Re:第九話【分離する魂、交錯する存在】
新章開幕。
ここに、一人の少女がいた。かつて"神"と恐れられ、迫害を受け、忌まわしき存在として扱われた者。それが長い眠りの果てに、ついに目を覚ました。
「……ここ……どこ」
声に出してみても、確かな手応えはない。目の前に広がる景色は見覚えがなく、空はどこまでも曇天に覆われ、地平線まで灰色の世界が続いていた。
(こんな場所、知らない……)
自身の記憶を探るが、何も繋がるものがない。
そのとき――
「――やっと見つけた」
不意に、遠くから声がした。
彼女が振り向くと、そこには一人の青年が立っていた。
「……誰?」
警戒しつつも、どこか懐かしさを感じる顔立ちだった。
青年の身なりは、この世界には似つかわしくなかった。黒い長ズボンに、襟付きのシャツ。
装飾のないシンプルなジャケットを羽織り、異国の兵士のようにも見える。
だが、どこか違う――それは"異世界の服"だった。
「俺だ……って言っても分かんねぇか」
青年は苦笑しながら、ゆっくりと歩み寄る。
黒髪の青年。どこか見覚えがある――そんな気がする。
「もしかして……スドウくん?」
名前を口にした瞬間、胸の奥がざわめいた。青年は微かに目を細め、安堵したように頷く。
「ああ。いつぶりだろうな、マキ」
懐かしさを滲ませながら、彼は微笑んだ。
「本当にスドウくんなの?」
信じられない。何が起こっているのか、理解が追いつかない。
「みりゃ分かるだろ」
青年――スドウはそう言いながら、少し肩をすくめる。
「……俺も正直どういうことか、さっぱり分かんねぇ。でも、どうやらアスフィの中から出ることができたみたいだな」
"アスフィの中から出る"――
その言葉が、彼女の頭に引っかかる。
(どういうこと……?)
青年は彼女に近づいた。
その歩みはゆっくりとしたものだったが、彼女にとっては恐怖にも似た焦燥を掻き立てるものだった。
「――来ないで」
思わず後ずさる。声は震えていないつもりだったが、それでも僅かに滲む不安が否応なく伝わってしまう。
「……何故だ?」
スドウは眉をひそめながら問いかける。
「…………触れたらスドウくんが――」
言葉の続きを言えなかった。彼女の中に染み付いた"呪い"という概念。
それが、今でも彼女を縛りつけているからだ。
だが――
「呪いの事か? ……自分の身体をよく見てみろ」
彼の言葉に促され、彼女はゆっくりと自分の身体を見下ろした。
「あれ……この姿……」
滲み出ていたはずの闇。忌むべき烙印のように刻まれていた禍々しい紋様。
だが、それだけではなかった。
着ている服も変わっていた。見覚えのある――いや、本来あるべきはずのない"制服"。
(……これは……私の……?)
黒を基調とした、どこか格式ばったデザイン。
この世界には不釣り合いな、異世界の"学生"が身にまとうような衣服。
「……どうして、私……」
かつての自分が存在した世界の名残。
しかし、それは"今の自分"にとって、本当に"自分のもの"なのだろうか。
制服の布地をぎゅっと握りしめる。そこには確かに自分の肌の温もりがある。
けれど、それが"自分"のものだと断言するには、あまりにも違和感があった。
なにせ、いつぶりか分からなかったから。
「恐らく、呪いはもう無い。あの時、オーディンが呪いの概念を消した。それが今も継続してるってことだろ」
スドウの声が妙に現実的で、彼女は戸惑った。
(本当に……無い?)
信じられなかった。長い間、彼女を縛り続けた"呪い"が、今はもう消えているという現実が。
「じゃあ……」
声が僅かに震える。
「……ああ」
スドウが口元を僅かに歪めた。
そして――
「思う存分――」
スドウが静かに言葉を紡ぐ。
その声は、どこか懐かしく、それでいて覚悟を帯びたものだった。
そして、次の瞬間。
「「戦える」」
二人の声が重なった。
その一言が、空気を変えた。
彼女の中で何かが弾ける。今まで絡みついていた呪いの恐怖も、理不尽な宿命も、すべてが一瞬で剥がれ落ちるような感覚。
(本当に……もう呪いはないんだ……)
長い間、頭の中に「戦え」と何度も流れてきた。しかし彼女は"戦うこと"を拒んできた。
だが、今は違う。この身体には何の縛りもない。この腕には、自由がある。
「――っ!」
彼女は拳を握りしめる。指先に力が入る。全身に巡る魔力が、これまでとは違う形で脈を打っているのを感じた。
(……こんな感覚、初めて)
それは、かつて"神"と呼ばれた自分ですら感じたことのない"解放"だった。
「フッ……」
スドウが短く笑う。その瞳には、どこか懐かしさと喜びが滲んでいた。まるでずっとその瞬間を待っていたかのように、彼女は息を吸い込む。恐れはもうない。もう、何も。
その瞬間、二人の間に走るのは理解ではなく――"確信"だった。
「……世界は今、大混乱となっているはずだ」
スドウの声が低く響く。
「俺達はようやく本当の意味で人間になれた。……だが、世界は変わってない。むしろ以前より最悪な状況となっているはず」
マキは静かにスドウの言葉を聞いていた。
表情は柔らかいままだが、その瞳には微かな迷いが見える。
「……それって、どうして?」
スドウは彼女を一瞥し、続ける。
「……俺はアスフィから離れた。これは俺の……最悪を想定したことなんだが……いや、流石にないか」
マキは少しだけ首を傾げた。
「……言って」
「……え?」
「スドウくんのこと、信じてるから」
彼女の口調はいつもと変わらない。だが、その言葉には確かな強さがあった。
スドウは数秒、彼女を見つめ――小さく息を吐いた。
「…………多分、今まで混じっていた奴らは別々に分かれたと思う。例えば俺やマキ、お前のようにな」
「……我も?」
「…………お前、その喋り方は治らないのか」
「……あ……長いことずっとこの話し方だったから。ごめん、私……うん、言い慣れない」
マキはふっと苦笑する。スドウは少しだけ眉を寄せたが、すぐに目を細めた。
「いや、謝ることはない。……だが、それも理由の一つだ」
スドウは彼女の様子をじっと見つめる。
「お前のその喋り方はゼウス・マキナのものだ。だが、今お前の中にゼウス・マキナは居ない」
マキの目が少しだけ揺れる。
「え……じゃあ」
「……ああ、ゼウス・マキナはこの世界のどこかにいるはずだ」
マキは少し息を呑んだ。
「それがどんな姿形をしているのかは分からない。お前と同じ見た目かもしれねぇし、違うかもしれねぇ」
「……探さないと、だね」
マキの声は落ち着いていた。その目には、しっかりと理解している意志が見える。
「でも大変そうだね」
スドウは短く息を吐く。
「大変で終わればいいがなぁ」
「……?」
マキは問いかけるようにスドウを見た。
「問題はここからだ。アスフィの中から複数の人格が生まれた。それは以前の世界でゼロから生まれた者や、あるいは違う世界から混じった者と様々だ。そしてその一人が俺だ」
スドウの声がわずかに低くなる。
「俺はフィーであり、スドウケンイチだった。だが、どうやらそのフィーが俺の中に居ない。つまり、フィーもまた今の俺達と同じ様な状況になっているはずだ」
マキは少しの間考えて――ふっと息をつく。
「……ややこしいね」
「……お前なぁ」
スドウは思わず苦笑した。
「要するに、今この世界には『アスフィ』、『フィー』、『スドウケンイチ』が居るってことだ。あくまで可能性の話だが、恐らく間違ってはいないはずだ」
「……わぁスドウくんがいっぱいだね」
マキは目を細める。冗談めかしているようで、でもその言葉には妙な真実味があった。
「そしてこれが一番最悪なカードだ」
スドウの表情が険しくなる。
「幾度も世界の絶望を体験したもう一つのアスフィの……いや、俺の人格であるジョーカー的存在、『道化のエーシル』。こいつもまた存在するなら自体は深刻だ」
マキの表情が僅かに強張る。
「……エーシル」
「オーディンが言っていた」
スドウは低く呟く。
『……エーシル、彼は君が何度も改変を行った末に生まれた化物だ』
マキはゆっくりと瞳を閉じた。
「……つまり、俺とマキで今度こそ世界を元に戻す」
スドウは静かに言った。
「その為には、俺やお前の人格達、そして仲間が必要だ。探すぞ。時間は有限だ」
マキは少しの間だけ沈黙し――
「うん、任せて」
いつものように、柔らかく微笑んだ。その瞬間、運命の歯車が再び動き出した。
勇者一行が動き出したのと同じくして――
ここでもまた、新たな旅が始まる。