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Re:第四十話「その涙に、刃は届かない」

ご覧いただきありがとうございます

 信号の前で、立ち尽くしていた。


 車の音が絶え間なく行き交う交差点。その中で、彼だけが時間から取り残されたように立ちすくんでいた。


 ──須藤剣一。


 焦点の合わない視線が、赤信号の向こうに注がれていた。


 口元はわずかに開いたまま。呼吸だけが、風にまぎれ、かすかに震えていた。


 誰かの名前を呼ぼうとしたのかもしれない。


 けれど──声にならなかった。


 そのとき、遠くから。


 誰かが彼の名を、確かに呼んだ。


 

 ──お兄ちゃん、と。


 

 幻聴ではなかった。


 その証拠に、アスファルトを蹴るスニーカーの音が、確かに近づいていた。


 

 制服姿の少女が──


 赤信号の向こうから、必死に駆けてくる。


 黒髪を揺らしながら、息を切らせ、こちらへ向かって。


「……楓」


 ようやく、彼の口が動いた。


 その声に応えるように、少女はしっかりと頷く。


「……うん」


「……お前も、生きてたんだな」


 

 その一言に、涙が滲んだ。


 再会の理由は、わからない。


 なぜ今ここに戻ってこれたのか──理解は追いつかない。


 けれど、この腕にいるのは、間違いなく妹だった。


 それだけで、剣一の思考は途切れ、感情だけが胸を満たしていく。


 

 ──現実に、戻ってきたんだ。


 

 どれほどの時間が流れたのか。


 二人はそのまま、歩道の隅で、黙ったまま抱き合っていた。


 


 * * *


 


 蛍光灯が微かに明滅する、静まり返った病室。


 白い壁。白い天井。


 その無機質な空間の中──一人の少女が、ゆっくりと瞼を開けた。


 真希だった。


 空気が一瞬だけ震えた。


 喉は乾いていて、身体は異様な重さを持っていた。


 けれど、それ以上に──胸の奥で疼く感情があった。


(……夢じゃ、ない……)


 まだ視界はぼやけている。


 だが──記憶は鮮明だった。


 最後に見た光。最後に聞いた声。


 そして、彼の温度。


(……須藤くん……)


 その名を、心の中で呼ぶ。


 けれど声にはならなかった。


 彼は、今どこにいるのか。


 まだ、あの世界のどこかにいるのだろうか──。


 

 視線を移すと、簡素な病室の片隅に花瓶が見えた。


 誰が置いたのだろう。


 風に揺れるカーテン。


 そして、誰もいない個室。


「……何でここに」


 ぽつりと呟いた声が、虚空に吸い込まれていく。


 ──怖かった。


 誰もいないこの現実が、怖かった。


 あの世界では、孤独に慣れていたはずだったのに。


 今は、誰かがいないことが、何よりも心を締めつけた。


(……居な……い?)


 手を胸に当てた。


 マキナの存在が、どこにもなかった。


 もう、あの声は響かない。


 

 真希は、ゆっくりと上体を起こした。


 足元はふらつき、視界が揺れる。


 それでも──彼に会いに行かなくてはならなかった。


 自分の目で、確かめたかった。


 

 点滴の管を外し、ベッドを下りる。


 身体は冷えきっていたが、意志だけが熱を持っていた。


 

 そして、扉の前で、そっと息を吸い込む。


「……須藤……くん」


 今度は、声になった。


 その小さな音が、自分自身の胸を強く震わせた。


 

 病室を出た。


 夜の病院は、まるで異世界のようだった。


 非常灯だけがぼんやりと照らす廊下。


 誰もいないその空間を、真希は迷いなく歩いた。


 階段を降り、夜間通用口を開け──外の空気が、頬に触れた。


 


 その瞬間。


 

 ──カツン。


 

 アスファルトに響く、乾いた足音。


 目を向けた先に、誰かがいた。


 街灯の下、制服姿の少女がひとり──ナイフを手に、立っていた。


「……真希ちゃんも」


 聞き慣れた声だった。


 けれど、そこには確かな殺意が滲んでいた。


「……双葉ちゃん……?」


 名前を口にした瞬間、心臓が跳ねた。


 ──生きていた。


 だが──その目は、氷のように冷たかった。


 ──刃が、振り上げられる。


 真希は、咄嗟に身を引いた。


 足元がもつれ、背中を壁に打ちつける。


 視界が一瞬、白く霞んだ。


 痛みと共に、意識が引き戻される。


 ──夢じゃない。これは現実だ。


 この手には何もない。


 マキナもいない。あの力も──。


 けれど、それでも──。


 目の前で、泣きそうな目をしてナイフを構える少女がいる。


 友達だった少女が。


「……双葉ちゃん」


 その名を呼ぶ声は、震えていた。


 けれど、確かに言葉になっていた。


「……いなくなってよ」


 双葉は小さく呻くように言った。


「お願いだから……どこかに行って……もう、須藤くんの前に現れないで……」


 真希は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。


 苦しかった。何も言えないほどに。


 それでも──伝えなければならなかった。


「……私も、あの世界で……たくさんのものを失った。あの世界だけじゃない。私はこの現実で間違いなく死んだ。そうして気付けば向こうで生きていた……ううん、違う。死んでいた。怖くて、泣いて……何度も逃げたかった。どうすればいいのか分からなくて……それでも、一緒にいてくれた人がいた。だから強くなりたいと願った」


 声は途切れそうだった。


 けれど、双葉の手が震えていたのを見て、彼女は前へ進んだ。


 一歩。


 また一歩。


 壁を背にしたまま、体を起こす。


 まるで、かつてのあの戦場で──剣を握ったときのように。


「私はもう逃げないって決めた……自分の心を信じる事にしたの」


 双葉の瞳が揺れた。


「私は須藤くんがずっと好きだった。肉体が戻った今なら彼にこの思いを伝えられる。……でも、真希ちゃん。あなたが邪魔なの」


 感情が、迷いが、波紋のように滲み始める。


「双葉ちゃん……あなたも、帰ってきたんでしょ。あの場所から」


 ──ゆっくりと、真希が右手を差し出す。


 ナイフではない。


 敵意でもない。


 ただ、ひとりの人間として、かつて“友達”だった彼女へ向けた──救いの手。


「私は……あの世界で沢山辛い思いをした……双葉ちゃんもそうだよね。だから今度こそ、ちゃんと伝える。私……あなたに生きていてほしい」


 沈黙が落ちた。


 ナイフを握る手が、微かに震える。


 双葉の唇が、震えながら動いた。


「……なんで……なんでそんな顔、するの……」


「……」


「優しくしないでよ……!そんな風に言われたら、私……っ……!」


 ポロポロと、涙がこぼれ落ちる。


 小さな嗚咽が、夜の静寂に溶けていった。


 ナイフが、力を失った手から滑り落ちる。


 カシャン、と。


 金属音が乾いたアスファルトに響く。


 真希は、そのままゆっくりと膝をついた双葉の傍に寄り、そっと彼女を抱きしめた。


「……ごめんね。ごめんね、双葉ちゃん……」


「……私のほうこそ……気付いてあげられなくてごめんね……」


 ただ、そうやって。


 何度も、謝り合った。


 もう異世界の力なんてなかった。


 そこにいるのはただの、何の力もない少女だけだった。


 それでも──その夜の静けさの中で、確かに何かが、救われた気がした。


 ──そして、遠くで。


 誰かが、その様子を見守っていた。

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