青銅のよろいを貫いて何人かの戦車に乗った戦士たちは転げおちる。

 「突撃!」貴族であり全軍司令官のアレスが号令をかけると、歩兵たち、弓兵たちはいっせいに剣を抜いて、突撃した。

 「ぐああ!」

 「ぎゃー!」

 そこかしこで歩兵たちの悲鳴が聞こえた。

 見ると戦車の車輪には刃物がつけてあり、すれ違いざまに歩兵たちの足や銅を薙ぎ払ってゆく。スパルタ軍の戦車はオリュポスの歩兵団を文字通り蹴散らした。重装歩兵ですら足に装甲はない。足を切り裂かれて倒れた兵士たちの上を、興奮した馬と戦車の車輪が踏みつぶしてゆく。

 オリュポス軍は総崩れとなった。

 中央を突破し、オリュポス軍の背後に出たスパルタの戦車軍団は向き直ると、スパルタ歩兵団に向かい合うオリュポス軍団の背後から挟み撃ちにした。

 後は虐殺が続くだけのように見えた。


 ドーン!


 大きな音が聞こえた。戦場にいる者たちも一斉に振り向くほどの大きな音だった。

 見るとスパルタの戦車軍団が入ってきた山と山の間のあい路に巨大な岩が転げ落ちてきたのだ。歩兵であれば山に登り迂回することもできるが、戦車は山を登ることはできない。

 丁度戦車軍団は退路を断たれる形になった。

 不安に駆られたスパルタの戦車軍団は、虐殺を止め、不安そうに周囲を見回した。

 沈黙が場を支配する。

 そのとき、山影から巨大な影が次々と姿を現した。人に似ているが、近づくとスパルタ人戦士の三倍は背丈があるのがわかった。


 オリュポスの石の巨人、石化兵だ。


 オリュポス軍から大歓声があがった。スパルタ戦車軍団の馬も目を大きく見開き、耳を前に向けておびえる。

 石化兵たちは全員青白い肌と無表情な顔のままゆっくりとスパルタ兵を囲んだ。

 「ひるむな! 放て!」スパルタの指揮官が叫ぶと、戦車兵は槍を石化兵に向かって投げつけた。槍は石化兵にまともにあたったが、投げたつまようじのように青白い肌ではじかれた。

 石化兵が進み出る。

 戦車隊は向きを立て直して突撃を敢行した。わきに構えた槍を戦車の勢いを利用して突き刺そうというのだ。

 石化兵の腕がぶん、と周り、戦車は馬や乗員とともに吹っ飛んで転がった。

 必死に起き上がろうとした戦車兵を別の石化兵がゆっくりと踏みつけた。

 「わああぎゃー!」

 断末魔の叫びは肉と骨がつぶされるいやな音で終わった。

 後はさっきと同じような虐殺が続いた。さっきと異なるのは今度は蹂躙されているのがスパルタの兵士たちだという違いだけだった。

 石化兵たちはスパルタの戦車、兵士を粉砕し、ひきうすのようにひき、殴り、踏みつぶした。あまりにも力の差がありすぎた。


 乾いた戦場に静けさが訪れたのは、日没間近のことだった。


     *


 「あー、あふ」特大の大きなあくびをこらえもせず放ったのは都市国家オリュポスの貴族アプロ。それを困ったような眉をして見ているのはメイド。

 貴族の中でも特権を持つアプロは神殿の中央にある浴場で風呂に浸かっていた。金色の目と髪。高く伸びた鼻筋。赤い唇。

 アプロは灰色に濁った液体の中でのびをした。美しく豊満な姿態が白い魚のように動く。貴族の中でも最も美しさを誇るアプロはその肉体を隠そうともしない。

 近くにいるのはメイド一人。護衛の兵士たちは入口で背を向けているので彼女たちを見たり会話を聞くことはない。

 アプロは脇に置いてあった杯を取り上げると灰色の液体を一口すすり、視線をさまよわせた。神殿の鮮やかな赤や青に塗られた柱と柱の間には遠くに美しいエーゲ海が見える。

 「退屈だ」ぽつんとつぶやく。

 「またそのような。戦場におられたのは昨日の今日ではありませぬか」メイドがいさめる。「本当にアプロディーテ様は大活躍だったそうで、みなが噂しております」

 「まあ、な。それがわらわの存在意義だしな」

 「今夜は戦勝祝賀会でございます」

 「面倒くさいな」

 「いえ、アプロディーテ様が今回の戦勝祝賀会の主役でございます。殊勲賞をいただくことが内定しておりますので、最も豪華に着飾る必要がございます」

 「チキンのオリーブ焼きは出るかな」

 「もちろんでございます」

 「それなら出てやってもよいか」

 「ん、まあ」メイドは奴隷の身であるから、あからさまに批判するようなことは言わなかったが、困ったような眉がその気持ちを示していた。

 「お機嫌がすぐれないようでございますね」

 「当たり前だ。戦場で泥にまみれて戦って帰ってきたと思ったら、昨夜は一人で寝たのだぞ一人で!」

 「まあ」メイドは得心がいったという顔つきになった。「そうでございましたか」

 「この身をネクタルの風呂で冷やしても、わらわの体の奥のほてりは冷めない」アプロは自身の体をかき抱いた。「ああ、男が欲しい」

 「アレスさまはいかがいたしましたか。この頃はあまりお会いになられていないようですが」

 アプロは眉を寄せ、天を向いた。「あいつは戦争の後では忙しいんだよ。捕虜を選別して殺すのが楽しいらしい。わらわのことなどほったらかしさ。ま、最近はあの戦争バカには少し飽きてきたのも事実だな」

 「あれほど苦労してものにされましたのにねえ」

 メイドの言葉にアプロは咎めるように視線を上げた。「いや。苦労などしておらんぞ、苦労など」

 アプロは右手を伸ばすと浴槽のふちに置いてあった「愛の帯」に手を乗せた。金糸で刺繍をほどこし、各部に色とりどりの宝石をはめこんだその帯がきらりと光る。

 愛の帯。それは身に着ける者が他人の愛情を自由に操れると言われている力の帯だった。アプロは入浴するときにも愛をかわすときにも決してこれを手元から離さない。

 「この帯があれば苦労などせずとも愛を勝ち得ることができる」

 「苦労は後からついてくる、というわけでございますね」

 メイドが示唆することが明白だったのでアプロは肩をすくめた。「ああ、もちろん。女王様ヘラからアレスを奪ったことでヘラのやつには恨まれている。あいつは嫉妬深いからなあ。自分も愛人を作っておきながらゼウスの愛人には寛容がない」

 オリュポスの王にして貴族たちの筆頭ゼウスも妻のヘラの嫉妬心には手を焼いていると言われる。

 「ヘラさまのことですが、後に遺恨を残しているのではないか心配です」

 「遺恨だと?」

 「はい。ヘラさまは借りは必ず返す、と言われていますので、なにか起きるのではないかと」

 「公になにかをすることはできないだろう。わらわは十二神将の一人だ」

 「ええ。ですから公ではなく、陰でなにかをするのではないかと」

 「ふん。そんなことを気にして生きていたら人生が楽しくないわ」アプロは議論はこれでおしまい、というように手を振った。流れ落ちる水がアプロの白い二の腕をつたって真珠のようにこぼれ落ちた。

 「アレスはもういい。もっとハンサムな愛人が欲しいぞ。だれか連れてこい」

 「では奴隷長サイプロスに命じて……」

 「あいつは駄目だ。あいつの趣味はわらわとは合わん。この間もハンサムな奴隷を頼んだのに筋肉だけハンサムな男を連れてきた。あいつに任せてはおけん」

 アプロはふと身を起こすと思いついた顔になった。「そう言えば、スパルタの捕虜どもが集められているはずだ。奴隷市場に行けば新鮮な男が手に入るかもしれん」

 「いえ。捕虜は選別中ですので、まだ奴隷市場には出回っていないかと存じます」

 「駄目じゃ」アプロは再び風呂に沈んだ。「選別の後では一番いい男は残っておらん。なんとかならんかな」

 「選別の場所に行かれては」

 「どこかわからぬ。アレスのやつ、軍事機密だとぬかしてな」

 おそらく気に入った奴隷を自分のものにしてしまうアプロを迷惑がってアレスが教えないのであろう、とメイドは思った。


 「男、男と大声が聞こえたぞ。あさましいものだ」柱の後ろから青い影が現れた。全身に晴れた青空のように鮮やかな青に染めた服をまとい、黄金の帯や腕輪足輪などの装身具をまとっている。額には梟のレリーフを刻んだ黄金の印章をつけている。アプロと同じ十二神将の一人でありオリュポス軍参謀のアテナだった。すらっと伸びた高い背の上に小ぶりな頭が乗っている。アプロと優劣つけがたい美女である。

 アテナはその高い位置から風呂に浸かったままのアプロを冷たく見下ろした。

 「評議会が始まる。戦後処理の重要な会議だ。たまには出席しろ」

 「面倒じゃな。わらわがいてもいなくてもどうせ決定は同じじゃろ。ハンサムな男でもいればいいが、下院のじじいどもと一緒にいるだけで服に臭いが移りそうじゃ」アプロはここ一番の大あくびをしてみせた。

 アテナは目を閉じてかぶりを振った。

 「そうではない。上院の十二神将全員がそろって可決することで決定がゆるぎないものになるのだ。座っているだけでなにも言わなくてもよいからさっさと服を着て準備しろ」

 アテナはそう言い捨てると、サンダルを鳴らして去って行った。

 「面倒じゃな……」アプロはぶすっとした表情で風呂にあごまで浸していたが、突然目を見開いた。「戦後処理、と言っておったな。それでは戦争捕虜の処遇なども話し合うはずじゃ。捕虜がどこに集められているか聞き出せるかもしれぬ」アプロはがぜんやる気を見せると、愛の帯を手に浴槽から立ち上がった。メイドがすかさず、絹のローブを背中からかぶせ豊満な胸を隠した。

 「評議会へ出るぞ。支度せい」

 「かしこまりました」メイドは澄まして答えた。


      *


 オリュポスでは評議会が為政を行っている。評議会は貴族がメンバーの上院と自由市民がメンバーの下院からなっていた。アプロが到着したころ、評議会の総勢30名ほどがほぼ着席していた。入ってきたアプロは普段着だったが、その姿を称賛の目で追う者は多かった。ただ上院の貴族たちのほとんどが若く見えるのに対し、下院の自由市民はみなそれなりの地位を感じさせる老人たちだった。老人たちはやかましく議論している。

 「それではスパルタに支払わせる賠償金は少なくとも400万ドラクマはなくては、今回の戦費をまかなうことはできませぬ」

 「スパルタにはそのような財力はない。そもそもテッサロキニ港を求めて攻めてきたのも、今年の不作が原因じゃ。穀物倉は底をついているという」

 「では奴隷を売却した金でまかなえば」

 「いや国内でも働き手を必要としている。奴隷を全て売却するわけにはいかん」

 「ではどうしろと言うのだ」

 下院の議論をよそに上院の貴族たち、つまりオリュポスの十二神将たちは暇そうにしていた。国王のゼウスと陸軍司令官のアレス、海軍司令官のポセイドンは姿を見せていない。

 アプロはアテナにささやいた。「おい。十二神将全員が出席、と申しておったな。アレスがおらぬではないか」

 「捕虜選別中だ」

 「話がちがう」口をとがらせるアプロ。

 「しっ。そこ、黙りなさい」ゼウスの妻ヘラが注意した。彼女は陰で王のゼウスを操っていると言われている。歳はアプロやアテナより上に見えるが美しく、全身から支配者のオーラを発散させていた。

 デメテルとヘスティアがアプロに向かって取りなすように微笑み、そこでアプロは何か言い返しかけたがやめた。デメテルとヘスティアはヘラの姉妹なのにもかかわらず、全く似ていない。容姿もオリュポス十二神の女神たちの中ではさほどではないし、ヘラのようなカリスマ性も持っていない。「美しい」と言うことが絶対の価値であるここオリュポスにおいて、陰が薄いがそれでも十二神将の一員であることには変わりなかった。

 さらに上院の席にワインを飲んでいる男と黙って貧乏ゆすりをしている男がいた。この二人も貴族だ。ディオニュソスとヘパイストスだった。


 下院の議論が結論に近づいたころ、アポロンがさっと手を上げ、それで下院の自由市民たちは黙った。

 ゼウスが不在のときはアポロンがリーダーとしてふるまう。アポロンはこれも長身の美形で、碧眼。ゆるくウェーブした金髪を長く垂らしている。全身を白服で覆い、オリーブの枝を腰に巻き付けてベルト代わりにしている。にこやかに笑うと真っ白な歯が見えるが、今日は唇を一文字に結んで機嫌が悪そうである。

 「まったく、捕虜捕虜と細かい話ばかりだ。最もしぶとい敵スパルタの兵であるから、国内で生かしておいては後々禍根を残す可能性がある。いっそ全員処刑してしまえば良いものを」アポロンの言葉に下院の老人たちは引いた顔つきをするが、貴族に対して正面から反対する自由市民は誰もいない。

 「アポロ。それはちとやりすぎでしょう」アポロンの姉アルテミスがやんわりとたしなめる。アポロンそっくりだが、こちらは清楚なたたずまいを残した金髪の美女である。「下院の方々もみなオリュポスのためを思って最善を尽くそうとしているのです。耳を傾ける価値はありますわ」

 「姉上」アポロンはにがにがしげに、しかし黙った。

 「やはりここは神託を聞くのが一番良いのではないでしょうか」アルテミスの言葉にアポロンは大きくうなずき、言った。「そうであろう。詩人を呼べ!」アポロンが手にしたオリーブの枝製の指揮棒を振ると、奴隷たちが奥の扉を開け、そこから護衛兵に伴われた男が現れた。男は長い衣服を床に引きずり、長髪を振り乱している。手にはハープを抱えている。

 「神託じゃ!」男は長髪を振り回して叫んだ。「神託が下りてきた!」

 男は評議会が開かれているホールの中央まだ進み出ると、回転して叫んだ。

 「神託じゃ! 神託は常に正しい!」ハープを乱雑にかき鳴らす。不協和音がその場のみなの耳を刺激した。

 アプロを除く全員が詩人に対して軽く敬意の礼をした。そっくり返ったままのアプロをヘラが横目で見て咎める。「アプロディーテよ。神託に対する礼を尽くせ」

 アプロはヘラとは目を合わさず、礼もしなかった。鼻を鳴らす。

 「わらわは生まれてすぐ父親に殺されそうになった。父親が神託を信じたからだ。神託など「高貴な」者たちが信じておればよい」

 アプロの言葉にヘラは押し黙った。ヘラ自身も神託のために父親に殺されかけている。それが今は神託を大事にしなければならない立場だった。

 「吟遊詩人アオイドスよ。われわれはなんじに問う」アポロンが重々しく言ったが、詩人はそれが聞こえないようだった。再びハープをかき鳴らしてから叫んだ。

 「神々の言葉じゃ! 神託じゃ!」

 「わかった、わかったから」アポロはなんとかその場を収拾しようと両手で詩人を押しとどめた。「そなたの神託をみな待っておる。どうかわれらに指標を与えてはくれまいか」

 正気を疑われるようなその吟遊詩人にもアポロの言葉は聞こえたらしい。いったん立ち止まると中央へ進み出て屹立し、おごそかに言った。

 「神託を述べる! 南の兵士は災いならず、災いは東より来る。鍵は北東にあり。しかし北東を避けよ。北東へ行ってはならぬ」詩人はそれきり黙ってしまった。

 「南の兵士は災いならず……ということは南のスパルタの兵士を殺してはならない、ということじゃ」下院の老人の一人が言い、皆がそれにうなづいた。アポロンもあまりに明白な神託の言葉に黙ったままだった。

 「それではこの度の戦争捕虜は全員奴隷として売り払い、その代金を国庫に充填するということでよろしいでしょうか」下院の筆頭がおずおずと申し出るとその場にいる十二神将全員がうなずいた。アポロンは嫌そうに、しかし他の十二神将たちの手前仕方なくうなずいた。

 「さらに「災いは東より来る」とは最近噂に聞く東方世界のバルバロイどもがヘレネスを侵略しようと準備をしているということでは」

 「いや東の山が火を噴く、という意味かもしれぬ」

 老人たちは議論を始めた。

 「待て!」アテナの言葉でみな押し黙る。「東からどのような脅威が押し寄せようとも、必ずやスパルタの二の舞にしてやろう」

 「おお!」一同は目を輝かせた。

 「確かに」アポロンが立ち上がって言った。「われら十二神将の力をもってすれば、どのような勢力であろうとも恐れるに足らぬ」

 おおー

 下院の面々が歓声をあげ、その合間にアプロの鼻を鳴らす音が聞こえた。

 「ところで」ふと思いついたように下院の一人が言った。「北東を避けよ」とはどのような意味であろう」

 アポロンは当然という風に言った。「むろんしばらくの間、北東へ向かって行くのを控えねばならぬであろう」

 「北東が駄目なら、おお、ここから捕虜の選別を行っている市場は北東にあたります。選別の立会いにゆくことができなくなる」

 アプロが椅子を鳴らすがたん、という音がした。

 「むろん、選別の立会いにゆく者どもは今夜東か北に進んで親族の家に泊まり、明日方角を変えて目的地にゆけばよい。簡単なことだ。もし適当な親族の家がないようであれば、関所にある兵士の宿舎を手配しよう」アポロンが言うと、下院のみなはお辞儀した。

 「それでは決を採る。スパルタの戦争捕虜はみな売却し、代金は国庫に入れる。賛成の者は起立せよ」アポロンの掛け声に全員起立した。

 「おや、アプロはどこへ」ヘラが辺りをみまわしていぶかしげに言ったが、会議が終わった直後の喧騒で、誰も一人欠けていることをとがめなかった。


      *


 評議会を抜け出したアプロはまっすぐ捕虜選別会場のある市場へ、つまり北東へと向かって歩いていた。捕虜選別に立合う者はすぐには来ないことがはっきりしたから、アプロは余裕をもって市場を探すことができる。

 「北東に位置する市場、はどこだったかな」

 オリュポスは地元だが貴族のアプロは町を全て知っているわけではない。貴族であり十二神将である彼女は普段は神殿に居し、外出するときには兵士の護衛が付くのが普通である。

 初めて訪れる町のように、アプロはきょろきょろとあたりを見回しながら歩き続けた。評議会に出席するための正装でそのまま飛び出してきたから、行き交う自由市民たちはただちにアプロを貴族と認めて深々と礼をしながら立ち止まり、アプロが通り過ぎるのを待っている。アプロはそんな道をぬって進んだ。

 しばらく行くと大きな声で口論しているのが聞こえた。けんかだろうか。アプロが気に留めずに進んでいくと、声の中に「捕虜」という言葉が聞こえた。

 アプロはくるりと顔を向けると、声の聞こえた方角へ進みだした。じきに開けた場所にたどり着いた。延々と屋根が続く壁のない建物に大勢の人間が集まっている。そのうちの多くは鎖でつながれていた。ここが捕虜選別の場所に間違いないようだ。

 口論は続いており、それは人垣の中央から聞こえた。アプロは好奇心から人垣をかき分け中央にたどり着いた。アプロを見た群衆は驚いて道を開けてくれる。

 中央には鎖でつながれた男と、それを取り囲む兵士が数名いた。口論しているのは兵士たちだった。

 「こやつスパルタの者ではないと申しておる」

 「確かに話し言葉にスパルタ訛りがない」

 「では、なぜ戦場のまわりをうろうろとしていたのか。怪しいではないか。傭兵かもしれん」

 「傭兵でも武器も鎧も帯びずにいるものか」

 「敗戦がはっきりしたときに武器を放り出して逃げようとしたのであろう」

 「いえ。違います」中央で捕らわれている男が口をはさんだ。きりっとした顔立ち。自分の処遇が話し合われているのに、臆した様子は全くない。アプロはその顔を見たままそこから目が離せなくなった。

 男は続けた。「わたしは旅人です。たまたま戦場であることなど知らずに通りかかりました」

 「嘘をつくな」兵士が男の胸倉をつかんだが、男はじっと兵士を見返した。その平静さに兵士の方がたじろぐ。

 「こ、こいつスパイかもしれんぞ」自分がうろたえたことで恥じた兵士が今度は怒りだした。「態度があやしい」

 「スパイなら死刑だ」

 別の兵士が男を向き直らせると言った。「お前がスパルタの傭兵だと認めれば、捕虜として扱ってやろう。選別を受け、きちんと奴隷として売却される。もし旅人だと言い張るのならスパイの容疑で死刑だ。な、傭兵だと認めてしまえ」

 男は全く無表情だった。「それは嘘をついて保身せよ、との勧告か? わたしは嘘などつかん。わたしは旅人だ」

 「こいつ! 生意気なやつだ」

 「スパイだ。死刑にしてしまえ」

 「そうだそうだ!」

 「ちょっと待て」アプロはその中に割り込んでいった。貴族の衣装と金髪金眼の美貌にみなが圧倒され、一瞬言葉を失っている。

 「あ、あなた様は……十二神将の……」リーダーらしき兵士がようやく言葉を発する。

 「ほう。わらわを知っている者がいて幸いじゃ。ちとたずねるが、この男は誰でどこで捕らえたのじゃ」

 「はっ。先日のスパルタ戦役で決戦が行われたゴンニ平原の周りをうろうろしているのを敗兵狩りの兵士が見つけ捕らえました。本人はたまたま戦場近くにいた旅人であると申しております」

 「確かに傭兵にしては少しやせているようじゃ。だが旅人にしては日に焼けておらんな」

 「捕らえたときに全身をすっぽり覆う服を身に着けておりました」

 「なるほど。兵士ならば身軽になって戦うじゃろう。フードを外すはず。フードなしに戦場に一日おれば顔は焼けるはず。この者はまったく日焼けしていない、ということは恐らく戦闘には参加しておらぬ。旅人と言うのは本当のことではないかな」

 「な、なるほど」アプロの論理的な言葉に兵士はうなずくしかない。

 アプロは男を向くと聞いた。「そなた。名はなんという」

 「人に名を聞く前に自分から名乗るのが礼儀であろう」男は答えた。

 「こ、こやつ無礼な」つかみかかろうとする兵士を押しとどめ、アプロは言う。「わらわはオリュポスの貴族にして十二神将の一人アプロディーテである。で、そちの名は?」

 「セス」男は短く答えた「旅人のセスだ」

 「旅人とて国はあろう。生まれはどこじゃ」

 「わからぬ」

 「へ」

 「覚えておらぬのだ。わたしは昔のことを覚えておらぬ。自分が何者か、どこから来たのか全く覚えがない」

 「こやつアプロディーテ様が寛容だからと愚弄するか」兵士が激昂する。

 「言っただろう。わたしは嘘などつかないと。わたしの話したことは本当だ」

 アプロは笑い出した。

 「あっはは、こやつ、へつらわぬな。気に入った。こやつはわらわがもらう。わらわの神殿で奴隷として仕えてもらう」

 「しかし、アプロディーテ様。スパイかもしれないこのような素性の怪しい者をおそばに置くなど」兵士のリーダーが困った顔で言う。

 「いいから黙っておれ。代金が必要ならば、評議会につけておくがよい。鎖を解け」

 十二神将の言葉は直ちに実行された。鎖が重い音をたてて石畳に落ちた。

 手首についた枷のあとをもんでいる男に向かってアプロは言った。「ついてこい。神殿に行くぞ」

 「なぜ」男はたずねた。

 「食事と寝台がある。風呂にも入らねばならんだろう」アプロは妖艶な笑みを見せた。


      *


 セスと愛の帯


 アプロは夜が来ると念入りに香をたきしめた夜の衣装に着替え、金の支柱で屋根を支えた寝台に横たわった。部屋の照明は暗めにしてあり、香油で磨きこんだアプロの肌に光が照らされて美しく輝いた。

 食事と入浴を済ませたセスがこちらに連れてこられる手はずになっている。

 アプロはもう一度鏡を見て微笑みを作ってみた。男なら必ず引き付けられる美貌がそこにあった。


      *


 メイドが小さな声で来訪を告げた。

 「入れ」アプロが許すと、メイドに押し込まれるように部屋に入ってきたセスが扉の前で立っている。見るともなく部屋の調度を見回した。

 「こちらへ来い」アプロは甘い声を出した。セスはそれにひかれるように前へ歩み出た。

 アプロは品定めをするように改めてセスの体をみまわした。自分の見立てに誤りはない。セスの決して筋肉が多くはないが、贅肉といったものが一切見当たらない肉体は美しかった。そして顔。都市の人間にはない野性味を帯びた整った顔立ち。アプロの趣味に合致していた。

 アプロはどうしたのだ、という風に口をすぼめてみせた。セスはそれに反応しなかった。アプロは寝台に横たわりながら足を組み替えた。するとほとんど覆っていない太ももの付け根近くまでが見える。深く切れ込んだ豊かな胸元の起伏も薄明るい燭台の光で陰影がはっきりと強調されている。これでどう。

 セスはなにも言わなかった。東方の男は奥手なのかもしれない。

 「わらわのもとへ来い」アプロは甘い声を出した。セスは動かなかった。

 「こちらへ」アプロは長い指先を伸ばしていざなった。

 「もう用事はすんだか。戻っていいか」冷水をぶっかけるようなセスの言葉にアプロは思わず寝台に座りなおした。

 「そなたは何を考えているのじゃ」

 「なんの用で呼んだのだ」セスは両腕をわきに垂らしたままその場から動かなかった。

 アプロは眉をしかめた。「むろん、愛をかわすためじゃ。わらわとそちとで」

 「わたしはあなたに愛情を抱いていない。まあ奴隷市場で救ってくれたことには感謝する」セスは東方世界流にちょっと頭を下げて礼をした。

 「愛は最初欲望から始まり少しずつはぐくまれるものじゃ。エロースからはじまりアガペーまで昇華される。男と女の関係が欲望から始まることになんの不都合があろう」

 セスはアプロの姿態にちょっと目をやってからそらした。アプロはしたり顔で再び媚態を見せた。

 「確かに」セスは言った。「あなたは性的に魅力的だ。しかしわたしには誇りがあり、倫理があり、好きでもない相手にそういったことはしないのだ」

 「じらしておるのか。いや、見かけによらず老練なやつよ」アプロは微笑んだ「遠慮はいらぬ。わらわのもとへおいで」

 それでもセスは立ったまま動かなかった。

 しびれを切らしたアプロは急に優しい女神の表情をやめ、柳眉を逆立てた。「そのように気取っておられるのも今のうちよ。愛の力に耐えられるかどうか、試してやろう」

 アプロが寝台のわきに手を伸ばすと、そこにあるべきものがなかった。


 愛の帯の暴走


 寝台をさっと見渡してからアプロはただちに女主人の声で呼ばわった。

 「これ! メイド」

 ただちに奴隷の衣装をまとった女性が現れた。いつものメイドよりも若い。

 アプロは一応問うた。「見ない顔じゃな」

 そのメイドは膝を下げて一礼した。「新参者でございます。ヘラさまより贈られました」

 アプロはメイドの華奢な体を上から下まで眺めた。「ヘラのスパイか。探ってもわらわには何の秘密もないぞ」

 「めっそうもございません」メイドは顔を伏せた。

 「帯はどこじゃ」

 「ここにございます」メイドは愛の帯を差し出した。

 「勝手にもってゆくでない」

 恐縮したように見えるメイドの手から愛の帯を取り上げるとアプロは自分の腰に巻こうとした。その場にいたままセスが低い声で言った。「待て」

 アプロは流し目でセスを見た。「なんじゃ。気が変わったか」

 だがセスの鋭い視線はメイドに向けられている。「その者、妙に緊張している」

 「なに」アプロは縮こまったメイドを見た。

 「そんな。めっそうもございません」メイドの言葉を覆いかぶせるようにセスが一歩前へ出た。「お前、なにを隠している」メイドの腕をつかんだ。

 「ふん。そういう方が好みか」不機嫌そうなアプロはそのまま愛の帯を身に着けた。しっかりとベルトを締めて宝飾のボタンを留めた。

 体中の愛と欲望を集中させ、帯の中に集めた。それはアプロにのみ感じられ、確かな手ごたえとなった。それからアプロは塊となったそれを、セスに向かって放出するイメージを描いた。


 ぶん


 いつもとは異なる衝撃がアプロの身を貫いた。いつもならば自分のうちより出でる愛の力が、相手に当たるのがわかるのに、今日はその力がセスに届く前に自分に跳ね返ってきたような感触だ。跳ね返った愛と欲望の塊は自分の中でぐるぐると巡り、そうして行き場をなくしてから再び破裂して広がった。

 「ああっ」アプロは思わず胸をかきむしった。耐えがたい衝撃に床に倒れそうになる。

 素早く一歩前へ出たセスがアプロの体を抱き留めた。

 「衛兵!」セスの呼び声に遠ざけられていた護衛兵が4名、ただちに現れる。

 「そのメイドが怪しい」衛兵は逃げ出そうとしたメイドの両肩を衛兵の武骨な手が押さえた。

 「毒を使ったか」セスの指摘にメイドは身を震わせて抗うが、衛兵の手はゆるみもしない。「め、めっそうもございません。お許しを」

 「なにをやったか申してみよ」

 「ほ、宝石を」メイドは絶望的に辺りを見回しながら答えた。「宝石を付け替えました」

 「宝石?」

 「愛の帯の宝石でございます」メイドはそのまま倒れ伏す。「お許しを。ヘラ様のご命令です」

 セスがアプロの腰に巻いている帯をよく調べると、たしかに並んでいる赤いルビーと緑のサファイアのついている位置が台座の形と合っていない。

 「これは……はずしてしまって良いものか」思案するセスの腕でアプロの呼吸が速くなる。息がつげないような状態である。

 セスはとっさにアプロの体を寝台に投げ出すと、急いで愛の帯を外した。

 愛の帯を外されたアプロの呼吸は止まった。今度は息をしていない状態である。

 「おい!」セスはアプロの頬を軽く叩き、胸に手を当てた。心臓は動いているが弱弱しく息は止まったままである。

 「ええい、ままよ」セスはそのままアプロに覆いかぶさり、口でアプロの口に息を吹き込んだ。衛兵たちは元々アプロがセスを召還した目的を知っているので、何もせず見守っているだけである。

 セスが息を吹き込み続けると、ついにアプロの呼吸がもどった。心臓がとく、とくと鳴り、静かな部屋に響くかのようである。

 ふう。

 セスは額の汗をぬぐった。そのまま寝台に膝をつき、見下ろしていると、アプロの呼吸がだんだんと落ち着き、とうとうぱっちりと目を開いた。

 「おお」背後で衛兵たちが安堵の声を漏らす。

 アプロはそのまま目の焦点を合わせようとするかのようにセスの顔を見つめ続けていたが、突然その顔に理性が戻り、同時に真っ赤になった。

 「その……なんだ、わらわも他人の目のあるところでこのようなことをする気はない。お前の国ではどうか知らぬがな」そう言うと赤い顔を背けた。

 「何を言っているのだ」セスはしかしアプロの無事を確認すると寝台からどいた。

 「こやつアプロディーテ様の身に危害を」衛兵たちは荒々しくメイドを引き立てた。

 「お許しを、お許しをー!」衛兵たちに連行されてゆくメイドの声がだんだんと遠ざかった。最後の衛兵が外に出て扉を閉めた。部屋に残ったのは再びアプロとセスだけになった。

 アプロは愛の帯を確認し、間違った配列の宝石を直した。二度確認し、元に戻ったのを確かめた。アプロは口の中が乾いているのを感じ、舌で唇をなめると言った。

 「さて、邪魔が入ったが続きといくか」

 「おい。休んだ方がよいぞ。今死にかけたのだ」

 セスの言葉に構わずアプロは準備した。死にかけたからこそ、生の営みを行いたい。

 アプロはセスを欲望の炎が燃え盛るまなざしで見た。


 「どうした。まだ調子が悪いのか」

 はあはあ、と息をはずませるアプロを冷ややかに眺めながらセスは言った。

 この気取った東方の男め。そうアプロは思った。

 「調子が悪いのではない。調子は良いぞ。最高じゃ」アプロは自分の興奮を抑えることができなかった。心臓の鼓動が高まり、やかましく打ち鳴らしている。これほど男に欲情したことがあっただろうか。わらわは十二神将の女神。このような卑しい素性の男に対して主導権を握られるのはオリュポスの貴族としての誇りが許さない。

 しかしアプロは忠犬のようにセスに飛びついてその足元にすがりたい気持ちになった。セスの全てが好ましく、全てを自分のものにしたかった。これはどうしたことか。

 ふとアプロは気づいた。これは愛の帯の力によるものだ。

 おそらく、先ほどのメイドのいたずらで愛の帯の効果がセスに向く代わりに自分に跳ね返ってきたのだろう。だからセスを自分に引き付ける代わりに自分がセスに夢中になっている。

 いつも愛の帯を行使して男を自分のものにして来たアプロは、今度は愛の帯の効果を受けるとはどういうことかを身をもって経験した。

 「まあよい」アプロはつぶやいた。今度は愛の帯を正しく向けて、セスを自分に夢中にさせれば良いのだ。

 宝石の位置を再び確かめ、しっかりと留め金を止めてからアプロは愛の帯の力を突っ立っているセスに向かって放出した。


 ぶうん


 いつもの感覚が訪れ、セスに愛の帯の影響が与えられていることを確認した。

 セスは最初目を見開き(いい気味じゃ。冷淡を気取る男よ)、それから何かに抗う仕草をした。徐々に筋肉に力が入り、目が血走っている。腰に巻いている衣類がゆったりとしているのでこちらからは見えないが、きっとあの中の筋肉も力が入っているに違いない。

 「なにをした」セスは自分自身の筋肉に抗うようにもがきながらアプロと距離をとった。

 「そんな無理をせずとも、寝台の上に来てわらわと一つになってしまおうではないか。夜は長いし、もはや邪魔者もいない」アプロは両手の指を差し伸べた。二人とも情欲に突き動かされている。今夜は激しい夜になりそうじゃ。

 セスは壁にもたれて深い息をついた。何度も体を回転させる。ときおり体がびくっと震えたが、ついに己の情欲に勝利した。血走った眼をアプロに向け、息を弾ませてはいるが、先ほどの冷ややかな表情に戻っている。

 アプロの目は驚愕に見開かれた。「そんな! 愛の帯が効かないなんて」

 今ではセスの目には救ってもらったことに対するアプロへの好感もなかった。敵と対峙して間合いをとるかのように、セスはアプロと距離をとった。

 「で、なにが望みだ」セスはその位置から動かない。本来ならアプロのもとへ飛び込んで来てアプロの肉体にむしゃぶりつくはずなのに。

 「わらわの愛情を受け入れないだと! 奴隷の分際でわらわの意志を拒絶するなど、お前のようなやつは……」

 アプロは再び愛の帯の力を使った。愛や情欲はそれが強すぎると苦痛ですらある。強制的な感情の波にセスがどのように抗っているのか誰にもわからなかった。

 セスは再び壁際でのたうち回ったが、膝を屈することはなかった。かろうじてではあったが、誇り高い男のように二本の足で立っていた。

 アプロはもはや意地になって愛の帯による責め苦を与え続けた。散々な夜だった。

 数度の愛の帯による攻撃を受け止めても倒れなかったセスは深い息をついてから言った。

 「あなたが欲しいものはなんですか。あなたがたはエロース(愛)こそ至上のものだと言う。しかしこれが愛ですか。これは支配欲に過ぎない。こんなものに価値はない。だからわたしはこれに付き合わないのです」

 「お前は奴隷ではないか」アプロはくやしくてこぶしを握りしめた。衛兵に命じてセスをベッドの上に縛り付けることもできたが、さすがにそれはアプロのプライドが許さなかった。

 「奴隷の身分であろうと、わたしは一つの人格を持った一人の人間です。わたしの体を鎖につなぐことはできても、わたしの心をつなぐことはできない」

 「なにを申しておるのじゃ。奴隷のくせに「一人の人間」? 東方人は奇妙な思想を持つものじゃな。奴隷は人間ではない。家畜じゃ。わらわの望みどおりに二人で快楽を味わえば二人とも楽しいではないか。なにを意地はっているのじゃ。なぜそんなふるまいをする? 東方人はわらわの知る限り欲望に突き動かされ、他国を侵略してわがものとしておるぞ。おぬしのように自分の欲望に素直でない東方人なぞ聞いたこともない」

 「わたしが東方人かどうかは、わたしにもわからない。ただ、わたしのいたところでは欲望を抑制することが高貴とされ、わたしもそれに賛同したことはおぼえている」

 「そんなことをして何の意味があるのじゃ。愛こそ最高の価値ではないか」

 セスはちょっと考えをまとめるかのように黙ってから答えた。

 「なぜなら……真実の愛とは情欲を超えたところにあるからです」

 「む」

 アプロはそのまま黙ってしまった。それはアプロたちオリュポス人の中でもセスが述べたような思想があるが、それは単に理想であり、建前であり、実際のオリュポス人は自分たちのことを「ヘレネス」と呼んでいるほどには高貴なふるまいをしていないことに気づいたからである。

 アプロはオリュポスの貴族としてはとんでもない問いかけをした。

 「それでは……わらわが真実の愛を示したらお前はわらわのもとへ来るのか」

 初めてセスは微笑んだ。セスは立ち上がると寝台に腰かけているアプロの前で片膝をつき首を垂れて言った。

 「はい。わたしの心が真実の愛でひかれたとき、わたしはあなたの所へ参りましょう。それまでは命を救われた恩に報いるため、義によって、わたしはあなたに仕えます」


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