Re:第四十五話『犯した罪から始まる事象』
世界が、揺れていた。
──いや、揺れているのは自分自身か。
エルシアは、薄明かりの中に座っていた。
机の上には開いたノートと、記された奇妙な図形。そして、無数の小さな文字列。
彼女は、震える指でそれをなぞっていた。
(……おかしい)
昨日書いたはずの記述が、違う。
確かに正確だったものが、今は違う世界のものに書き換わっている。
観測者だった頃の感覚が、脳裏に過る。
──これは、「ズレ」だ。
記録と現実の乖離。
繰り返される小さな誤差は、やがて“大きな変動”へと連鎖する。
彼女は知っていた。
誰かが、“何か”をしている。
「……まさか、他にも“干渉者”が?」
そう考えたとき、突如──
部屋の空気が、異様な静けさに包まれた。
まるで時間そのものが止まったかのように。
視線を上げる。
そこには、見知らぬ少年が立っていた。
制服姿。黒髪。真っ直ぐな眼差し。
「……誰?」
問いかけに、少年は一歩近づいた。
「君が、エルシア?」
「……!」
胸の奥が、警鐘のように鳴り響く。
この少年は──
(知っている。私は、この目を……)
「俺は、須藤健一。たぶん……いや、絶対に“ここにいるはずのない”人間だ」
「……異物」
「そう。俺は、どこか別の世界から流れてきた。たぶん、お前が作ろうとした“完璧な世界”にとって──俺の存在は、ノイズだ」
淡々と告げる言葉に、エルシアは目を見開いた。
異世界から来た存在。意図しない乱入者。
けれど──彼の目には、どこか懐かしさがあった。
「……なぜ、私のことを知っているの?」
「知らないさ。でも、ずっと“誰かの声”が聞こえてた。“観測者の声”が」
その瞬間、エルシアの背中に悪寒が走った。
彼は──本当に、すべてを知っているのかもしれない。
「やめろよ。そんな悲しい顔をするな。……お前、泣いてるぞ」
「え……?」
気づけば、頬を涙が伝っていた。
痛みもなく、ただ静かに流れていた。
須藤は、そっと手を差し出した。
「なあ、エルシア。お前は今、幸せか?」
それは、あまりにまっすぐな問いだった。
エルシアは、答えられなかった。
言葉を探しても、喉が詰まって出てこなかった。
彼は静かに笑う。
「なら──その幸せ、誰にも奪わせるなよ」
その言葉とともに、彼の姿はふっと消えた。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
エルシアは、ひとり机に向き直る。
ページには、“須藤健一”という名前が、涙の染みとともに記されていた。
(……この人が、私の……)
観測のズレが、確かに“出会い”を呼び寄せた。
それが、やがて彼女を“創造”へと導く。
アスフィ──彼女が生み出す、もう一人の「癒し手」の始まりだ。
──その日は静寂の、夜だった。
日名川家の寝室。隣で眠る父と母の寝息が、かすかに聞こえる。
けれどエルシアは、眠れなかった。
天井を見つめたまま、腕の中のノートを抱きしめていた。
ページには、びっしりと綴られた数式と観測記録。
その一つ一つが、彼女の心を締め付ける。
(また、壊れていく……)
世界は、どこかで歪み始めていた。
自分が生まれたせいで。
自分が観測を止め、干渉し、この世界に降りたことが──連鎖を生んでしまった。
ある世界では争いが起き、ある世界では時間が逆行し、ある世界では人が“生まれなく”なった。
「……私が、壊した」
エルシアの指先が、震えていた。
感情を持ってしまったことで、“心”が限界に達していた。
記憶が、破綻し始めていた。
かつて見た世界が混濁し、夢のように入り交じり、過去と未来が錯綜する。
鏡に映った自分が、自分でない気がする。
ふと──
「……エルちゃん」
母・日名川エルザが、寝室の隅で小さく囁いた。
夜中なのに、彼女は起きていた。
眠れなかったのか、それとも──娘の気配に気づいていたのか。
「……お母様」
「起きていたのですか」
エルシアがそっと微笑むと、母も静かに近づいてきた。
その手が、エルシアの髪を撫でる。
「寒くはないですか?」
「……いいえ」
小さな沈黙が、二人を包む。
そして、母が言った。
「最近、よく泣きますね。エルちゃん」
「……そう、ですか?」
「ええ。昔は、まったく泣かなかったのに。少し安心しました」
それは、優しい声だった。
「……お母様。私……この世界を、壊してしまったかもしれません」
「そうなのですか」
「私が……余計なことをしたから。存在してはいけないのに、生まれてしまったから」
それは本心だった。
だからこそ、母の答えは──涙が出るほど、優しかった。
「……それでも私は、あなたがいてくれてよかったと思っていますよ」
「……お母様」
「エルちゃん。世界の理は分かりません。けれどね……あなたが笑っているだけで、私たちは救われるのです」
その言葉は、エルシアの心にまっすぐ届いた。
泣いた。静かに、声もなく、ただ涙が零れた。
「ありがとう……ございます……」
母の胸に顔を埋めて、幼子のように泣いた。
あの時、自分を拒まずに“母”でいてくれたこと。
それが、エルシアを救ってくれた。
けれど──
この世界を壊さぬためには、“答え”が必要だった。
自身を写した存在ではなく、“人”として生きられる新たな存在。
──心を持ち、愛を知り、他者の痛みに手を差し伸べられる存在。
その理想を形にした者。
それが──
「アスフィ」
エルシアは、夜空を見上げた。
星は静かに瞬いている。
かつての自分が観測していた、あの高みではない場所から──世界を見ていた。
人として、弱さを知り、痛みに触れ、涙を知った彼女が生み出したもの。
それが、「癒す者」だった。
「君はきっと、私の罪を赦す“光”になる」
星に誓うように、彼女はそう呟いた。
けれど──
その光の先で待っていたのは、救いではなかった。
世界の連鎖は止まらず、記憶はまた、崩れていく。
アスフィは彼女の希望であり、同時に──最後の観測対象でもあった。
彼女は、再び観測者へと還っていく。
世界を渡り、あらゆる未来の枝を見届けながら、ただ一つの“正解”を探す旅が、始まる──
(ごめんなさい、アスフィ……)
(そして、ありがとう。パパ、お母様)
涙をひと粒、頬から零して。
彼女は、再び神の座へと戻った。
──罰を受け入れる者として。
最終話まで残り三話……