Re:第四十六話『この目に映る、すべての君へ』
私は再び、神に還った。
この世界の果て。時間と空間の狭間に漂う“観測者”としての在り処へと──私は帰ってきた。
あの夜、自らの罪を抱えて人間として生きた時間は、終わりを告げた。
けれど……なぜだろう。
以前とは違った。
ただの記録装置だった頃とは、全てが異なって感じられる。
光も。風も。人の声も。
私は、忘れることができなかった。
(……あの子の手の温もりを)
エルザの母として、父として、そして“娘”としての記憶。
私はそれを、永久に刻みつけられてしまった。
これこそが罰なのだろう。
神でありながら、“心”を知ってしまった罪。
そして、もうひとつ──私はここから見える世界で、彼の姿を捉えた。
回復魔法を扱う、ひとりの少年。
その名を、アスフィと言った。
「……まだだ」
この世界の彼は、まだ旅の途上にいた。
誰も救えず、自分すら信じられず、それでも笑って見せるような──そんな少年だった。
でも、私は知っている。
彼の中には、《可能性》がある。
それは、私がかつて《彼に賭けた》から。
私の願いを、その心に託してしまったから。
だから私は……“試す”ことにしたのだ。
それがどんなに、残酷なことであっても──
(ごめんね……)
胸が痛んだ。
神なのに、痛みを知ってしまった私が、彼に痛みを課す。
けれど、それでも……私はこの目で見たかったのだ。
無数の世界線の中で、“彼だけが立ち上がる”姿を──
そのために、私は彼のもとから《数多の可能性》を切り離した。
ひとつの世界では、彼は人を救えず、ただ泣いた。
別の世界では、仲間に裏切られ、孤独に死んだ。
そして、また別の世界では──愛した少女を、その手で手にかけた。
そのすべての断片を、私はこの“視座”から見届けている。
どれもが悲劇で、救いのない物語だった。
それでも彼らは、立ち上がろうとした。
同じ名を持つ“少年たち”が、どの世界でも誰かを想い、涙を流し、癒そうとした。
(……アスフィ)
私は、泣いた。
神のくせに、涙を流した。
どうして、こんなにも君は──
美しいのだろう。
そう思った。
神の力では叶えられなかった救いを、
人である彼らが、必死に手繰ろうとしていた。
私は彼らを、生んでしまった。
希望という名の皮を被った、絶望の繰り返しを。
でも──
「だから私は……信じてみたい」
たったひとつの、“もしも”を。
この世界のアスフィが、かつての私を、かつての罪を、かつての過ちを──
すべて、越えていける存在であることを。
この視座から、それを見届けよう。
何度でも、繰り返される世界の中で。
何度でも、彼の名を呼ぼう。
「アスフィ……君だけが、私を救える」
その祈りは、風となり、光となり、少年の歩む未来へと、届いていった。
---
──ひとつめの世界。
そのアスフィは、名を呼ぶことができなかった。
仲間を守るために剣を取り、初めて自分の魔法が誰かの“命”に届いたとき──
彼は、気づいてしまったのだ。
癒せるはずの魔法が、追いつかなかった。
目の前で──エーシルが、崩れ落ちていく。
「……いや、まだ……まだ、間に合う……!」
震える手で、彼は魔法を重ねる。
何度も。何度も。何度でも。
でも。
魔法はもう、届かなかった。
「やめて……アスフィ、もういいんだよ……」
少女の最後の声が、彼の耳に触れる。
その言葉に、少年は笑った。歪な、哀しい笑みだった。
「……違う、違う違う違う……僕は、癒せるはずだったんだ……っ」
光が消える。
その世界では、アスフィはもう、誰も癒すことができなかった。
絶望に飲まれていった。
──ふたつめの世界。
そこでは、アスフィの隣にレイラがいた。
剣と共に生きてきた少女。人を斬り、正義を選び、孤独を背負ってきた少女。
でも、アスフィの前では違った。
不器用な笑顔。照れたような視線。時折、ぽつりと零れる言葉──
「レイラ、ね……夢を見てたんだ。誰かと、手をつないで歩ける未来を」
小さな声だった。
でも、それは彼女のすべてだった。
「アスフィ、レイラと一緒に逃げよう? もう、誰も死ななくていい場所へ」
差し伸べた手が、かすかに震えていた。
それでも、真っ直ぐに差し出されていた。
──その夜、レイラはすべてを捨てた。
騎士であることも、名誉も、故郷も。
アスフィだけを選んだ。レイラのすべてをかけて。
でも、世界は待ってくれなかった。
逃げた先で見たのは、赤く染まった王都。
レイラが背を向けたもの──そのすべてが、崩れ落ちていた。
火の海。倒れた兵。泣き叫ぶ声。
「レイラが守るべきだった人たち」が──いなかった。
アスフィが、必死に抱きしめようとしたその夜。
レイラは、そっと彼の胸元に額を預けた。
「……レイラね、あなたといると、怖くなるの。優しさが、こんなに痛いなんて知らなかった」
涙はなかった。
ただ、唇がかすかに震えていた。
「レイラね、きっと弱かったんだ。……だから、もう一度だけ、騎士に戻るね」
「やめて……!レイラ、お願いだから……」
「アスフィ。レイラね、あなたに会えてよかったって、そう思ってる」
その夜、レイラは剣を手に取った。
背を向けたまま、振り返らなかった。
「レイラね、あなたを愛してたよ。ずっと」
それが、最期の言葉だった。
その世界で、アスフィは“最も大切な存在”を、もう二度と呼ぶことはできなかった。
──みっつめの世界。
そこに、誰の名も記録されなかった。
その世界では、アスフィは生まれた瞬間から“無”だった。
才能は発現せず、誰にも名を呼ばれず、誰にも必要とされなかった。
彼はずっと、廃棄場にいた。
食べ物を分け合う仲間もいない。
声をかけてくれる誰かもいない。
彼は、名前を忘れた。
人を癒したいという想いすら、どこかに消えてしまった。
ただ、それでも──彼はひとりで、小さな子どもを庇っていた。
「泣かないで……痛いの、治るから……ね……」
血だらけの手で、少年はその額に触れようとしていた。
でも、そのスキルは発動しなかった。
ただ、優しさだけが、そこにあった。
誰にも知られず、誰にも求められず。
それでも彼は、“癒そう”としていた。
私は、それらすべてを見た。
誰にも届かぬ祈りの数々を。
それでも彼は、誰も恨まず、誰も責めず──
ただ、微笑もうとしていた。
私は、崩れ落ちた。
神としての形すら保てないほどに、嗚咽した。
(なぜ……なぜ、こんなにも──)
弱くて、脆くて、優しくて。
なのに、どうしてこんなにも──美しいのか。
アスフィ。
私が生み、私が壊した存在。
けれど、私が知らなかった“光”そのもの。
君が、いつか私を赦すなら。
君が、いつか誰かを救えるなら。
君が、いつか自分を愛せるなら──
私は、神であってよかったと、思えるのかもしれない。
”そして最後には私も救ってほしい”。
(……なんて都合のいい話ある訳ないか……あはは………………)